http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します
このころ、精神的に「息が苦しい」と感じた。これまで、好きな世界の深奥に、深い海のような所に一人で入っていく。そうすることで、生きていく上で大切ないろんなものが汲み取れるように思っていた。
でも、深海に向かっていると信じていたけれど、息が苦しいということは、実は浅瀬でもがいているのかもしれない。
そして、自分を人間だと信じて疑っていなかったけれど、古生代のアンモナイトか何かだったのかもしれない。陸に上がりたい。人とまではいかなくても、せめて蛙(カエル)くらいには進化したい、と思った。
前にも書いたけれど、人魚姫の気持ちがわかる気がした。美しい豊かな海底にいたのに、陸に上がりたがった。声という、自分らしさを表現する術を失っても。痛む二本足で地上を歩いても。
アンデルセンの人魚姫について、こういうことも思った。
人魚姫は姉たちからナイフをおくられて、寝ている王子のところへ行く。手にしていた刃物は、かつて人魚姫の下半身をおおっていた、銀色に光るウロコの一枚のようではなかったか。なつかしいやさしい海へ帰してくれるナイフは。
・・・・・・自分を人魚姫とちょっと同一視している元には「姫」ということが関わっていただろう。その反動でか、こうも思った。
人魚姫は魔女のところへ向かう。だんだん海が暗くなる。王宮で暮らしていた人魚姫(わたしは「ギョヒメ」と勝手に呼ぶことにした)には、見たこともない魚や生き物に遭遇する。彼らは驚いたことに王族のギョヒメを無視したり、反対にニタニタと笑いかけた。
ギョヒメが通過していくと、そういう生き物たちがどこからともなくもっと集まってきて、目を光らせて、ギョヒメのしっぽが暗い底へ消えていくのを見ていた。
ギョヒメのしっぽは、とても美しい尾とされていた。それが王宮にあったときと同じように優雅にひらめくのを。
だから、とても美しいといわれていたギョヒメの最後のすがたを見たのは、これらの異形の気持ちの悪い生き物たちだったのだ。
でも、ギョヒメはほんとうに美しかったのだろうか。優美だったのだろうか。
いいえ、ギョヒメは美しくなんかない。上半身が人間、下半身が魚のウロコに覆われた彼女のどこが美しいのでしょう。
気持ち悪いではありませんか。
さきの生き物たちの方が、鳥が鳥であるように、魚が魚であるように、美しい。
それに、人魚の目撃談を聞いたことがあるだろうか。
きっと人魚は、嵐の夜や、津波、洪水。そんなとき、人間の苦しむ声や叫び声、親しいものを失った悲しい鳴き声が聞こえるとき、海面から顔をのぞかせている。
金子みすゞの詩、「おおばいわしの大漁だ 浜は祭りのようだけど 海の中では何万のいわしの弔いするだろう」とは逆のことが起こっているのではないか。そして人魚は海の生き物の王であるそうだ。
人魚はなんと醜く、気持ちの悪い生き物だこと。
さて、人魚姫が向かった魔女の住居は、とても暗く薄気味の悪いところだったろう。遠い海の果てだったろう。そして魔女は、人魚姫とは残酷な対照をなすほど、醜かったろう。容貌と同じく、欲望も顔をそむけたくなるほどだったろう。
しかし、人魚姫が相対した魔女は、じつは人魚姫自身でなかったか。
簡単に欲望の実現をゆるしてしまう甘い自分自身。
また、美しい声を自分の美質としっかり認識している自分自身。
人魚姫と魔女は、鏡にむきあったそれ自身という気がする。
・・・・・そんなわけでアンデルセンの原作を読んでみた。そしたら、なにげなく読んだ『モミの木』(もみの木)という一編に圧倒された。
『マッチ売りの少女』のラストといい、アンデルセンは心に感じたことを、見事にイメージ化し、文章で表現していた。そこに表現されている、追いつめられた苦しい気持ち、心情に深く共感した。
人魚姫は、空気の精になったとき、生まれてはじめて涙を流す。女性は泣くものとされているけれど、それに、それまでつらいことも多かったのに。わたしは失恋が許されているのだ、と思った。人魚姫は失恋の話だ。