夏目漱石の大叔母さんオースティン

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Jane_Austen/Natsume_Soseki2.html
の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。



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 まもなく変わってしまうけれど、(五千円札への樋口一葉の採用バンザイ!)、千円札に印刷されてきた青いお顔の夏目漱石と、ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)は受容のされ方が似ているのではないか。

 どちらも後世、多くの作家・研究者が言及するようになった。

 なにより、それぞれを母語とするふつう人にも読まれている方である。

‥‥だと、思う。

 (たしか)2001年10月下旬の夕方、NHK教育テレビで放映されていた海外ドラマ『サブリナ』「サブリナは僕の女神」の回で、主人公のサブリナが、彼氏に好きな作家は「ジェーン・オースチン」と言い切っていた。

知的さを目指す若い女性の挙げる小説なのかもしれない。(サブリナは、アメリカ在住で、魔法使いの血の入った学生である)

そして、彼氏から『高慢と偏見』の本を贈られて喜んでいた。

(好きな作家なら、本をすでに持っているのでは?と疑問が湧いたものの、心から好きそうなので、オースティンのファンとしてうれしかった)


 オーストラリアだったかの英語圏から来日していた20代の女性が、読んだオースティン作品として『エマ』『分別と多感』『自負と偏見』を挙げ、わたしにBBCによる長時間のテレビドラマを知っているか? と尋ねたことがある。

また、彼女は「フェアリー・テール(わたしは英語がわからないので、こんな風に聞きとれた。「fairy tale」のことか)」とか、「シンデレラ(Cinderella)」という言葉を、顔を輝かせて言った。

 オースティンのほとんどの小説はテレビドラマや映画になっている。とくにコリン・ファースがダーシーを演じた『高慢と偏見』はたいへんな人気であったらしい。それは映画にもなったベストセラー『ブリジット・ジョーンズの日記』にも反映されているらしい。



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 一方、漱石にはそれほど高名な映像作品はないものの、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、よく教科書に載っている『こころ』など、人口に膾炙している小説がある。

 何年も前だが、『吾輩は〜』がもっとも多くの中学生の読んだ小説として紹介されていた。(本当にその全員は読了したのか? わたしには疑問。究極の資本主義社会では発禁本になるのではないかとさえ思えるから)


 こんな人気ぶりから、ふたりは国民的作家といえるのではないか。

 人気作家の作品は、後世、ほかの作家によって続編・パロディーが書かれる。たとえば「百八十八」章から書き継いだ水村美苗の『続明暗』。

 文学がオリジナリティが大切である。それなのに、約百年以上も後にほかの作家が関連作品を上梓する。この地上に生まれた無数の作家のほとんどには起こらない現象も共通点だ。

 続編に対して起こった批判・非受容は、オースティンと漱石が今も愛され、尊敬されている、つまり生き続けている作家の証だろう。



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 さて、こちらこちらにも書いたように、漱石は英文学の研究成果を注ぎこんだ『文学論』でオースティンを称賛した。

 ところが、彼はこんなことも言っているのだ。




或る知人に学問もなければ素養もないのが、時々手紙を遣(よこ)すが其手紙の字などは誤字が多くて満足な文字は少ないのに、其文と云つたら中々面白い、這麼(こん)な様な天才は、女子の方にも沢山あらうが、殊に女子は日本では嫁入りするに定(き)まつて居るし、家庭に入つてからは、自然机に向ふ暇も少なくなるのであらうが、兎に角暇を拵(こしら)へて多く書いてさへ居ると、少し才の有る人には、出来るのである

 (略)

同じ西洋の女流文学者でもオーステンの文は、極く平易な客観的な写実文であるが、其筋に変化も起伏(おきふし)もない平坦な脈であるのに、非常に面白く読まれるのは、外国人の我々が読んで見てさへ、其個人の人格其作の上に活動して人物の風[ぼう](「ぼう」は「手」に似た漢字)人格が髣髴として表はれるのである、極く明察に敏捷に其特性を現はしてある、それで何方(どちら)かというと女子には緻密なる観察を以て客観的な写実の文が得意の様である

『女子と文学者』明治39(1906)年



女流作家のオースチンなどは、芋の皮を脱(む)きながら、其隙隙(ひまひま)に一頁も書く。それからまた小児の世話をする、着物の洗濯をする、そして其隙に一頁も書く。何処で初つてもよい、何処で終つても差支ない。用の都合で鉛筆の跡が終る所を終りにする。それでも少しも苦にならぬらしい。そして彼(あ)のやうな傑作が出来る

『人工的感興』明治39年


例へば女作家Jane Austenの作は随分世間にも賞賛され自分も或意味に於て感服して居るが読み終へると此人は学問をした女でないといふことが誰にでも直ぐ判る。之がつまり無教育ではあるが世の中を見、世の中を解釈する力が自から備つて居つた例である

『無教育な文士と教育ある文士』明治41年


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漱石は読者として、オースティンのペンの魔法による娯楽をただ享受していただけでも、また、おなじ小説家として作品の技巧を評価しただけでもなかったようだ。

 彼の注目した点には、オースティンが学校教育の恩恵を受けていないのに、無教育なのに、また、家事に追われているのに、人間の真理を浮き彫りにする写実の「天才」「女子」であった、という背景も含まれていたようだ。


そういう女性作家の典型例としても認識していたようだ。

 だからといって、日本の女性作家の出現をすすめているわけでもない。現代とくらべると、時代を感じる部分もある。


 オースティン以降の女性の小説の書き手を、“オースティンの娘たち”と評することもあるようだ。実際はオースティンは生涯、独身・未婚だった。晩年になって小説家として有名になったけれど、大金持ちになったわけでもない。パラサイト・シングルで、負け犬かもしれない。

 しかし、多くの人々が影響を受け、言及している。映像化もリメイクであり、言及の例だろう。

 オマージュを捧げたひとり、夏目漱石は極東の異国に誕生した、オースティンの遠い甥っ子だ。その漱石にも、孫・ひ孫世代の書き手たちがいる。

Jane Austen  (1775-1817)
夏目漱石     (1867-1916)