オースティン生前未発表の作品について


http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Jane_Austen/juvenilia.html
の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。

ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン生前未発表の作品について




「わたしのその生意気なところが、お気に召したんですの?」

「いや、あなたの心の、そのピチピチしたところがでしょうね」

――という中野好夫訳『自負と偏見』での、エリザベスとダーシーのやりとりが好きだ。

(原文は 「the liveliness of your mind」は直訳すると「あなたの精神/知性の活発/軽快さ」か)

 この訳者によれば、ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)の時代の「小説は、大きく言ってすべて娯楽文学」だという(新潮文庫の解説)

 娯楽小説は人を深刻に悩ませない。だから、社会構造や女性の生き方、結婚によるハッピーエンドなどに懐疑をあらわさず書いてよいのだろう。

 日本でも、オースティンはさかんに研究されている。しかし、一般でのオースティンの人気は“今一つ”みたいだ。

 その理由には、物足りなさ、硬さがあるのかもしれない。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』は雷光のようだし、シャーロットの『ジェイン・エア』はまじめな大ドラマ、ヴァージニア・ウルフの『ミセス・ダロウェイ』(ダロウェイ夫人)は斬新な実験作だ。

 それでも映画・テレビドラマ化された6つの長篇小説はともかく、それ以外の作品となると、知名度はかなり低い。オースティンが好きだという人でも未読だったりする。(わたしも『ジェイン・オースティンの手紙』は未読なので同じだ)

 たとえば『説得』がオースティン最後の作品と紹介されたりする。もちろん完成作としてはそうだけど。

 しかし、ほんとうの最後の作品、絶筆『サンディントン』も読まれてほしい。つぎつぎに提示される謎に惹きつけられる作品だ。書き手が重い病気に罹っていたにもかかわらず"病む者"への諷刺がすばらしい。軽やか。

 この『サンディントン』は、それまでとはやや異なる方向を示しているのではないか。ヒロインの恋愛が描かれないのだ。必要性も感じられない。

 シャーロットは新しい土地へ行って、いろいろな人間に出会っている。オースティンの長編はどれも、ヒロインの人を見る眼の獲得と、結婚の成就を描いている。『サンディントン』はもしかしたら、前者における少女の成長だけを描くのではないか。そして、観察に優れた少女が物書きになったりして。

 一方、デビュー前の作品群「初期作品」も、天才少女はこういうものを喜々として綴っていたのか、といううれしい宝の山だ。

 ただ、後の作品とのギャップに直面する。そのような点での極北的な作品が『レイディ・スーザン』ではないか。

 姉カサンドラ・エリザベスがジェインの手紙をたくさん抹消してしまった時代である。ジェーン自身、未亡人になったばかりの主人公(30代後半)が自分の恋愛にも娘の結婚にも手管を弄して成功していく「勧悪懲善」小説を出版しようとは、考えていなかったかもしれない。

 けれども残っているのは30代での清書原稿だとか。わたしにはそれが「出版して世に問いたい、おなじ考えの人と共感を分かち合いたい」という彼女の願望と、作品への自負がつまった遺言書、遺愛の品にも見える。

『レイディ・スーザン』のような生前未刊行の初期作品も、現代でなら大人の作家によるものとして、十分受け入れられるはずだ。

 『美しきカサンドラ』を絵本にしたらどうか、という意見を聞いたこともある。

 この『美しきカサンドラ』は、ほほえましいストーリーだ。

 しかし、美しきカサンドラお嬢さん、犯罪行為を重ねた不良少女の成長した姿こそ、わたしのお気に入り、スーザン令夫人かもしれない。

 愛と生活の獲得において、人の偽善、高慢を見抜き、怜悧な知性と美貌を武器に戦い抜く彼女の“悪女”ぶりは、却ってまっとうに見えて、今の時代において共感を呼ぶのではないか。

 訳者の惣谷さんももちろん彼女を肯定的に捉えている。わたしがこの本に興味をもった『ジェイン・オースティン伝』でも、トマリンはこんなふうに記している。


これ以前に書いたものとも、その後に書いたものとはまったく似ていない。この小説が地方牧師の娘のペンから生まれたことには驚愕させられる。

男を食いものにする女性を創りあげ」「その邪悪さは本物だが、同時に非常に魅力的で楽しい女性でもあるので、つぎつぎと餌食となるのろまな相手との闘いを追っていくうちに、読者は彼女のほうに共感をおぼえてしまう。

彼女は自分の魅力を最大限に利用して、恋人、友人、家族を問わず、相手をまるめこみ、裏切り、痛めつけていく。(略)力こそが喜びなのである。

知力と意志力がほかのどの登場人物よりも勝り、退屈な環境に生きる自分があたら能力をむだにしているという意識をもつ大人の女性を描いた習作は、オースティンの作品のなかで異彩をはなっている。



 初期作品に見られるおもしろさや、快活さ、「ピチピチ」した感じにあふれたテレビドラマ、お芝居、映画などの売れっ子作家として活躍するオースティンを夢想したりする。それに現代人であれば、不惑を迎えたばかりで命を落とすこともなかっただろう。

 ウィリアム・シェイクスピアが現代の作家だったら、創作活動に厳しく舌鋒鋭い論客であり、わたしは親近感をもたないだろう。

 対して、オースティンにはメディアを通じてお会いしたいくらいだ。

 熱い称賛を浴びることなく、30歳で亡くなったエミリ・ジェイン・ブロンテには、あの時代、あの場所での人生しか想像できない。

 ところが、オースティンは生活にも家族にも、ブロンテ姉妹のような深刻な悩みはなかったようだし、作品は生前評価されていたにも関わらず、現代に生まれたほうが幸せだったかも、などと思ってしまう。そういう考えがピークに達するのは、つぎの文章に接するときだ。


ドゥーディーは、オースティンの初期作品に見られる特徴として、人間の持つ貪欲さや暴力性、カニバリズム的描写、犯罪的な手段を使って平気でお金を手に入れることなどをのびのびと直接的に描いていることを挙げている』。『何度も出版を断られた経験から、ジェインは読者というマーケットを意識するようになり』『先に述べたような特徴的なものを次第に作品で描かなくなったのではないか(略)自由な発想や想像力は抑圧され、彼女は我慢しながら周りに合わせた作品を書くようになっていってしまった
『美しきカサンドラ』の「あとがき」向井秀忠氏より

 トマリンも『ジェイン・オースティン伝』でつぎのように記している。


(『レイディ・スーザン』の後)多少とも似かよった作品さえ試みなかったという事実は、オースティンが女性の邪悪さ、とくにセクシャルな邪悪さに惹かれていく自分の想像力の一部を封じ込めようと決心したことを物語っている

マーガレット・アン・ドゥーディー(Doody)の論の紹介にもどると、


ジェインの発想力をラブレーディケンズにつながるものとしてG・K・チェスタトンが評価したのを受けて、ドゥーディーはそれがイタロ・カルヴィーノホルヘ・ルイス・ボルヘスといった二十世紀の作家たちにもつながるほどの力強さと奔放さを持っていたのに、彼女をとりまく時代の風潮がオースティンにその想像力をしぶしぶ放棄させることになったのだと結論づけている。

 現代に生を受けていたら、わたしが思い描いていた一般人向けコメディーの脚本家どころではないようだ。

 当時刊行された作品に見られる道徳観は成人として必要だ。無ければ、偉大な作家の風格がない。――こう思うわたしの言葉は、18世紀の風潮にいまだ浸され、オースティンより遥か後方にいる証明かもしれない。

 しかし、オースティンの小説が200年の寿命を保ち、娘や孫のような派生的創作物、映像作品、研究所などともども、文化の異なる極東の島国にまで伝播し、受容されているのは、「硬」の要素があるからだ。

 娯楽文学/小説には「硬」〜「軟」まで、広〜い幅があるのだ。

 オースティンの時代に刊行されなかった未発表の作品によって、オースティンへの理解は深まっていくだろう。さまざまな要素を包含する娯楽文学、オースティン文学は時代を超えて読まれていくと信じている。



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