http://www.geocities.jp/utataneni/art/new.htmlで加筆訂正します
「こどもとおとなの美術入門 カラフル! COLORFUL!」 群馬県立近代美術館 −2005・9・4
よかった作品
「untitled」伊庭靖子
果実のオレンジ、拡大写真。ふだん何気なく口に運んでしまっている“つぶつぶ”の透明感、その光。極小世界の美しさにハッとさせられた。
「Fishers and their Colors of the Sea」天利道子
実際の漁師さん達が答えてくれたという「海の色」が敷き詰められている。まず、この試みがすばらしい。
それぞれの漁師さんのとらえている「海の色」に考えさせられる。オレンジ色がある。夕焼けに染まった海が思い浮かぶ。…茶色がある。臭いまで漂ってきそうな汚い海面が思い浮かぶ。…陽光のさんさんと射す珊瑚礁のような澄んだ水色がある。
「海の色=青」ではないこと、この世界には、個人の豊かな眼に満ちていることを教えてくれる。
タイトルが英語で、漁師さんのいかにも日本人男性らしい名前がローマ字表記な点も魅力を高めている。日本語において、アルファベットは自由へ開放してくれるように思う。
「赤い花々Ⅱ」ホセ・マリア・シンシア
白地に赤い花が浮かんでいる絵。質感が好き。
「木の葉をふるわせ」秋岡美帆
風でゆれている茂みを下から映した写真。なんどか見ているけれど、好きだ。
「あまいにおい」押江千衣子
さきのシンシアの絵を思い出す。白っぽいパステルににじんだような花の絵。うっとりするような陶酔感をおぼえる。
ガイドブック(無料配布されてる小冊子)によると、花はなんと、私の好きなヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)。
これは、秋に葡萄のような実をつける。わたしの住んでいるあたりにはヤマブドウがなく、勘違いしていたころもあった。実は黒くつやつやとして、美味しそう。しかし、食べてはいけないと言われた気がする。
実とおなじくらい、幹も目を引く。鮮やかで光沢のある赤紫色をしているのだ。英語名インクベリーがぴったりの草(草なのである)だ。
とにかく秋に目立つ。ところが、春にもすばらしい魅力があった。それが、緑色のつぼみに混じって咲く、うすいピンク色の花。小さくて、わたしは長い間気づかなかったけど、可憐でかわいい。
繁殖の戦略上だろう、花期は長い。
「山月記 自然と田舎暮らし」にもときどき書いたことがあるくらい、好きな花だ。しかし、この絵のようにわたしの知らない魅力がクローズアップされていると、くやしい。
「版画集 「花」」アンディ・ウォーホル
東京国立近代美術館の『琳派 RIMPA――こんどの「琳派」はちがう』(感想)にも似たようなのがあった。おんなじだろうか。
見飽きた感があるのに、やっぱり好きだ。ほんとに琳派だなあ、とも思う。
「裂帖」志村ふくみ
読みは「きれじょう」。「きれ」と読む「裂」は、古美術・アンティークの本に出ていた(古裂)
江戸時代の煙草入れ(? 小さいポシェットみたいの)や、茶道具を包んでいる(風呂敷だろう)とか、インドやジャワの更紗がいいと思っていた。鮮やかな赤や茶系、温帯の日本ではけして生まれ得なかった文様。
でも、実際に見てみると、古くさく野暮ったかったりした。そういえば根付けも、顔とかが気味悪かったりする。わたしは文化都市・江戸の「粋」とは無縁なのだろう。
最近、現代のジャワ更紗を見る機会があった。その感想→→高い。巻スカート3万とか。わたしには高い。こういうのを着ていくところもない所得層なんだなあ。
とはいいながら、「欲しい病」に罹患した。気づいたら、べつのお店(コーヒー豆と雑貨を売っている)で、先の1/10価格のインド製シャツを買っていた。
それは、蓮花のようなのと、葉、茎なんかが伸びてめったやたらと増殖している。満ちている。どれも濃い色。日常の、黒やグレー、茶色をベースに、少ない色を合わせて着る(どれも無地が基本。明るい色は差し色とか、きれい色とか言っていたかも。シャツとか、バッグとか、靴に使えとか書いてあったような。かつての雑誌には。)のような、すっきりしたファッションとは正反対。こういうの、好きだ。
でも、「裂帖」のような、パステル調のやさしい色合い。縦糸と横糸の織り感。こういう小さい物のコレクション(集積)、すごく好きだ。愛玩したい。
志村さんの作品は着物もふくめ、ふだんわたしが惹きつけられ愛好してしまう、くどい“変な”ものとは対極にあって、美しいもの、それの奥深さを示してくれるように思う。
展示全体の感想
ひとことでいうと、所蔵作品が多い印象。あまりおもしろくなかった。ここで挙げた作品も、伊庭、天利以外は所蔵作品だ。
「見たことがある!」感は、わたしに作品を精細に見ることを要求しない。わたしはミーハーで新しもの好きなのだ。
それでも欲を言わせてもらえば、常設展示作品をべつの角度から、新鮮に見せる方法があるのではないか。そういう見せ方に驚かされたかった、味わいたかった。
「こどもとおとなの美術入門」は解説文が平易だし、参加型のイベントも魅力的だ。でも、今回は視覚的な「色」でくくって作品を並べただけに思えてしまった。
単純につまらない“現代アート”もあった。
・・・わたしは、東京都現代美術館の「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い 展」(感想)、府中市美術館の「遠藤彰子 力強き生命の詩」(感想)とかに浸されてしまったのだろうか。
すばらしいものは美味しい、でも、毒にもなるのか。自分は変な中毒が発症中。眼玉の視力が変、それから、舌が毒ってる。ただの県民なのに。
ワークショップ
*お客さんが夢(?)を紙に書いて、それを飾っていく。「Fishers and their Colors of the Sea」といい、すごくおもしろい作品だと思う。
*「ひとつがふたつ」駒形克己さんのワークショップ
「さん」と敬称をつけてしまった。駒形さんのカレンダーを2つ、本を1つ持っている。ほかに1冊、誕生日プレゼントに贈った本もある。けっこう好きなのである。色と形の工夫がすばらしいのだ。
駒形さんを見に行ったこともある。明るくやさしい人だった。アーティストは暗い、というイメージがあったから、参加型の活動を世界中で推進する姿にびっくりした。サインをもらったけど、それより人柄に教えられた。
(わたしが見たことのある有名なアーティスト。大谷有花さん、理知的な若い女性。
会田誠氏、明るいけど粘着質で暗い感じ。子どもっぽい、でも、学生のとっちらかった展示(「日常の変貌」 感想)を夕方、ちゃんと「美術館」向けというか、観覧者向けに改善していて、大人の視野があるように見えた。学生たちは、自分の作品ではないからかもしれないけど、傍らでぼーっと立っていた。まあ、そういう学生らしさ、うらやましい気もするけど)
今回のワークショップは、色紙を切って貼って、2ページの本にする。そう、色紙はすばらしいのです!(力説)
わたしが自宅の冷蔵庫に貼るカレンダーを作ってたとき、「すっごく鮮やかな原色を使いたい!」と思った。でも、絵の具はにじんで、一面おなじ色にならなかったりする。ふと、アンリ・マティスの切り絵が思い浮かんだ(群馬県立近代美術館のです)。「生命力」が表現されているとかの、たしかにそれが力強く感じられる切り絵。変な形、でも、ダンシングしている躍動的な色と形。
で、使ってみたら、「ミッフィー」のディック・ブルーナがマティスに影響を受けたというのを実感した。緑は野原と山になる、水色は湖、青は海、赤は夕焼け空、オレンジ色は太陽、ピンクや白は花、黒は夜空、黄色は輝く星々。
ものごとの本質が、平面的で濃淡のない色紙によって、明確にわかってくる感じがした。
このワークショップで次にすごいのは、他人の切りとった紙をメインに使うこと。びっくり。でも、取り組んで納得。そのほうがおもしろさが倍増する。
作品は展示される。驚くほど上手なものがある。ふつうの人もアーティストなんだな。
こういうの、一種の美術教育というのかな。『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で Henry Darger In the Realms of the Unreal』(ジョン・マグレガー著・小出由紀子訳、作品社)を読んだとき、悲しかった。
「7人の美少女戦士ヴィヴィアン・ガールズ」の戦争絵巻は、色の組み合わせは快いが、描かれているものはグロテスクで好きではない。ジョージア・オキーフの荒野と赤い岩山での幸福な生活のように、わたしはダーガーのそれに興味がある。
ダーガーは障害があったのかもしれない。進んで他人と接触したり、他人との接触を人生の中心に置こうとはしなかった。他人から見たら、働いてアパートに帰る単調な人生。まさに「木っ端」(枕草子、徒然草)みたいな存在かもしれない。
でも、心の中では生と死、戦いと救済の激しいドラマが展開され、そこにどっぷりつかっていた。彼にとっては、心の中の世界のほうが大切だったろう。現実世界は、彼の肉体を生かし、想像世界構築の素材を探す場所で、内面世界に従属する下位の世界だったのではないか。
彼は表現したくてたまらなくなった。でも美大とか行っているわけではないから、子どもが習得するような表現方法を生活の中で発見し、身につけていった。彼の水彩絵の具とかの画材は小学生用だったらしい。
それが悲しかった。わたしも同じだから。クレヨンも、色鉛筆も、絵の具も、クーピーも、小学生が使っているようなものでしかないから。トレーシングペーパーとかカーボン紙とか、中学校までの図工・美術の授業を思い出してやってみたりする。
もちろん、義務教育を受けられただけでもましには違いない。
でも、大人になると、「美術」を教わるような機会はない。静物のデッサン、風景の水彩画を描けないわたしは、何かに参加する勇気すら湧かない。
子どもの時とちがって、自然と何かを作りたい気持ちが湧いてくるのに。大人になった方が自由なものの見方が出来るような気がする。もしかしたら、「子ども」の部分を出しやすいのか?
こういう機会がまたあったらいいと思う。
常設展
今回も山種記念館のほうが印象的。
「三枝禮」小室翠雲 大味だがいい。
「秋庭」岸浪百艸居 一番よかった。前も見たけど、「霜葉霜條」よりもすごくよく見えた。濃い緑色の植物と、白い塀、灰色の石塔。じっくりした感じ。
「霜葉霜條」は紅葉したツタの葉がいい。
「梅の枝に鳥」 2番目に好き! 「枝と鳥」「鳥と木」も迫力がある。四方田草炎ってすばらしい!!
近代美術の部屋でよかったもの
*「座る水浴する人」マリーノ・マリーニ
ひさしぶりに見た。シンプル。とてもいい。
*「ジュネるポコ」鶴岡政男
はじめて見た。なにこれ。こわい。でもいい。やっぱ(いつも言ってるけど)鶴岡政男ってすばらしい!
*「天使の翼」難波田龍起
初見。
*「AIR CUBE」熊井恭子
銀色の、糸みたいに細い金属線(ステンレススティール線)が四角いタワシみたいになってる。きれい。こういう変な物、日常品でない物を大学で作っている人がいるってことも、うれしい。
「少女」長谷川利行
「蛸壺など」山口薫
「丸椅子に座る長い髪の娘」ジュール・パスキン
「ヴィーナスの誕生」アリスティード・マイヨール
この部屋で「これらの絵のどこがいいのかわからない」とおっしゃる老婦人に出会った。現代美術でなくても、そうなのか。わたしは、「これだったら、このお尻の割れ目に手を入れたくなるんです」と言った。女性は驚いて笑ってくれたけど。
前にも書いたが、何回も見たことがあると、つまらない。わたしにとって、この部屋のルノワール、モネ、ムンク、ルドン、フジタ、ローランサン、ロダン、ルオー、ピカソ、みんなつまらない。有名な大画家で、その画家らしさの出ている絵だけど、お腹いっぱい。飽きてしまった。
・・・飽食は、悪食(あくじき)かもしれない。問題は絵の既視感(デジャヴ)ではなくて、わたしが県立美術館の楽しみ方を間違っているのかもしれない。
行き慣れた場所でも、そこで一緒に時間を過ごした人の言葉、話、しぐさによって、心に深く残るように。降雪は死ぬまでになんども見るけれど、樋口一葉が「白がいりんりんたる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。(略)吹きかくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて、折ふし目計(めばかり)さし出すもをかし。種々の感情むねにせまりて、」と日記に書いたような雪の日が、だれにでも(おそらくは)思い出として輝いているように。
もっと端的なのは家と、そこにまつわる思い出の例だろう。わたしは、新しくモダンな建築ばかり、あるいは有名な古建築・神社仏閣ばかり、飢えたように探し回っていた気がする。ホームでの過ごし方を知らなかった気がする。
それでも、先に挙げた「少女」以降は何度も見たことありながら、この日もいいと思った作品だ。絶妙な陰翳、土製のくびれた容器の質感が画面中央に表現された「蛸壺など」は傑作だと思う。べつの日には、べつの作品もいいと思うだろう。それは確実だけど。