この小説について、ぴったりだと思ったコメントがある。ノンフィクション作家、高野秀行氏の書評である。
「ADHDならではの守備範囲の異常な広さ、ASD特性全開の細部への狂気じみたこだわりで、私の中の春樹ワールドが10倍ぐらいに拡大した。」
この高野氏のコメントは横道誠『村上春樹研究 サンプリング、翻訳、アダプテーション、批評、研究の世界文学』(文学通信)の紹介の一部だ(2023年10月4日のX(旧Twitter))。
私は、主人公あかりの推し活にも当てはまる、と思った。
全体の感想から書きたい。
多くの人が言及しているけれど、書き出しが秀逸だ。「推しが燃えた。」
パンチの効いたライン、心をぐっと掴まれる冒頭行。
なぜなら、現代では「燃え」ると、大変な出来事が起こると知っているから。
主人公と同じようにアイドルの推し活をしている同級生も登場する。
だからてっきり、都会の女子高生の明るく楽しい日々がポップに描かれるのかと期待していたら、不穏な感じが混じり出した。
夜に炎上を知り、――これも、三条殿の炎上ではない、と言いたくなるくらい近年日常になった語だ。「推し」もそう――、翌朝、親友と登校するも、授業の提出物を忘れていたことに気づく。それだけでなく、さっき借りた数学の教科書を返すことも忘れていたのだ。
「もう合わせる顔がなくなった」という言葉から、教科書を貸してくれた「ユウちゃん」とはこれで関係が切れるのだろう。
もう、どんどん人間関係が切れていく、切り離されていく話なのである。息の合った親友に見えた成美とも、家族で唯一助け上げてくれそうな姉の「ひかり」――一種のヤングケアラー――とも、それどころか、作中に出てくる全ての現実の人のみならず、ネット上でつながっていたはずのファン仲間とも。最後には、半現実みたいな世界で、俗世の汚濁に晒されながらも孤高の輝きを放っていた男性アイドルとも。
主人公は全ての人と無縁になる。
レポート提出と教科書返却の失敗に続き、保健室の常連であることが判明、現実生活の必要事項(締め切りタスク)を書きつけ始める我らが主人公、というように現実対応の不安定さがスピード感をもって描かれる。
しかも、彼女が書きつける為すべきこと(to doリスト)には、読者は知らないことがいくつもあり、書くのは有り合わせのルーズリーフ――紙切れも同然だ。「そんなんじゃだめだよ!」と、読者のこちらは悲鳴が出そう。
けれども、これは序の口、作者は容赦がない。
健忘ぶり、部屋の汚雑さ、持ち物管理の不可能性が、(お金と人生の時間の使い方の盲目ぶりも)何回か書かれるので、いわゆるADHDかな、と思わされるが、こちらに突き刺さってきて、極まっているのはアルバイト先のシーンだろう。
この場面、大人なら、マルチタスクが苦手、臨機応変に対応できない、愛想よくできない、雑談ができないなど、自分の不得手を知っていたり、高校生の初バイトが居酒屋であることに不安を持つかもしれない。
だから、『推し、燃ゆ』は思春期にある障害者の小説ともいえる。
――横道だが、ふと思ってしまう。これなら、今村夏子さんは『こちらあみ子』で受賞してよかったのになあ。『あひる』でだって。どちらも障害者の内面×田舎のユートピア幻想を壊す小説。
あと、成人版は村田紗耶香さんの『コンビニ人間』だなあ。こちらは芥川賞を受賞したけれど。このあたりは一般の読者の多くが想起するだろう――
自らの肉体に重さを感じている主人公は、学校になじめない。
おそらく養護教諭に勧められ、病院に行き、投薬治療まで受けるが、やめてしまう。しかし、治療を支えようとはしない家族。担任の面談も、救い上げの点ではスルーしていく。
主人公は中退を「決め」る。
学校というネット(公的な網)が無くなり、あたたかい居場所の可能性を妄想させるようなバイト先からもあっさり解雇され(主人公の連続無断欠勤のため)、そうするや次に、「就活」を当然のように指示する両親が立ち現われる。中卒の娘に。長女は大学生なのに。
このあたりから、現代のホラーのようだと怖くなる。
展開はさらに深刻に。死というものを考えさせていた祖母が亡くなるや、その祖母の古い家に一人で住まわされる。この語の読みは「捨てられる」がぴったし。
非定型は社会からこぼれ、家庭からも追い出される。カフカの『変身』の令和版か?
でも、グレゴール・ザムザ氏と違って、推しの結婚=アイドルグループの解散=推しの引退、という重大事件を外部から宣告される。
ここまで、推しによる女性ファン(同棲相手?)への暴力、人気投票最下位への転落すら乗り越えてきた主人公だが、死に近づく。
不健康な生活のせいで、体も餓鬼のごとくガリガリになっている。
希望を失い、無情な世、地獄みたいなこの世で(ヘル・ジャパン)、這いつくばる餓鬼のごとき少女。
最後の拾う場面がいい。ユーモアも漂うし、無縁の中で、自分の軽い骨を拾う感じがいい。
はじめの方の、純文学的要素の混入にも思えたプール見学の場面が生きてくる。
あの場面のみずみずしい若い肉体と、最後の、精神的にも死に近い境涯。
その中で拾う己の白骨。
「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いていなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。」
ゴミだらけの汚い地べたに、ボロボロな格好で、四つん這いで生きる。まるで、半人半獣の修行者のようだ。
「綿棒をひろった。」
修行の第一歩という感じ。
ラストに至って、私は初めて推しの凄さを感じた。
かわいい女子高生「あかちゃん」の変貌。
未熟な人物の生と死に関する境地は、推しによって生まれたのだから。
推し、尊い。推し活ってすごい。
ただし、学生に過酷で危険な労働をさせ、大金を巻き上げる芸能界を批判しているような小説ではない。
危うい世界にのめりこみ(ボーダーラインの知的障害を持つかもしれず、地下アイドルとつながった成美のその後)、自己の代替のように偶像を盲目的に愛し、その対象がグループ消滅の原因であることも受け入れない、――既に最初の暴力事件の際、多くの心あるファンが離れたために人気投票最下位であったことも理解できない――、若いファン、未熟な人間の愚かさを批判するような小説ではない。
推しの炎上によって、焼き上がった主人公の骨。
デジタルを駆使するかわいい女子高生として我々の前に登場するも、過酷で無情な現世に身を晒し、変身を遂げ、凡人の及ばない境地へと解脱する。
短い小説だけれど、中身は濃密である。
“「書く人・読む人」である主人公”
学校でもバイト先でも家庭でも、切れ目なく続いていく主人公の失敗。
いわゆる“生きづらさ”を抱える人の内面が、外から見ている者には思いもよらない質のものであることを示す小説は多い。
けれども、本作ではそれがセリフや心内表現、地の文の独白ではなく、ブログであることがとても面白い。
主人公の重要な一面が、書くものによって示される。印刷のフォントも違うので目立つ。
もちろん、登場人物の手記や手紙や日記――書いたもの――が重要な役割を果たす小説はよくある。
けれども、本作は主人公のすさまじく凄惨無残な現実生活――やかんを掛けたのを忘れて、推しのインスタライブの一部を見逃す間抜けさ、とか――と、世界に発信しているブログとの落差、断絶が興味深い。
(この乖離が、よくいわれる発達障害の凸凹らしい感じ。)
ブログでは良識的で冷静で親しみやすく、頼りたい女性ファン像を見事に確立している。
リアルの主人公は、常識が身についておらず、頭の中は混線しがち(情報処理ができずフリーズ)、他者との関係はゼロになる。
周囲の大人からはせいぜい、庇護や憐みの対象。
この落差。
同じように、主人公が偶然発見した父親のSNSへの書き込みの場面も対照的なものだ。
この場面について、父親の女性声優に対する書き込みはいわゆる「おじさん構文」で、主人公の推し活と、父親の行動は同レベルなのに主人公は気づいていない、という冷笑的(?)な意見を読んだ。
いや、逆に落差を示す対比ではないか。
親っぽくふるまう表層的な父親と、もごもごとうまく切り返せない主人公。
この対面の様子と並行して、二人がそれぞれの内面を吐露したネット空間の言葉でも、二人は対照される。
確かに、這いつくばって「骨」を拾う、ラストの主人公の動物ぽさ、野人ぽさは、父親のネットでの幼稚な書き込みに通じるものがある。
ただ、ブログはひたすら抑制的に作りこまれ、大人びた感じのするものに仕上がっており、父親の無防備で甘えた放言とは等価ではない。
ネットに関する場面は、主人公の現実とは異質の内面を示し、逆転の現象の発生源となっている。
ブログの書きぶり、ファン仲間とのネット上のやりとり、それから、推しの関連グッズの整理。
アーカイブズというより、「祭壇」の構築・更新。
なにより最大の特色は、推しの言動の解釈と、執筆である。
現実のあらゆる面でだめな、だらしない主人公が唯一真面目に取り組むファン活動、とか、信者の熱い宗教活動のように見えるかもしれないが、冒頭に掲げた「ASD特性全開の細部への狂気じみたこだわり」の表現も適当ではないだろうか。
父親に説教されているのに、彼のSNSコメントを思い出して笑ってしまうところも、ADHDならではの多動性(その場に関係ないことをぽんぽん思いつく)や、衝動性(場にふさわしくない言動・表情を選択、あるいは抑制できない)であろう。
しかし、最も大きいのはASDならではの純粋な追究ではないだろうか。
振り返ると、主人公は常に推しの「細部」を読み、「こだわり」――純粋に真理を追究し、論理的に書いてきた。
本作では子ども時代のことも書かれ、その時から感じたことを追究し、言語化している。何年も。
冒頭の評をまた借りれば、あかりはすぐれた作家や研究者に等しい(高野氏の書評の対象は研究書)。
何なのか? と純粋に追究する姿勢は最後の方で父親に対しても現れるし(コメントの場面)、ネット住民により特定されたマンションに推しと共棲みする女性にも向けられる。
しかも、後者については興味深いことに、実際のマンションや女性でなくとも、他者について想像できるように変化して、ラストを迎える。
――このあたりは、重度の自閉症スペクトラムと思われる少女の内面と成長が鮮やかに描かれたアメリカの児童文学『モッキンバード』(キャスリン・アースキン、明石書店)を思い起こさせる。
グループの解散コンサートの場面も印象的だ。
なぜなら、同じ思いを共有しているらしいファンと2回も擦れ違うだけだからである。
ネットからオフ会、現実の出会いにつながる話は身近にある。
しかし、主人公は生涯最後の機会であるにも関わらず、接触を図らない。
主人公に視線を向けた「青いシャドウを乗せた」女性は、主人公の渾身のブログに「いつも通り長い文章を書いてくれる」「いもむしちゃん」かもしれないのに。
「青いアイシャドウの女性」は再登場する。
「携帯を触っていた。彼女の視線が画面上に滑るのに意識を向けながら」
もしかしたら、この人はファイナル公演のさなかに「あかりん」の言葉を待望しているかもしれないのに。
主人公の現実の行動は、インターネットにおける社会性とは対照的である。
解釈を書いて発表するけれども、共感する人とも現実での交流を求めない。
拒絶する。
これは本作で一貫して描かれている性質だ。
この点からも主人公は単なるADHDとは片付けられない(ADHDのわかりやすい例として、『赤毛のアン』に登場する重要な脇役で、愛すべきリンド夫人は、いわゆるグレーゾーンかもしれない)。
小説の前半、ネットでの交流が描かれる場面の一文は、読者にインターネットで発信している無数のアカウントの実態へ想像を広げさせる。
「あたしがここでは落ち着いたしっかり者というイメージで通っているように、もしかするとみんな実体は少しずつ違っているのかもしれない。」
主人公はこのような真っ当な識見を持ちながらも、多様で、何より同じ困難に遭って七転八倒、生命をもおびやかす人生の危機に苦悩しているだろう仲間と結びつこうとしない。
この頃流行していた感のあるシスター・フッドがない小説。
これも大きな特色ではないか。
(柚木麻子の『ナイルパーチの女子会』も、主人公と父親はASDらしく、その加害と自業自得みたいな陰鬱な展開だが、最後に女性同士による救済が希望のように書かれている、と思った)
養護教諭とか、居酒屋の女主人とか、人間味のある女性たちが登場しながら、シスター・フッドみが皆無の小説。
主人公はどんどん関係を断ち切られ、神も奪われ、ただ孤独に、修羅と荒涼の世界へ下降していく。
ラストコンサートに関するブログは、読者である私も待ちに待っていたものだが、下書きの形で現れる。
下書きは初めて。
主人公が結びの一文を書きあぐね、家からさまよい出る様子は、まるで最高の絶筆をこの世に遺そうとする作家そのものだ。
ここに至って、私は「全ては真の作家と同じく、書くことが目的だったのかも」と思った。
最終コンサートへ足を運んだのも。
主人公は書くために生きてきた人。
世界について、自分について。
ところが、最後になって、それまでの抑制され、バランスに富んだ、論理的なレポート・作文を完成できなくなる。
今までと違って、最高の物語として発表できない。
推しの見事なラストステージと違って、理想的な物語に昇華できない。
推しは美しく格好よく退場してしまうが、主人公は破綻して、とうとう現実の世界へ出る。
そして、他者について想像し、帰り、暴力を振るう。
暴力、最高。
呟かれる言葉、最高。
変身であり、新しい「あかり」の誕生だ。
本作について、暗い、やりきれない、という感想も目に付いた。
いやあ、常人、定型発達者からすれば比べものにならない「ゴミ」みたいな、社会の底辺を這いずり回る障がい持ちの小人が、自業自得みたいな陰惨な落伍の中にあっても、感じて、考えて、行動する。
崇拝対象を研究し、まねて、暴力を振るって、過去の己を破壊する。二人とも閉鎖的な時空間――輝きと混乱に満ちたフィクションの世界から見事に脱出した。
まさに推しと推し活の尊さを感じる。身も蓋もない陳腐な表現で恥ずかしいが、真理を追究することの価値。
そして、書くこと、表現すること。
くりかえしになるが、先天的に烙印を押され、修羅を生きる行者としての覚醒と新生ーーこれが小説のハッピーエンドでなくて、何だろう。
「未来永劫、わからない。でももっとずっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている気もする。」
「滅茶滅茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶滅茶にしてしまいたかった。」
上野真幸のターンで書かれた作品も読みたい。
あかりの想像力が、そう思わせてくれる。
〈追記〉
本作を読んだころ、イプセンの『人形の家』も読んで、予想以上に複雑な構造に、感銘を受けた。
「世界文学史の傑作だ!」と思った。
けれども、先に感想を急いで書き留めたのは本作の方である。
それくらい夢中にさせられた小説。
くどいけれど、真理の追究と、書くことの大切さ。
普遍的なことが書かれている。