金をめぐる人々から目が離せない!――『ダンバー メディア王の悲劇』エドワード・セント・オービン、小川高義訳(集英社)

「語りなおしシェイクスピア」シリーズ第2弾。

リア王』は厳しく怖い悲劇のイメージがあったのだけど、訳者あとがきによれば、本作はエンターテインメントであるようだったので読み始めた。

『獄中シェイクスピア劇団 テンペスト』アトウッド →『ヴィネガー・ガール じゃじゃ馬ならしアン・タイラー、の順で読んだことになるが、本作もおもしろかった。

 

小説などの創作にはよく王国や、王をめぐる話が出てくる――戦国時代の群雄や、人々のために天下泰平の世をもたらしたという将軍についての歴史小説やドラマも同じ。

でも、現代の人は「王」になりたくないのではないか。

王国や王宮が舞台のファンタジーでは、いずれ王になる人物や既に伯爵とか高位の人物だとかが主役側にいたりするが――今の大河ドラマ『光る君へ』もそう――、歴史をふりかえれば、たとえ性格の優れた聖人的な者が領主として君臨しても善政はできない。

 

戦国武将が主役なら、結末の先には必ず、税収を確保する地道な役人仕事や、減収への節約対策が口をがっぽり開けていて、――使用済みコピー用紙の裏面を再使用したり、蛍光灯を間引いたり、昼休みの消灯に励んでも、建物・設備の老朽化が著しい現代と同じような、いじましく貧しい経営――が待っている。

百姓や町人の権利をめぐるややこしい裁判もたくさん発生するし、治水土木も司らなくてはいけない。低収入に苦しんでいるのに。

それに、江戸時代の終わり頃になると、領地(田舎)は少子化、若年層の流出、荒地増大等の現代と同じような問題にも直面する(横浜開港により、人々が養蚕で儲かるのは確かだが、男性が資本家となり、それまで養蚕を担ってきた女性が低賃金で搾取されるシルク・ランド「絹の国」でもあったようだ)。

一体、なんで天下を取りたいのか、覇権を握りたいのか、全くもってわからない。

 

しかし、『ダンバー』はリア王が現代のメディア王であるので、衆庶を惹きつけてやまない王とはどんなものであるかが、よくわかる。

王権をめぐって動き回る人間がリアルである。

例えば、マーク(姉娘アビゲイルの夫、原作のオールバニ公)は名家の出身、善良な人物で、自らフロレンス(原作のコーディーリア)側に回るが、最後は、株の利益を最大に得るために恐妻と買収先を両天秤にかけ、高みの見物を決め込むことにする。

彼の夢はミンディとのんびり暮らすこと。そういう純朴さを持っているが、金のことで不安でたまらない。

「金銭とは、どれだけあればよいものか。」「すでに持っているだけで充分だとは到底思えなくて、いつまでも答えが見えてこない。」

(計算してみる)「ざっと五千万ドルというところだ。すごい大金だと思えたはずの時代もうっすらと記憶には残っているが、いままで二十年も億万長者の一族に感化されてねじ曲がった根性で考えれば、へんに物足りない。」

 

ボブ博士も興味深い。本作では高齢で傲慢、孤独な王は、認知症ではない。

ダンバーは薬物を盛られ、イギリスの湖水地方に閉じ込められ(雪嵐の山野を彷徨うことにな)るが、この謀略に欠かせない人物である。

侍医とか医師は、創作ではいい人物に描かれることもある(バルサが活躍する上橋菜穂子の「守り人」シリーズとか)

けれども、本作の「御典医」の頭の中は大金を手に入れることでいっぱいだ。

「おのれの機転に、知謀に、特異の才によって、また凡人の囚われがちな奴隷根性を超越したことによって獲得するのだ。」

まるでシェイクスピア劇の人物にぴったりの大層な言葉だが、欲しいのはのは富裕で安楽な生活である。

(計算してみる)「億万長者のお抱え医師として慣れてしまった生活を、少なくとも疑似的な形態としては維持することができるだろう。」

「いままでコグニチェンティとダンバー姉妹を両天秤に掛けながら、もう引退して楽に暮らせる金は稼いできた。これからは自分の面倒を見るだけだ。超高級な医師としての処方と診療を自分のために用いる。だが、そのためには、うまく逃げなければならない。」

うまく逃げられると信じている。

 

このように、王権を簒奪する度胸はないけれど、何とかおこぼれに与(あずか)ろうと、パワフルな悪女姉妹の周りで右往左往し、協力者を装っている(と本人たちは思っている)小人物たちが中々おもしろかった。

とはいえ、いろいろな人物が出てくるので、読者の興味に応じた人物が見つかるだろう。この点でもテレビドラマ的である。

 

昔が舞台の話と細部が重ね合わせられるところもおもしろい。

王が隔離されるメドウミード城は、海を隔てた外国の湖畔にある立派な病院。

アビゲイル・メガン勢が父親“捕縛”のために進駐するのは、「四柱式ベッド、鉛の窓格子、小さいバラの花がこぼれるような壁紙」、そして飾りの暖炉を備えたカントリーハウス風ホテル「キングス・ヘッド」。

フロレンスも居心地のいい城を所有している――ニューヨークのセントラルパークに面した場所に。

 

王の話に馬は付き物だ。

独力で帝国を築き上げたダンバー自慢の名馬は「グローバル・ワン」

超豪華プライベート・ジェットである。

けれども、道化師ピーターの計略により、病院からの脱走を成功させたのはバギー(車の通れない道も通行可)。

我らがフロレンスも大陸(アメリカ大陸)より駆けつけ、ヘリコプターに乗って雪山の父親を捜索する。かっこよ(良)。

 

本作の機長や、車の運転手はさながら古参の従者という感じ。

リア王』と言えば欠かせない道化師は、テレビで活躍した喜劇役者。

追放される有能な忠臣は、ダンバー・トラストの顧問弁護士。

原作でエドガー(家臣の息子)にあたる人物クリスが終始、フロレンスを支えるのは忘れられない昔の恋人だから。

 

我が子への復讐に燃え、王国の奪回に出発する王の服装も印象的である。

「大きな黒いコートは扱いにくいほどの重さがあって、胸にダブルのボタンがならび、毛皮の襟もついている。」

高価で豪奢なコートなのだ。

もちろん、帯剣もしている。ーー立派なアーミーナイフが登場する。

 

本作について、原作を現代のものに置き換え、なぞっているだけだというような感想も見た。

前記2作ほどの、現代感覚に合った批判的でかつ創造的な解釈、「語り直し」はないかもしれない。

けれども、厳粛で怖そうな戯曲を読む勇気のないわたしには、テレビドラマのようで読みやすく、十分おもしろかった。

河合祥一郎氏の解説もありがたい。

原作の長女ゴネリル・次女リーガンについて「フォーリオ版に基づく『リア王の悲劇』では平板な悪女たちとなっていない」という点がとても気になるが。

 

そして、悲劇だけれども、全てが無に帰す悲劇ではない、というような作者の解釈に拍手。

書かれない結末のその後を想像すればするほどに。

多くの人間が血眼になって追いまくる巨額の資産よりも尊いもの――お金のない庶民でも持っているもの、――愛が輝く。