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酷い!真田丸で撃滅された雑兵の気持ち『とっぴんぱらりの風太郎』万城目学著

『ローグ・ワン』と似ているけれど、こちらを読み終わった直後は、怒りすら覚えた。

なぜなら、本を読める時間はあまり無いので、読む本一冊一冊は自分にとって最高の本であってほしい。

(本だけでなく、映画や音楽、マンガに対しても同じように期待してしまう)

作家は、それまでと趣向の異なる作品や、実験的な作品、挑戦的な作品を試みて、どんどん次段階の作品世界へと昇っていけるのだろう。

しかし、享受者でしかない自分は、後味の悪さを晴らす術を知らず、惑乱するばかり。

 

今は『とっぴんぱらりの風太郎』の作者のたくらみがわかる気がする。

全ては罠、戦術だったのだ。

のんびりとした感じ、とぼけて、ほんわかとした感じ、笑いとユーモア、喜劇の味わい。

「忍び」の組織から放り出され、都の郊外に賃貸住まい、日雇い(アルバイト)で糊口をしのぐという設定は、世俗からの浮遊感、超俗感を生じる。

――ねぐらの「吉田山」が今の京都大学あたりであるのも、関連を感じる――

 

 

友人の忍び「黒弓」の造型も大きい。

明るくてマカオ育ち、南蛮貿易の商才にも長けているというのだから、スケールの大きな渡海後日談を期待できる。

 

主人公の名前「風太郎」だって音は「ぷうたろ~」で、「ぷう」と呼ばれたりする。

この若者の言動によって脱力系、ほのぼのとする話、という印象は高まる。

しかも、彼は優れた忍びであり、リストラされても鍛錬に励んでいるというのだから頼もしく、痛快な展開しか予想できない。

 

共に伊賀の忍者屋敷(殺人者育成施設)で教練され、過酷な運命を生き延びた孤児の忍び(少年少女兵士)の「蝉左右衛門」「常世」「百市」との仲は険悪だったけれども、終局では結束して困難に挑むという展開。

しかも、格式高い神様までふらりと作中に顕現し、高度な神術を自在に操り、ここぞという時にはものすごい神風を吹かせてくれる。

 

本作の重要人物、豊臣秀頼だって一般には愚昧、暗君の印象があるけれど、本作では愛らしい造型で、稀代のゆるキャラ。

それに、冷酷そうな忍びの上役や先輩まで、情け深い素顔を見せるので、ほろりとさせられてしまう。

「この小説には悪人なんて、出てこない、勧善懲悪なんだ」

 

装幀もルイ・ヴィトンみたいに、紋様が散りばめられていて、かわいい。

帯文も蠱惑的。

何より、万城目学氏の小説は評価が高く、自分が読んだ『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』『偉大なる、しゅららぼん』は総じて知的で朗らか、カタルシスの得られる作風だった‥‥

 

しかし、読み終わって判った。

何もかもが、わたしにとっては甘美な誘いのトラップであり、戦場における城の仕掛けであったのだ。

非日常の世界に遊びたい、俗世を笑い飛ばして、楽に幸福に酔いたい。

恒久の安寧、全き平和(ピースフルな世界、ラブ&ピース)を渇望して、(まさにNHK大河ドラマ『真田丸』の家康陣の幟の「厭離穢土、欣求浄土」)、大阪冬の陣で真田丸に突撃し、戦の無情に瞬殺された有象無象の雑兵と同じだった‥‥

 

 

もともと手に取ったきっかけは、大河ドラマ『真田丸』(三谷幸喜脚本)が表だとすれば、裏にあたるらしい『とっぴんぱらりの風太郎』を楽しみたい、と思ったから。

たしかに表と裏だった。

『真田丸』は武将や大名の目線から描き、『とっぴんぱらりの風太郎』が描くのは、抜け忍みたいな中途半端で、洛外へ住み着いた流れ者――まさにプータロー、プー ――による、庶民が直面した戦国時代最後の日々。

『真田丸』は喜劇で、最後までユーモアを放散していたけれど、しっかりと史実に基づき、神などちらりとも降臨せず、現実的で、(せいぜい、武田信玄公の御霊が登場人物の心内に暗示されるくらい)、格調高く人生の意味、価値を肯定的に謳いあげてくれたので、ドラマ見巧者になった錯覚を味わえ、快かった。

ところが、『とっぴんぱらりの風太郎』は優れた忍術冴え渡り、神仙まで参戦し、コミカルに描かれているのに、終盤は一つ一つの駒が恐ろしい速さで裏返っていく。

全滅へ。

 

結びから読み取れたのは、向日的な『真田丸』とは対極的な、人生の虚無感、生の無意味。

小説の盤上の駒である、主人公の名前からしてそうだった。

「風太郎」の「風」も、空しさにつながる。

目的、ミッションは達成し、心に何かは得たけれど、無残な最期。

大事なことの全ては「百」に伝えられなかったし。

 

 

今ふりかえれば、戦さを憎み、忍び稼業から離れてひょうたん屋として太平の天下に生きていくだろう少女「芥下(げげ)」の、必ず帰ってきて、という言葉。

それに応えた風太郎の様子。

また、忍者が首領や主家の藤堂家によって無用な存在として抹殺されていく過程で、関係者たちが風太郎に繰り返し掛ける言葉。

生きろ、生きることだけが大切だ。

 

徳川方も豊臣方も権力側は加害でしかない、戦の残虐性。

――通俗的でお涙頂戴的な場面や、神の加勢による非現実的で安易な展開が目立つと感じていたけれど、一方で、そういったウェットだったり、超人的な設定(まさにフォースの存在)によって大団円の結末を恃み、うかうかと安心しきっている自分がいたのだ。

 

ところが、特攻して死闘を繰り広げ、虎口を脱した風太郎に伴走して辿りついたのは、極めてドライな、乾いて現実的な結末。

ここに至り、それまで各所に散見された、戦争や権力闘争のせいで人生をめちゃめちゃにされる庶民の、通俗的で涙を誘う細部がつながり、切なくなる。

 

 

一縷の希望が託され、未来に光は射したけれども、そのための献身的な死闘の全容、無残に命を散らせていった多くの若者の生き様や葛藤、切実な願いは、誰にも伝わらない。

読者を除いては。

こういった作品・作家と読者との共犯関係、心を通しての極めて親密で個人的な関係は、スターウォーズ(STAR WARS)の『ローグ・ワン(Rogue One)』と同じだ。

 

また、『とっぴんぱらりの風太郎』と『プリンセス・トヨトミ』の関係は、『ローグ・ワン』と『エピソード4(EpisodeⅣ)』(公開第一作/ルークの活躍を描く)とまったく同じだ。

ただし、『ローグ・ワン』は全編シリアスで、終局の深刻な一点へ向かっているのがわかる。

それでいて、最初から最後まで観客が“楽しめる”、満喫できる。

さすが、娯楽大作映画。

 

同時代を忍者の視点から語る司馬遼太郎の『風神の門』も思い出される。

飄々として軽快で、主役の霧隠才蔵(服部才蔵)は無敵。

同時に、直木賞受賞作の『梟の城』のように、生きることへの虚無感も流れている。

今ふりかえると、世俗との距離、権力への醒めた視線など、文学風味が多分に入っている。

それでいて、結末は愛と平和の成就するハッピーエンド。

さすが、娯楽小説。

 

 

対して、『とっぴんぱらりの風太郎』は想定外の後味の悪さに急襲され、「時間を返せ」と腸の煮えくり返る思いがふつふつと沸いてきた。

まったく、自分はご褒美に飢えていて、音に聞こえ、実際見てくれのよい名城の攻略に便乗し、退屈な日常を一変させたかった一兵卒。

百戦錬磨の城主の策略通りに、甘美な期待を掻き立てられ、城奥までまんまとおびき寄せられて一斉射撃を浴びるや、辞世の歌を詠む間もなく斃れたに過ぎない。

雑兵でしかない自分のさもしさ、卑小さ、無力を突き付けられ、とっても惨め(泣)‥‥

 

 

作中に増量し、あふれゆくひょうたんに、『プリンセス・トヨトミ』と関係するなあ、とぼんやり思っていただけで、「直結している」という、読後の鬱屈感を少し吹き飛ばしてくれる情報は、インターネットで知った。

本作は、そういう魅力的な仕掛けを自ら読み取れる、力量ある作家のファン、あともしかしたら、通好み、通人にも全面的に支持され、喜ばれるだろう。

逆にこういう作風は、庶民からの興行収入が課される映像化は容易でないかもしれない。

ただ、戦争の悲惨さや、人生を巧みに描いた小説である。

 

つまり、優れている本作に対し、伏線を誤読した者が恨み言を連ねただけでは意味がない。

過酷な小説戦国時代に安住の楽土を夢見てさすらう、一雑兵でしかない自分に対して誓うだけだ。

「これからは、騙されないぞ」「罠を見破って、もう引っ掛からないぞ」

教訓を得られたという点によって、気持ちが晴れ晴れとし、たっぷりと堪能できた気になった本。 

とっぴんぱらりの風太郎

とっぴんぱらりの風太郎

 

  

  

  

風神の門(上下) 合本版

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真田丸 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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