発達障害じゃない? 『語りなおしシェイクスピア3 じゃじゃ馬ならし ヴィネガー・ガール』アン・タイラー、鈴木潤訳、集英社(ホガース・シェイクスピア・シリーズ)

作者(Anne Tyler)が著名な小説家であることも(ピューリッツァー賞受賞)、ヴィネガー・ガールという言葉も、まったく知らなかった。

手に取ったのは「語りなおしシェイクスピア」シリーズだったから。

 

最初の読後感はあっさりしていて、「テンペストの語り直しである『獄中シェイクスピア劇団』」の方が面白かったな」というもの。

ところが、訳者の「あとがき」や北村紗衣氏の解説を読んだら、俄然面白く、魅力的に思えてきた。

これこそ、小説そのもの。

ジェイン・オースティンの同類。

 

『獄中シェイクスピア劇団』(マーガレット・アトウッド鴻巣 友季子訳)は明らかな喜劇で、元大公のプロスペロー(フェリックス)や、キャリバン――『テンペスト』で誰もが居心地の悪さを感じ、気になるだろう“怪物キャリバン”――が最後にはいい目を見る痛快な展開。

死と再生に関する部分も心に沁みる。

一文一文がくっきりとしていて、そこここに成功エピソードが散りばめられ、読んでいる間、楽しく心地いい。

 

一方、『ヴィネガー・ガール』は違う。

どうしようもない人々、癖のある人々の微細な感情、ふだんは隠されているわだかまりがささやかに、ささやかに姿を現してくる。

鬱屈した人々、未来に展望の見いだせない環境は、多くの人が身につまされるもの。

アリス・マンローの短編もそういう風味があり、結末に苦みや寂しさの残るものもあった(特に、小規模の都市や、斜陽の田舎が舞台であると)。

『ヴィネガー・ガール』は読み終わってみると、救済、希望が広がっている。

これはすごいことだ。

 

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』のことは覚えていない。

そもそも、夢落ちだと思っていたけれど、劇中劇(シェイクスピアが好きな書き方)だったようだ。

有名なエリザベス・テイラーの映画をテレビで偶然見たような気もするけれど、それは大柄な女優と、同じように大御所っぽい男優の自信に満ちた応酬で、原作の印象とも本作の印象とも違う。

『ヴィネガー・ガール』のケイト(キャサリン)・バティスタも、求婚者の外国人ピョートル・スシェルバコフも、どこかにいそうな、リアルな人なのだ。

か弱く、意固地で、さびしい人々。

ケイトは30代目前で、ピョートルも仕事上の先行き不透明。

 

興味深いことの1つに、ケイトは現代日本では自閉症スペクトラムアスペルガーASD)などと決めつけられそうな女性なのだ。

特に前半に繰り返し描かれる、彼女の置かれたどん詰まりの状況、かつ特殊性を示す出来事は、即座に「障害」とか「生きづらさ」とはっきり宣告されそうなもの。

また、父親も同じであるし、夫より社会的立場が弱かったらしい母親の鬱状態はいわゆるカサンドラ症候群だったのかもしれない。

ピョートルにも、いかにもな描写が頻出する。

対して、妹のバニーや、ケイトの勤務先(保育園・幼稚園)のスタッフや通園児はいわゆる定型発達そのもの。

けれども、本作は発達障害に関する語句も使わなければ、匂わせもしない。

ケイトら孤独な少数者の身の上(母親の自殺、研究環境の劣悪さ、外国人の孤独、ヤングケアラーの強制、女性の退学等々)を社会問題としても扱わない。

ただただ、「ふつうの人」、そして「幸せになるべき人」として描く。

 

日本の現代小説の個性的な主人公は、――いや、映像でも何でも日本の多くの作品の主人公たちは、極めて個性的でありながら、発達障害ではない。

「障害」は発生しない(例えば、どんなに多動で衝動的、大声で放言癖のあるキャラクターでも)。

「生きづらさ」は青春や人生の哀歓に重ねられ、物語の昇華、カタルシスに吸収されてしまう。

現実に「自分は個性的だ」と自覚している人、自分の特殊性に悩み、孤独感に日々苛まれている人にとって、日本の創作のキャラクターの多くはモデルにならない。

悲しいことに、日本の小説は必ずしも人生について教えてくれるものではない。

 

けれども。

『ヴィネガー・ガール』は違う。

ヴィネガーを抱えている人は、アスペルガー女子やアスピー女子などではない。

ただの、小説の一登場人物なのだ。

そして、ケイトは主人公なのだから、当然、幸福になるのだ。

 

小説とは何か。

シンプルな定義を教えられた感じで、自分にとっては新鮮だった。

 

 

作者は原作が嫌いだそうだが、やっぱり『じゃじゃ馬ならし』の読解、読み解きといえることも面白い。

批判的な書き換え万歳。

 

前近代の作品の翻案は、王や伯爵などの絶対的な支配者が不在なので難しく思われる――擬古的な中央集権社会や、逆に民主的な社会が舞台のファンタジーに接すると、いかにしてその強固な社会制度が維持されているのか、気になってしまう――、けれども、現代では本作みたいな科学の世界、ユーリツェー『人間の彼方』の医学の世界、インターネットでの高い評価が、権威や権力なのかな。

 

学歴や都会、インフルエンサーなんか人間性、人の価値と関係ない、と思わされる『人間の彼方』もよかった。

さりながら、子どもたちと家族、庭の世話から脱出し、学校に戻り、研究キャリアを駆け上がっていくケイトの格好良さ。

世界の中に入って、堂々とし、颯爽としている女性(!!)――という感じで、2回目の読後感は最高。

 

あ、ヒロインは基本的に変わっていません。

「ライフ・ハック」なんて身につけません。

インターネット検索もしません。

‥‥‥これって、すごいことなのでは?

発達障害の氾濫(とりわけ出版物、インターネット)の中では思ってしまう。