オースティンの長編以外の邦訳書 私的リスト

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Jane_Austen/list2.html
の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。

ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン邦訳書 私的リスト

長編以外
 /長編小説

翻訳“書”の「些細な事柄」(『愛と友情』より)について



『美しきカサンドラ  ジェイン・オースティン初期作品集』

鷹書房弓プレス、1996年7月刊行

 帯の一部に「オースティンの「若書き」19作品  本邦初訳」とある。訳者は8名、監訳者・都留信夫。

 読みやすい。いちばん好きな訳文は表題作の、


六個ものアイスクリームをむしゃむしゃと食べました。しかし、断固としてお金を払おうとはしないで、お菓子屋さんを有無を言わせずぶっとばしてそこを立ち去りました。 (向井秀忠・訳)


 そのほかの収録作品にも、よく知られている6つの長篇とはかなり違う作風のものがある、興味深い本だ。

 ただし、偉大な作家誕生を解明する書物としてよりも、単純におもしろい読み物として気に入っている。とくに表題作と、『謎』『三姉妹』『レズリー城』が大好きだ。

 向井さんの「あとがき」もよい解説だと思う。






『愛と友情  ジェイン・オースティン著作集5』大久保忠利・訳

1996年、文泉堂出版。ただし昭和18(1943)年、実業之日本社発行の複製のよう。

 『愛と友情』のほかに『レスリー城館』『英國史』所収。

 なので、この3編が入っている『美しきカサンドラ』のキャッチコピー"本邦初訳"は偽表示・偽装ではないか?

 訳例  「『英國史』を書いた理由は、蘇格蘭女王の無實を證明するためでした」

‥‥蘇格蘭女王って誰デスカ? (A. スコットランドの女王。例のメアリ。)

 実はわたしが読んだのは、G・K・チェスタトンなる人の序文と、「譯者の言葉」だけなのだ。

 前者はなかなか面白かった。プロポーズで卒倒しそうになったのは断られたダーシーの方だろうとか。ただわたしの好きな未発表作品『レイディ・スーザン』を問題外のごとく酷評しているので、鑑識眼には ?

「譯者の言葉」から引用する。(※同じ字を用意できなかった個所がある)


原著にはこの三篇のほか斷篇がいくつか入つてをりましたが、纏りのないもので特別な研究家のほかは興味も少いと思はれますので、割愛しました

ジェイン・オースティン」は「獨身を守りつゝ、母や兄の子らとの靜かな田園生活の中にいつも女らしいしとやかさを失はず、年若いものたちに理解のある相談相手となつて人生の道に正しい指導を與へ、家にあつては臺所で考へた物語の筋を文机に向つて書き寫すといふ眞實の家庭のをんなとしての生活を送つたのでした

温厚な牧師(略)の次女として生れ、その土地で八人の兄姉たちの間にあつて平和な少女期を過し」「その生涯は極めて平穏無事で、彼女の手紙の編輯者ブレイボーン卿は、オースティンの生涯は六行あれば書き盡せると言つてをります

――抜粋しなかったところにある作品評は的確だと思う。しかし↑はどうだろう? ほかの初期作品・絶筆への軽視は残念だし、なにより、オースティンの人生を称賛しようとしてむしろ、今では陳腐な見方へ嵌めこんでしまっているところには驚いてしまう。

 甥ジェイムズ=エドワード・オースティン=リーが有名な『想い出のジェイン・オースティン』に「美しい筆致で描き出した、アマチュアとして楽しみながら小説を描く上品で快活な家庭婦人」の平穏な人生の絵に異を唱えて、クレア・トマリンが大部な佳作評伝(1997年)を出版した今とくらべると、時代の違いを感じる。その隔世の感は可笑しくなってしまうほどだ。

 訳者による他の作品名を列記しておく。『良知と感受性』『自負と偏見』『マンスフィールド園』『エマ、ノーサンガ寺院』『説得』

 なお、チェスタトンは有名な推理小説家(ブラウン神父シリーズ)・著述家で、大久保さんは日本語学の有名な研究者らしい。いつものことながら知らなかったです…







『サンディントン  ジェイン・オースティン作品集』
都留信夫 監訳鷹書房弓プレス、1997年11月刊行

 訳者は『美しきカサンドラ』の6名。

 帯の一部(『美しき〜』と同じところもある)には


いま英米でブーム TVドラマ「自負(高慢)と偏見」や映画「いつか晴れた日に」(原作『分別と多感』)、「待ち焦がれて」(原作『説得』)が話題となり、同時代のピアノ曲のCDや料理のレシピから、金言集や未完作品のリメイクまで出版されている。

 収録作品では、読書好きの少女がものを見る眼を磨いていく『キャサリン あるいは東屋』(未完)が好きだ。生活のために結婚したり雇われている友人たちへの思いには胸を打たれる。

 『ある小説の構想』は、大島一彦『ジェイン・オースティン 「世界一平凡な大作家」の肖像』で、オースティンと摂政宮の図書館長とのやりとりを読んで以来、ますます面白くなった(オースティンってすごい。剛毅な女性だと思う)

 5編中もっとも気に入っているのは、オースティンが病死しなければおそらく完結しただろう絶筆『サンディントン』だ。某青年が大好きだ。彼の言葉には笑ってしまう。ひそかに或るまんがのキャラクター名をささげている。

 この快い作品が興味深いところで途切れてしまっているのは、オースティンの新しい作風の作品が読めないのは、本当に残念だ。でも、結末を想像してみるのも楽しい。

 装幀 ☆☆☆☆☆

 邦訳書の絵では『美しき〜』と共にいちばん好きだ。優美なので。






『オースティン 『レイディ・スーザン』 ――書簡体小説の悪女をめぐって――』

惣谷美智子 訳/著英宝社、1995年7月刊行

 『虚構を織る イギリス女性文学ラドクリフ、オースティン、C・ブロンテ』(岩上はる子さんの書評あり)を出版なさった研究者による翻訳と作品論、作家論。

 それぞれのページ数はだいたい160、40、60。ほかに1933年までの年譜つき。

 帯文の一部には「作家としての早世が惜しまれるJ.オースティンが,10代の想像で創造した女ざかりの悪女を,女ざかりの30代で清書した書簡体小説Lady Susanの本邦初訳なる.」


Lady Susanはオースティン=リー(わたしの注 甥で『想い出のジェイン・オースティン』の筆者)の思惑、世間へのはばかりを裏切って、自らのバイタリティで見事、自己主張を果たし、輝いている。今、ここから飛びたとうとするレイディ・スーザンもまた、共感を得るにしろ、顰蹙を買うにしろ、オースティンの紛れもない主人公としてしたたかに息づいていってほしいと思う。翻訳のいたらなさを超越して、否、裏切りさえして。Traduttore e traditore ――翻訳者の方はすでに裏切り者を刻印されているのだから。


 この「あとがき」にも見られるひらめき、直観に満ちた惣谷さんの論文は、私にはむずかしかった。

 しかし、トマリンの『ジェイン・オースティン伝』に出会えたおかげで興味をもった『レイディ・スーザン』自体は、おもしろい! 

 「彼は今こそ謙虚になっていますが、あんな高慢の生きた見本をみせつけられて、許すわけにはいきません」と記す令夫人のかっこよさ。拍手喝采を送りたくなる。

 大久保訳『愛と友情』のところにも書いたが、G・K・チェスタトンがこの佳作を切り捨てたことは、わたしには謎だ。たしかにオースティンの長編小説6編とはちがう作品だ。しかし、痛快でおもしろいのだから。

カラー図版 ☆☆☆☆  描かれた女性は美しくはないのに、変な魅力がある。

本体    ☆☆☆  ザラザラした手ざわりの緑色の布が気に入っている。

挿絵    ☆☆  美しいけど、河出の『エマ』とちがって印象に残らない。

扉     −☆  いつの時代?と目を疑い、気分もやや盛り下がってしまう。

カバー   −−  カバーだけ紛失中なので、どんな物だったか思い出せない。






 今後待たれる日本語訳は、詩・祈祷・現存する手紙だ。

といっていたら、なんとジェイン・オースティンの手紙』新井潤美・編訳(岩波文庫、2004年6月)が刊行された。987円という定価からも想像できるように、かなり分厚い。

 オースティンの文学観や創作観は手紙からずいぶん明らかになるらしい。ただ、多くの手紙が姉のカサンドラによって焼却、あるいは切り取られてしまったらしい。本の解説には、現存する手紙は小説から思うほどには魅力的ではない、という意見が多かった。機会があったら、読んでみたい。

 ところで、書簡が存在しない約11年間は「精神的に不安定と思われる不幸な期間」と塩谷清人さんは書いている(『ジェイン・オースティン入門』1997年3月、北星堂書店発行)。

 では、それらは一体どんな手紙だったのか? 野次馬根性に駆られる。

 クレア・トマリンの『ジェイン・オースティン伝』をひらくと、「叔母は野暮ったい貧乏な親戚という印象を与えた」と裕福な姪が老年、回想したそうだ。

 「このときファニーの頭にあったのは、ジェインとカサンドラが手紙でやりとりしていた辛辣な冗談だったかもしれない」とトマリンは書き、(そちらの上流階級の親戚では)「あまり才走りすぎると、かえって反感を買ったのだ」という別の姪の言葉が引用している。

 わたしの中では、「死後有名になっていった妹(略)の評価に傷をつけるような手紙を残したくなかったのであろう」という塩谷さんの一文が実感を伴って結びついた。

 失われた手紙には、初期作品にあふれている軽快・奔放・無鉄砲・刺激的・挑戦的・反道徳・反良識的な記述もあったのではないか。

 未刊行作品には、親しい人への献辞がついているものも多い。才気に富んだ少女は、多くの人に読んでほしかったことだろう。しかし、初期作品は親しい人々を沸かせるちょっと過激な冗談、身内ネタの織りこまれた、一種の〝書簡〟的作品でもあると思う。(献辞は宛名ということになる)

 成長して出版にこぎつけたの長篇には、他人への内面吐露は要警戒、といった、社会で生きる知恵が書かれている。ジェインとともに過して世間を知っていた姉カサンドラは、愛する彼女の評判のために手紙を処分したのだとわたしも思う。この行為(ある意味、文字へのホロコースト?)を後世の人々は嘆いたそうだし、わたしも残念だ。

 しかし、処分された事実、あるいは処分された手紙の存在(非存在)自体が、ジェインにかなりやわらかい人間性、『レイディ・スーザン』や初期作品を書き上げた性質があったことを逆照射していると思う。


Jane Austen