高木和子著『源氏物語を読む』を読んで~好感度の高きも低きも~ 

 『源氏物語を読む』(岩波新書)は桐壺巻~夢浮橋までの全巻のあらすじを中心に書かれていて、それで終わる。すっきりとしてシンプルな入門書かもしれないけど、とてもおもしろい。久しぶりにこういう本を読んだ、と思った。源氏物語について、エッセイではなくて、知見の書かれた本を。

 それでも、自分が思うことを書き足したくなった。研究者の本に対して。恐縮ながら。

 以下は、本の余白へのメモ代わりである。(引用は一部省略した箇所もある)

 

明石君の好感度はなぜ低いのか?

<桐壺巻の「先帝」の血筋――藤壺中宮、紫上、女三宮は、なんと重要な人々か。桐壺帝、朱雀帝、光源氏三者は、「先帝」系の血筋の女たちを自家の系譜に取り込もうと躍起になっているかに見える。そして、先帝の子の兵部卿宮はおよそ皇位継承の可能性はなさそうである。>(若菜)

 源氏物語は女性が期待され、家を繁栄させる物語である。それはとりわけ、明石君に顕著である。

<父の入道が家の将来を託すべく祈願してきた>(若紫)

 そこまで父親から家の再興、栄華を期待され、力を注いで育てられた娘が当時、いただろうか? 酒井順子さんの『紫式部の欲望』の表現を借りれば、“父親から期待されたい!”という欲望を感じる。それは作者の「そうではなかった」過去から発せられる強烈な叫びかもしれないし、国母となる決意を持っていた彰子はむろん、読者である貴族階級の女性に広く受け入れられた願望かもしれない。

 紫上は愛せずにいられない登場人物ではあるが、理想的過ぎて像がぼんやりとしてしまう。一方、明石君の像は極めてくっきりと結ばれる。

<気位が高く、自ら返事をしようとはしない>(明石)、<梅の折枝に蝶や鳥の飛び交う唐風の白い小袿に、濃い紫の艶やかな袿>という<格調の高いもの>が似合い(玉鬘)、元日から<香を焚きしめ、和歌の手習、古歌を記して物思いを紛らわせていた様子で>努力を怠らない(初音)。

娘が後宮に入れば実務的な手腕を発揮する。と、こういう成功した女性、キャリア・ウーマン(死語か)みたいな女性は、実際にいたのだろう。

 身分は低く、中央から遠い所で生まれ育ち、とうてい成功の見込みは少なかったが、貴人の男性と関係を持つ幸運を掴む。子どもと一緒に過ごせる時間も取り上げられ、妻妾の中でも劣位に置かれるが(明石「君」という呼称)、娘を産んだことを主軸に、忍耐と才知でもって、最終的には高い地位を占める。

 <子のない紫上にとって、実母明石君が表舞台に現れたことも、やがての立場の暗転を予感させる>(藤裏葉)。<次第に明石一族の栄誉が確実になる中で(略)紫上の限界がせり上がってくるのは否めない>(若菜)

 紫上が幸福であったのは「物語」だからに過ぎない。対して、明石君は人物像も話の流れもリアリティがあり、現実の宮廷や上流貴族の邸で、権力を振るっていた女性たちを想起させる。

 一方で、父親の明石入道の関わるエピソードは神がかっている。まるで神話である。

光源氏のもとに桐壺院が現れたのと同様、明石入道のもとには「さまことなる物」が現れ、十三日には霊験を見せるから船を用意して、雨風がやんだらこの浦に寄せるように、とのお告げがあったという。(略)住吉の神の霊験譚の仕立てである>(明石)、<明石君が誕生した折、須弥山を右手に捧げ、山の左右から月日の光が照らしている夢を見たこと、子孫の栄華を確信したこと>、<若紫巻以来の明石一族の数奇な「宿世」の脈略>(若菜)

 神話に保証されたシンデレラの物語。身分の低い女性たちにとって、最強の成功物語だろう(神話性とハイスペック)。しかし、わたしにとっては、現実的な行動力に満ちた明石君は魅力に欠ける。幸福でない年月も多く、人生も羨ましくない。

<世の人は明石尼君を「幸ひ人」と言い、近江の君は双六を打つ時も、「明石の尼君、明石の尼君」と唱えて、よい賽の目が出るように乞うた>(若菜)

 明石尼君の人生も、本質的に幸福であったか? 十三歳で妊娠すること(明石姫君・明石中宮)は幸福なのか? 筆致からは、作者も真の幸福と思っているようには感じられないが。ただ、神の加護ある人々が主人公である「説話」(本書)としての話の流れ、結末、型なのだろう。たとえば、十三歳で妊娠、出産も、神の恩寵により死なない人々であるという保証と、若すぎるのに帝寵を極めて皇子を得る、という後宮での最大幸福を描く物語との融合なのだろう。

 なぜなら、この“伝奇物語”では、冒頭からして実に多くの女性が、子を残して死ぬのだから(登場時点で親の無い女性の多いこと)。

 明石君の物語は、現世(うつしよ)における幸福(現世利益)が盛り沢山で、それは説話の型なのだろう。作者の書き方には、例えば空蝉に対するような作者の惚れ込み、近さ、没入が感じられないように思えるが。 

 

 末摘花への嫉妬

 明石君と同じく、これまた実際に似たような女性がいて、しかし、紫式部が嫌悪を露わに馬鹿にして書いた女性の代表は末摘花だろう。身分は高いものの、頭もセンスも悪いモデル(ミューズ)たちが周囲にいて、頭に来ていたのではないか。教養と才能なら自分たちの方があるのに、身分の高い家に生まれたというだけで優位を占め、得をしている女性たち。

 作者によるこき下ろしは徹底的である。既得権への反感のためか、醜貌と貧窮の極みに設定された末摘花の物語は、働いている知的な仲間内でどっと受けたのではないか。

 作者の冷たい目、皮肉の効いた薄情な筆致は冴えている。少女時代から鍛えた文筆の力を振るい、ノリに乗って書いたように思われる。色好みの光源氏に対する仕返しみたいな面白さもある。<いわゆる〈をこ物語〉である>(末摘花)

 ただ、末摘花の物語は、現代の人にとって滑稽譚なのか? わたしは明るく笑えない。今の観点からすれば、末摘花には障害があったのではないかと思われる(枕草子にもそういう話があるし、現代小説でも、発達障害で苦しんでいると思われる人物に、冷たい仕打ちをするようなものがある)。また、当時の格差社会・身分社会と、実際に多かっただろう没落、という社会の闇にも暗澹とさせられる。

 歳末に“夫”(と本人が思っている唯一の人物)へ“贈る”(と本人は心から思っている)衣装の選択、贈り方に、社会常識が欠落していること。社会生活の仕方を教えてもらえるネットワークにいないこと。それらは笑うべきなのか。むしろ、嘲笑されることに痛さを感じる。

 ただし、末摘花の物語は、蓬生巻での聖性(うまく言えない、古き良きもの、貴きものを守る聖なる物語か)を経て、生活の安定という結末に回収される。どうしても補えない生来の性質を持つ者でも、<変わらぬ誠実さ>(蓬生)によって報われる社会であってほしい。その願望を実現するためにも<光源氏の王者性>(本書)は必要だったのだろう。

 

 六条院に住みたい!

 光源氏の備えているさまざまなハイスペック、理想のうちで、わたしが唯一親近感を覚えるのは、生活保護的な面のようだ。

 当時は障害(軽いものも含む)や無知に付け込まれ、元いた階層から転落し、悲惨な末路を辿った者も多くいただろう。高い才能を持ちながら、親(実親を含む)に虐待されたり無視され、才能を発揮できないまま沈み、埋もれ木のごとく人生を送った者もいただろう。

 紫上は光源氏に育てられたために、最高の教育を受けることができた。(肉親、血縁者など要らないのだ)。六条院は庭園が美しく、四季折々に文化的な行事が開かれる<四方四季の聖なる空間>(篝火)、<光源氏天皇にも匹敵する王者性の象徴>、<宮中の年中行事のごとく趣向を凝らした催しを営む>(少女)場所。

 収入を得る苦しみと無縁で、文化的な生活。そこで気の合う人々と暮らせたら、最高ではないか。枕草子の夢が物語に実現されている。ただし、寵愛の競争、序列、ランキング化がなければ。

 源氏物語がわたしを強く惹きつけつつも、苦しさをも与えるのは、女性に経済力がないこと、に尽きる。源氏物語に表されている理想は全て素晴らしいのに、その実現は“王”に頼らなければならない。王は男で、源氏だけだ。

 もちろん、何も持たない孤独な人が愛される物語(紫上の物語、かつ、若き源氏の物語)は大切だ。孤独な皇子が頂点に昇り詰める成功物語(藤裏葉まで)も、栄華に満ちた邸宅での生活の話(玉鬘十帖)も大好きだ。けれども、源氏物語の女性が直面する問題は、「この人に経済力があったら」と思わされるものばかりなのである。

 この点で、源氏物語には最初から限界がある。源氏が上昇していく過程では、その後の展開に希望の可能性が残されていた。しかし、栄華の段階に至り、そこに耽溺しているうちに、物語の内部からは、なぜか、栄華のシンボルである六条院の外へ、外へと向かわせる力が働いてくるように思う。

 源氏の物語を終わらせる紫上が最後を過ごした場所は二条院だった。それは暗示の一つか。あまりに暴力的で恐ろしい物語が、夕霧を主人公に描かれるのはそのためか(落葉宮の物語)。ともあれ、最後の物語は宇治の物語である。正確に言い直せば、ほぼ宇治と小野の物語で、いずれも洛中ではない。

 洛外――源氏が流謫の地と感じ、そこからは戻りたがった場所――を舞台として、貴族社会――源氏が戻りたがった場所、次々世代の薫も匂宮も無自覚に戻り、常住する世界――の閉塞性が照射される物語である。

 

 紫上の恐ろしさ

 <幻巻で際立つのは、紫上の女房の中将の君の存在である。(略)光源氏の晩年のひと時の慰めを、端役の女房が担うところは興味深い。>(幻)

 女房であるところに、作者や読者の指向、理想が見いだせるのかもしれない、と気づかされた。最後の“女君”は女房。

 ただ、現代の一般的な感覚からすると、階級差は微細なものに思えてしまい、「中将の君の物語」は、源氏が死(退場)へ向かうまでの挿話としての存在感が大きい。現実には、確かに愛妻だった人が死んだ後に、様々な騒動が巻き起こるものだろう。だが、「中将の君の物語」は、光源氏の色好みの面をどのように落着させていくか、の形なのではないか。だんだん小さく、微弱になっていくような。

 夕顔、葵上、藤壺六条御息所。多くの女性が死んでも、それまでの光源氏は再生してきた。生き直してきた。別の女性のお蔭で。神のように。けれども、それがもうできないこと、決して誰もが、いずれは生き直せないことを描いているように、わたしには思われる。

 源氏の老い、衰えは若菜巻より随所で語られている。女三宮をめぐる物語に明瞭に見える女三宮への執着は、若さへの渇望、回春の願いに思われるほどだ。光源氏の周囲の人間は、源氏の常若(とこわか)的な美しさを称賛し続けているけれど、彼自身は知っているかのようだ。

 昇り詰めた地位にふさわしいトロフィー・ワイフを得て、その若く美しい妻が子どもを産む。そんな現実は当時も多くあったのだろう。物語であれば、最高の結末だ。しかし、この「物語」では違う。(柏木の子であることにも、忍び寄る衰退が関係していないか)

 そして、女三宮・柏木の出来事が意味するものの大きさ、恐ろしさを知っているのは源氏だけである。かつて藤壺と密通し、産まれた男児を帝位に就けた人。最大の輝きに包まれながら、人生の終期に至って、急に暗い陰に覆われ、人生が傾斜していく展開。

 女三宮=柏木=源氏の話にまつわる卑小さ。誰も立派な人間がいないこと。背徳の美と崇高な愛を高らかに描いていた藤壺物語との重なり、暗転はおもしろい。(卑小な喩えであるが、青春時代の武勇伝の実態みたいな)。

 ただ、源氏は父帝も気づいていたのではないかと愕然とし、改めて桐壺帝の人としての大きさを思う。こういった源氏の奥行きのある思考には、旧来の説話に基づいた物語からの飛翔が見られるのではないか。

 一方で、深い洞察のできる源氏が若い柏木を“殺す”。その時の言葉の一つ、「逆さまに行かぬ年月よ」は名言であると思う。秋に倒れ、冬に枯れた草木でも春になれば再生する。春を迎えれば何度でも。春夏秋冬と、らせん状に生きていく。けれども、人は直線的にしか生きられない。

 「逆さまに行かぬ年月よ」という自身の言葉のままに、源氏も退場口へ向かう。

 紫上は社会の犠牲、普遍的な人生の悲劇の象徴のような、かわいそうな人ではあるけれど、最後に、死の女神のような力を持って、源氏の生命を連れ去っていってしまったように思われる。源氏にある種のあわれみを感じ、ある種のやさしさでもって、大きな翼で庇うようにして連れ去ってしまったように。ただし、死への道連れと言っても、復讐ではなく。

 源氏物語の本当のヒロインは、藤壺であると円地文子さんは書く(『源氏物語私見』)。内面に葛藤を抱えて気高く生きる女君であり、円地さんのいう意味ではその通りであろう。確かに、紫上は作者にあまりにも愛された登場人物であり、愛を集められ過ぎたがゆえに、憧憬の眼差しで仰ぎ見る人物に達せず、可愛いばかりの人形めいたところがある。しかし、<人物造型の変容>(蓬生)は、源氏物語の特色である。

 「さは自らの祈りなりける」。このつぶやきに、わたしはどうしても惹かれる。<かくして紫上は、心のままに甘え、喜びも嫉妬もぶつけて伸び伸びと生きてきたこれまでとはまったく異質の、成熟した大人の時間を生き始める>(若菜)。その行き着いた心境が結実している言葉だ。

 最高に幸福であった紫上が、あのような晩年を迎えるのは、つらい。ただ、病妻物、病により愛されながら死ぬ物語に回収されたところが、わずかな救いだろうか。一方、源氏も最高に幸福であったのに、暗黒に貫かれたような晩年に置かれる。ただ、最後の場面では<光源氏の生来の光り輝く資質が、物語の最後に確認される>(幻)

 この点でも、紫上=源氏の二人は非対称な面を持ちながらも、――藤壺との秘密、女三宮の過ち、二つの不倫をめぐる苦悩を共有することはないけれど――、最後の“対”ではあろう。男神と女神。

 地に在りては連理の枝、天に在りては比翼の鳥。時間はずれるけれども、紫上と源氏とは共に天へ駆け上がり、物語――限られた地上の時間――から離れていったように思われる。その契機となったのは、紫上の死であり、冥界、もしくは、時の止まった永遠の世界へ連れていくという意味で、紫上の巨大さ、何か恐ろしさが思われる。 

 

 紫式部は嫌いなのに魅力的な人たち

 作者が愛し、力を込めて書いた登場人物は源氏、紫上、藤壺中宮、空蝉らであろう。これらの人物には深い内面性が描き込まれ、立体的な人物になっている。ところが、反対に作者が敵役、低劣な者のように、さっと平面的に描いたに過ぎないのに魅力的な人物がいる。

 その第一は、弘徽殿女御と近江君である。

 <神など空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし>(紅葉賀)。誰もが源氏(ある意味、外道)にうっとりとしている中、冷静に批評する雄姿!

<「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなることはさぞはべる。軽々しきやうに思し驚くまじきこと」(略)弘徽殿大后の気丈で正気な感覚が際立つ。実は弘徽殿大后こそが、常識人だともいえようか>(明石)。

 全くその通り! 実際には優秀な人ではないだろうか。家長のような人で、判断力がある。油断ならない政敵(源氏)を素早く排除し、右大臣家を繁栄に導いていった手腕。見事な政治家だ。藤壺中宮も冷酷な政治家だが、わたしは熱くて人間味のある彼女の方が好ましい。

 もしかしたら、桐壺帝から始まったらしい新しき皇統は、彼女の力あればこそ確立されたのではないか。ドラマなら憎々しい敵役・悪役であるが、『大鏡』に出てくる、政治に関わった藤原氏出身の后(天皇夫人)たちが想起される。

 近江君の物語で最も印象的なのは、頭中将一家の冷たさである。現代のリビングみたいな場所で、姉(女御)や兄(柏木)をはじめ、きょうだいと共にある場面は、上流家庭の冷酷さに満ちていて、恐ろしい。栄達に役立つ価値がない、とわかった途端に見放す父親もひどい(現実によくあったのだろう)。

 市井に育った近江君は確かに、宮廷社会の価値観を身に付けていない。物語ではおバカな田舎の女子中学生みたいに描かれているけれど、実際にいたら、とってもひたむきで好感の持てる人ではないか。異腹であろうとも、育った環境は違おうとも、家族の愛を信じ、誠実に尽くそうとする。何でもやります!と宣言して努力する。現代のドラマ、現実の庶民の世界でなら、主役的キャラクターではないだろうか。

 

 以上が、紫式部は「こんな人たちで最低でしょ」と決めつけたように描き、いやな思いをさせているのに(バッドエンドまで用意)、「いやいや、現代では好感度高いでしょ」と言いたくなる二名である。ところが、源氏物語最後のヒロイン浮舟は、好感度が相当低いのに、不思議に最高の登場人物である。

 たぶん、物凄い美人ではない。頭もよくない。教養も才能もない。平凡な人。血筋も大してよくはなくて、田舎者(北関東育ち)そのもの。これまでのヒロイン属性は皆無なのだ。けれども、この「普通の人」が生きていく様が、とてもいい。宇治の姫君の物語があるから、源氏物語ノーベル賞級だと思う。 

 ――と、お蔭で源氏物語について、つらつらと喋りたくなる、すばらしい本。新鮮な刺激を与えてくれる。高木和子著『源氏物語を読む』(岩波新書)