『日の名残り』は皮肉っぽくていいとは思わなかったけれど、この小説はノーベル賞にふさわしいと思った。
忘れられないから。
一番のテーマはたぶん「ロスト(lost)」で、ロストされたもの、失われたものへの切実な気持ちだと思う。
還らぬ青春や学校時代、それから、放棄され、無住になり、荒れ果てて、失われたふるさとや、閉校となった小さな学校。
『わたしを離さないで』は、樋口一葉「たけくらべ」の近未来世界版。
けれども、それを十分に描きつくすための設定であるような、臓器提供のドナーとしてだけ生かされた少年少女と若い男女のことが、今はいろいろと思われる。
というのは、同じようなことが、現実には牛や豚や鶏に対して行われているではないかと。
例えば、深夜のコンビニで売られている、労働に疲れ切った人間のお腹を満たすためだけのチキンの揚げ物。
あれは、生きていた鶏のどこだろう?
鶏の姿をみじんも感じさせられないモノに化されて、大した価値もないように扱われている。
腹を空かせた人間の腹へ放り込まれたら、この世から無情に消える。
感謝なんか、されない。
記念日のお店のコース料理の一品に対するような、特別な思い出もまとわない。
かつて見た公立学校の養鶏場では、ぎっしりと鶏が一列に並ばされていた。
それは実は、一羽と一羽の前後横に仕切りがあるからで、だから、身動き一つできないし、すぐ隣にいる鶏のあたたかい体に触れることだって、できやしないのだ。
わたしが恐ろしいと思うのは、鶏が押し込められている――物のように整然と設置されている部分の金属製の網。
その下部、底部。
網だから、糞尿は下へ落ちて済む。
それから、適当な大きさの穴が空いていて、卵は産まれるや下のレーンに静かに落ちる。
何て、人間にとり、管理が楽な装置だろう。
金もかからない。
でも、鶏が自分が産んだ卵を抱くことはない。
仮に若いメンドリの中で、母性のようなものが芽生えていても。
本能的な衝動を感じていても。
しかも、忘れられないのは、上品なクラシック音楽を養鶏場全体にかけられていたこと。
モーツァルトみたいな(ベートーベンの「運命」みたいに劇情を喚起する曲ではない)
その音楽は働く人間のためじゃない。
鶏のためにいいんだって。
――これが学校の養鶏場について書くことの全部だけれど、ここに書いた多くのことが『わたしを離さないで』の世界と類似していると思う。
最後は卵も鶏も、人間の腹へ入り、生命の維持に使われる‥‥
老牛を人間は食べず、若い生命を必要とする。
小説のクライマックスで、主人公のキャシーと、幼い時から深い絆で結ばれていた恋人のトミーは、郷愁の中の学校「ヘールシャム」のエミリ先生とマダム(マリ・クロード)へ会いに行く。
しかし、このキャシーとトミーが犬だったら、どうだろう。
犬が身近にいる人は、犬がすばらしい存在でしかないことを知っているだろう。
知的で、賢く、思いやりに富み、条件によれば多くの人間よりもすばらしい「犬格」を持っている。
幼い時は人間の子どもと同じで好奇心にあふれ、ちょっと怖がり。
それから、人間のように一人で成長し、分別を備えた中年の犬になる。
そういう犬の内面の成長は、人間と同じ類のものだ。
じゃあ、キャシーやトミーのように、繊細で内面の成長を遂げた二匹の犬が人間を訪ねてきて、キャシーやトミーのような依頼を必死で懇願したら?
――わたしたちは、マダムやエミリ先生のように答えたり、応対するしかないだろう。
あるいは、自分がしたことしか眼中にないエミリ先生はともかく、マダムのああいう反応だって、かなりましで、「人間的」なのかもしれない。
ペットや野生生物のかわいそうな境遇に涙する人は、現実でも少なくない。
一般的な犬の一生を考えてみれば、これも『わたしを離さないで』のクローンの育成と同じである。
心を養うための、親犬や同世代の犬とのつかの間の交流。
最近は避妊手術をするのが「常識」となっているから、子どもをつくらない――これもそっくりだ。
じゃあ、キャシーやトミーのような犬が懇願に訪れて、わたしたちは何かするか?
いや、今までと同じ世界を維持しようとするだけだ。
「現実は」「現実は」と、現実的なことを言い訳にして。
理屈はいくらでも言えるのだ。
もちろん、つらい現実から目を背け、ないことにして、もし目の前に現れても見ないようにして利用することだって。(鶏の生き生きした一生の可能性を想起させない、チキンの揚げ物一片のように)。
人間は利己的にしか生きられない、一生を通じて。
けれども、『わたしを離さないで』を読んだら、忘れられない。
自分が無気力に、無抵抗に、何の行動も起こさずに一生を終えるとしても。
かけがえのない内面を持つ「別の存在」、「別のわたしたち」、――何がわたしと彼らを分けたのか?
それは全くわからないから、実は等しい存在でしかない「わたしたち」の心のことは、忘れられない。
この本を読めば、数世代に渡って、数世紀に渡って、この本に書かれた大切なことは、一筋の光のように伝わっていく。
音楽のように。
ノーベル文学賞にふさわしいと思う。
音楽はこの小説で重要だ。
小説のなかの学校では、文学や美術が重視されているけれど、主人公に忘れられないいくつかの思い出をもたらし、マダムと主人公を結びつけたのは音楽で、それは流行遅れの歌謡曲である。
しかもカセットテープという、今は使われていない媒体に記録されている。
忘れられた歌手による古い歌、古いメディア。
でもその歌「Never Let Me Go」がこの小説では生きていて、読者は忘れられない。
本(日本版の単行本)自体、表紙には大きくカセットテープが表現されていて、厚みを持った本全体がカセットテープに見える。
普遍的な事柄を語るために実装された容器――語りも巧みだ。
それから、多くの人が体験したことのある、うまくいかないこともある学校時代。
同性の親友や幼なじみの異性との起伏に富んだ関係や、大学時代の様子(立派な論文を書こうと意気込んで入ってきて、人間関係に終始すること)、生きるために創作を開始することなんかも思い起こさせる。
学校における美術、文学(詩作、小説)の教育や創作が、本質的な生き方に関与しないことへの皮肉。
やることなすこと周囲の失笑を買い、癇癪持ちで、今でいえば発達障害を持っているようなトミーには、美術の才能なんかなくても、彼の存在価値はあったし、創作物を必要とした時すでに才能・技術が枯渇していても、彼には「生かされる」べき価値、キャシーやルースに愛される理由があった。
そういう文化への視線も興味深い。
それから、ルースやトミーやそのほかの登場人物、中でもわたしはコテージ時代のクリシー、ロドニー、――ヘールシャムのような、美術と文学に関する洗練された教養(ただし古典的な)を与えていた「学校」ではない施設で育った彼らのような人物なら、この物語をどう語ったのか、ということも想像させる。
水平に開かれた、オープンな想像を喚起する小説だ。
登場人物といえば、クローンであっても人間と同じ文化的な創造力をもつことに何かを感じ、「幸福」な幼少期を(ただし、それだけを)提供する活動に身を投じたエミリ先生と、彼女を学校の外の社会で献身的に支えたであろうマダムの、同性の愛や同志感に支えられた半生。
でも、この二人はクローンの解放や、制度の廃止を求めたわけではない。
違和感を覚え、人間的に行動したルーシー先生は、簡単に排除された。
この小説に出てくる「人間」たちは、牛や豚や犬や猫に対する今のわたしたちと同じだ。
だから、そういう現代人の空疎さを、皮肉な視線で描写することもできるだろう。
でも、作者が主人公に据えたのは、クローンで、その複雑な関係のただ中に生き、最後には真実を知り、それでも、外部によって設定された流れに回収されていくキャシーだ。
ルースとトミーは欠点をもつ脇役だが、自ら希望を持って、必死に行動を起こした。
ルースはキャシーのために「提供者」となって、死んでいったようなものだ。
トミーは真実を知った後、生を手放す。
変わってしまったトミーにとって、変わらないキャシーは耐えられなかったのか。
それは、キャシーが小説の冒頭で強調する「優秀な介護人」像への否定でもあるし、介護人制度の限界と、キャシーの語り・書き物が本当に正しいのか、という疑惑も示すだろう。
一見繊細で優秀で、最後に一人生き残ったキャシーの選択。
その先を想像すると、洗脳とか、洗脳による諦観という言葉もぼんやりと浮かぶけれども、最も強い感覚は、ゾッとさせられる、だ。
だいたい、庶民的なクリシーだってロドニーだって、同じように「前向きに」自らを死へ向かわせたのだ。
かけがえのない心を持ち、それぞれにひだの多い人生を歩んだ若者がみんな死の世界へと、抵抗も見せず、静かに去っていく結末。
この点では、作中のクローン・システム、健康制度も、エミリ先生らの教育も恐ろしいほどに成功している。
また、この小説では、子どもはキャシーの回想場面にしか登場しない。
「人間」が食べ物に困らず、健康で長生きできる、この近未来をいいと思う読者はいるか?
かけがえのない幸福や可能性が失われ、去っていくこと。
自分が幸福とは永遠に別れて、一生を終えることを知っていること。
そういう、多くの人にとっての普遍的な経験を全体に奏でながら、ディストピアである文明社会の人間の利己性と限界を、読者の心に鋭く差し込ませる小説だ。