須賀敦子さんが書いてくれたから、知った作家、読んだ本がある。
ナタリア・ギンズブルグ、須賀敦子訳『モンテ・フェルモの丘の家』(『池澤夏樹個人編集 世界文学全集』河出書房新社)
久しぶりに読んだ。
原題は『町と家』『都市と家』だったというが、そんな抽象的、概念的な題の海外小説だったら、自分は手に取るだろうか。
『モンテ・フェルモの丘の家』という、地名と地形の入った具体的な題は親しみやすいし、この“話”のあたたかさに合っている。
須賀さんが付けたのだろうか。
小説は1984年発表で、今から30年も前になることに驚かされる内容だ。
(月並みな文句だけれど)、“全く古びていない”。
家族中心の風潮や血縁を重視する考え方に、自然体で軽やかに反論している書簡体小説だ。
年齢や職業、立場を超えた、ゆるやかで温かな人間関係のさまざまな結びつきと、それがほどけたりする様が描かれる。
その内の、いくつかの極めて魅力的な結び目(ノット)は、唐突に消えてしまう。
埋めようのない無が生じて終わる。
だから、不幸な結末であり、犯人や動機がわからないので不気味さ、恐ろしさも残るけれど、なぜか、決定的に不幸な感じ、悲劇的終幕の感じはしない。
うっすらと、ぼんやりとした悲しみ(シェイクスピアや古代ギリシア悲劇「オイディプス」みたいな絶叫調ではない)の描き方も現代的、都市的なのか。
具体的には最後の部分、ルクレツィアの言葉のおかげである。
あなたがどんなか、わたしはちゃんと憶えています。あなたがいま、ここにいるのとおなじくらい、あなたのことを憶えています。
あなたの長くのばした、すくない髪の毛。あなたの眼鏡。あなたの高い鼻。やせた、ながい脚。大きなあなたの手。いつもつめたかった。暑いときでも。そんなあなたを憶えています。
ルクレツィア
ルクレツィアはこの小説で、大地の母、地母神みたいな役を担っている。
多くの男性と関係をもち、父親の違う子どもたちを産む。
母祖(みおや)。
――決して理知的とはいえないルクレツィアなら、「憶えています」ではなく、一般的な「覚えています」、ひらがなの「おぼえています」と書くと思うけれど――
読者をも抱きとめるような結び、抱擁するような結びだから、安らかな感じを受けるのだろう。
それだけでなく、女は憶えている、女は記憶していつかは書き出す、という“声”、メッセージも響いてくる。
そして、思い出し、書き起こさせるきっかけ、あるいは、最後まで人の心に痕跡、痕(あと)を残すものは何か、と。
このくだりは、すでに最初の方、ジュゼッペ宛て2通めの手紙にも出てくるものだ。
(小説冒頭、ジュゼッペの手紙の日付は10/15で、ルクレツィアの2通めの手紙の日付は11/14)
あなたのうすい、長い髪の毛。あなたの眼鏡。
(中略)
そんなあなたを心のなかで憶えておくことにします。
ルクレツィア
ジュゼッペの説明的な語句よりも、ルクレツィアの列記の方が、ふたりの関係や、ルクレツィアの心に射しこんだジュゼッペの意味合いが印象的に暗示される。
そして、思想ではなく、感性(センス)や趣味でも、知(知的なもの)でもなく、思いをつなぎとめるものが在ることが。
思想、意見や知見、知性によって記憶されたり、評価されることは、メディアや活字、社会という“公(おおやけ)”の面に関係する。
けれども、ひとりひとりの心、社会的には名も無き個人の心に深く残るもの、跡づけられるもの、形づくっていつまでもとどめられるものこそ、価値がある、と。
さらには、この小説の最後からは、女は“憶えて”いる、老いても、いや、死ぬときまでも“憶えて”いる、という言葉が聞こえてくるようだ。
これまでわたしは、老いとともに遠ざかっていくように、予感していたけれど。
『モンテ・フェルモの丘の家』や、文学館の須賀敦子展開催に刺激されて、『須賀敦子全集 第4巻』(本についてのエッセイや、書評などを収録/河出文庫)を久しぶりに開いた。
今回は、あちらこちらに、須賀さんが少女のころから、ずっと書く準備をしていたことが目についた。
女子大で (中略) 一葉をまねて、しまいには文語調で文章をつづる練習をひとり重ねてみたりした。
この本には、私の好きなものがいっぱいつまっている。知性のもたらす静かさと抑制のきいた文体、けっして声を荒げない登場人物たち、老年の、また若さの美しさ、そして、猫たち。また、語り手がときに洩らす、早世した夫への優しいまなざし。このつややかな作品を書いたとき、アンヌ・フィリップは六十九歳だった。
はじめて須賀さんの文章を読んだ高校生のころには、全く気にも留めなかった話も心に残った。
(世阿弥「融」について)
ふたりにとってはまだ抽象でしかなかった、老いについての詠嘆を、失われた場所への恋慕の言葉を訳しながら、私は、たしかな感動を夫の横顔に読みとっていた。
あのとき私のたどたどしい訳に耳をかたむけてくれた夫は、四十一歳であっけなく他界した。
それにしても、気がつくとイタリアの絵ばかりが目につくのは、いったいどういうことなのか。
それとも、絵や彫像のなかに、知人友人のふとした表情や手つきを想い出すからか。
須賀さんの書評を読み直し、以前は(自死ではない一般的な)死を予感していなかったことを思った。
むしろ若いころは、機会がもたらされれば、別の人生を生き直したかった。
けれども、今はどうだろうか。
社会に批判的な「源氏物語」を書いた紫式部や、惨めな現実を一片たりとも匂わせなかった「枕草子」の清少納言が思い浮かぶ。
アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)
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