源氏物語「幻」巻に重陽の節句が書かれているというので読んでみたら

9月9日は重陽節句。『源氏物語』には、菊の花の上に綿をかぶせ、その露で身体の老いを拭い、長寿を願う平安時代の風習が描かれています。画像は紅葉山文庫旧蔵の『源氏物語』より「幻」。江戸時代前期の写本と考えられています。 

 国立公文書館 (@JPNatArchives) | Twitter 

 菊花の風習はたしかに描かれていたけれど、この帖はやっぱり、光源氏が紫の上からもらった全ての文(ふみ/手紙)を破って火にくべる場面が秀逸だ。

一年の最後の月(極月)に。

若い頃から、仏道入りが頭をよぎっていた源氏がとうとう、この世に対する執着、絆(ほだし)を捨て去った、という感が極まり、象徴的な出来事に思われる。

源氏の生の最後の頂(いただき)、人間らしい活動。

人としての最後の極み、果て。

槍ヶ岳みたいな鋭い峰に立っているような印象を受ける。

 

同時にこの焼却によって、源氏だけでなく読者にとっても愛すべき、なつかしき紫の上の文は、一字たりともこの世に残らない。

彼女の生(なま)の手跡、生き生きとした愛の声は、後世に伝えられることがない。

作者の紫式部により、ただこの本、この物語にのみ籠められる。

凝った美しい結晶のように。

 

 一方、この場面に至るまでの話には、驚くほど感銘を受けなかった‥‥

巻の最初のエピソードからして、兵部卿の宮(蛍宮/源氏の弟)に源氏はこんな歌を送るのだ。 

 わが宿は花もてはやす人もなし何にか春の訪ね来つらん 

――せっかく訪問した人に対し、キッツイ歌ではないか?

 

肝心の紫の上を偲ぶ場面にも、共感しかねる。

たとえば、女三宮降嫁の翌朝を回想する場面。

わが身も冷え入るやうにおぼえて(略)

袖のいたう泣き濡らし給へりけるを引き隠し、せめて紛らはし給へりしほどの用意などを、夜もすがら、夢にても又はいかならむ世かとおぼしつづけらる。

曙にしも曹司に下るる女房なるべし、「いみじう積りにける雪かな」と言ふ声を聞きつけ給へる、ただその折の心地するに‥‥

――老人っぽい懐古、と思ってしまう。

いぢらしい女性が好みなんだな、どんな時も自分を愛してくれる女が。

紫の上は怒って、暴れたっていいのになあ。

 

 【女人巡り1】

現代の感覚ではびっくりなことに、紫の上を恋うてやまない源氏には若い愛人がいる。

女房の「中将の君」。

紫の上がかわいがっていたから、という理由にも、こちらは変な気持ちがするのだが、この女(ひと。たぶん美少女)は「心ばせ、かたちなども目安くて」、つまり、ミニ紫の上なのである。

そして、この女性と源氏の応答がわたしには、源氏と性的関係を持つと愚痴を聞かされる、という印象を与えるばかり。

 

葵祭の場面なんか、老男と若い女性の部下のような対話だ。

魅力的な身体に惹かれて、源氏が戯れ言を掛けて構うところも。

中将の君の返答が、職場の社交辞令的な対応に見えてしまうところも。

 

 【女人巡り2】

源氏を心配し訪れるお客さんとの面会は、拒否している源氏。

だが、女三宮(入道宮)に自ら会いに行く。

離婚されたのに。

ーー「幻」帖は源氏の出家に至るまでの必要な要素を順番に一つずつ描き、段階を上げていく巻でもある。

 

無言の女三宮に対し、源氏の方から口火を切ったように想像されるのだが、これまた老人ぽい話しかけ方に、わたしは感じる。

それに、話し掛けておいて、自分語りしかしない客なのだ。

読んでいるこちらからすれば、女三宮に素っ気なく応対されるのも尤もなのに、いまだに紫さんと比較する元夫。

いはけなかりし程よりの御ありさまを、いで、何事ぞやありし、とおぼし出づるには、まづその折かの折、かどかどしう、らうらうじう、匂ひ多かりし心ざま、もてなし、言の葉のみ思ひつづけられ給ふに‥‥

この青春回顧のうら悲しさ。

同時に、紫の上の“理想の妻”化、神聖視が進んでいくのも気になる。

 

というのも、「若菜」巻以降に描かれる紫の上の苦悩は激しく、それは彼女を死に至らしめるほど甚大だったけれど、同時に人の普遍的な苦しみでもあった。

また、「さは自らの祈りなりける」(若菜 下)というような深い言葉も発していて、「若紫」での登場時の少女像と重なって見えていた彼女の、成熟した面を垣間見せてくれる。

一人の女性の普遍性と個性。

 

ところが、紫の上没後の翌年を描く「幻」巻では、そういった、源氏物語を傑作に高めていた特質が、全て顧みられていない。

帖によってキャラクターや描かれ方が変わってしまう一貫性の欠落は、源氏物語ではよくあるけれど。

(「蓬生」で理想的な宮家の姫として描かれた末摘花。出家前後は凛々しい感じの女三宮。幼なじみの恋にぴったりだった雲居雁。源氏の唯一の娘としてすてきな感じだった明石の中宮が「宇治十帖」では、口うるさい中年の"皇后"になってしまう豹変ぶりなど)

 

 【女人巡り3】

若い元妻を訪れ、飽き足らない源氏は、その足で古妻の明石の御方へ向かう‥‥

そしてまた、紫の上と比較するのだ。

失礼極まりない。

 

ただ、この二人の場面は、いかにも長年のお付合い同士の交流、という自然さがある。

源氏もやっと心安らぎ、語りはじめる。

人をあはれと心とどめむは、いとわろかべきことと、古より思ひ得て、全ていかなる方にも、この世に執とまるべき事なく、心遣ひをせしに‥‥

 

命をも自ら捨てつべく、野山の末にはふらかさんに‥‥

えっ!? 確かに若い頃から志は口にしていたけれど、この場面では虚言、大口の言い訳に聞こえてしまう。

 

対する明石の君のせりふの前半は理想的で、この人の鋭い想像力、洞察、論理を示している。

ところが、続く後半は、娘と孫の将来しか眼中にない現実的方策で、おもしろい。

 

源氏は釈明として、紫の上への思いを臆面もなく語る。

読んだ感想――またも老い人の繰り言かぁ。明石の君は、馴染み客の愚痴を聞かされる居酒屋の女店主みたいで、可哀想。賢くて実行力があり、都会的で気高い感覚の持ち主ですてき、個性的な人なのに、源氏を愛してしまったばかりに、愛されなかった女(ひと)感が強まってしまうなあ。

 

源氏が優しい慰めを期待して訪れたら、逆に政治的な陳情をされた場面ではある。

源氏自身は、紫の上が明石の姫君を介して明石の君と協調しつつも、一定の距離を置いていた独特な関係を回顧する。

読んだ感想――えらそうな上から目線の思いでは? そして、この場面の結び、「昔の御ありさまには名残りなくなりにたるべし」は、いかにも晩年という感じ。

 

 【女人巡り4】

「幻」巻は邸だけを舞台に、新年から始め、四季とそれぞれの行事とともに、巡る一年を描いているが、――玉鬘十帖の趣向と似ている。ただし、あちらのなんと、眼も眩むばかりに華やかなこと!――、そこでは六条院、二条院の“源氏ハーレム”に入ったことがなく、有名でもない女性のことも懐古される。

「筑紫の五節」なる女性である。

本文の記述はごく僅かなのに、若い時の美少女との数回の逢瀬を思い出す源氏の姿は強烈で、内面に甦るエロス、という感じを受ける。

それも、あまりに場面の古(いにしえ)感、懐古感濃きがために。

 

 【理想?】

源氏のまわりの女房達は、源氏が出家の決意を固めたことを察しているが、文句を言わない。

理想的な侍女たちなのだ。

逆に言えば受動的、類型的、没個性でもある。

もしも、彼女たちを中心に据えたコメディ・ドラマがあれば、居酒屋やレストランの女子会で、「一生安泰だと思っていたのに! 勤め先が無くなる!」と怒ったり、愚痴ったらいいのに。

 

源氏が訪問客とほとんど会わない理由は「月ごろ、ほけにたらむ身のありさま」「後の名さへうたてあるべし」とか。

十分愚痴っぽいのに、体裁、噂を気にして変に自制している。

と、こういう箇所にすら、こちらは批判的になってしまう。

 

 【美と衰え】

往年の源氏物語らしい王朝絵巻みたいな、美しく心地いい場面もある。

匂宮は、紫の上から託された紅梅や桜を大切にしている。

源氏と、彼の美質を受け継ぐかのように描かれている孫皇子。

二人のふれあいを描く一コマは、幼い皇子はかわいらしいし、花の記述も美しい。

彩りと香りに満ちた、遺された花園。

花苑の中の無邪気な皇子。

 

一方、調度や装飾に手を入れないので、邸内は少しずつ荒れてきている、というか、邸としての生命は終わろうとしている‥‥

 

 【最後の女人巡り】

この辺りまで物語の中に好意的には入り込めなかったけれども、冒頭に述べた文(ふみ)を処分する場面は心に残る。

言葉も。――「みな焼かせ給ふ。」

源氏の現世で最後に登場する女性は、やはり紫の上なのだ、と実感される。

 

その後の仏名会の場面の導師の返歌は、源氏の心内でもあるように思える。 

千代の春みるべき花と祈りおきて我が身ぞ雪とともにふりぬる 

子孫や仕える人たちの幸せを祈る一方で、いつの間にか老いの只中にあった自分への慨嘆、諦観、寂しさ。

ほぼ無から自分が築いた広い邸内に、独りぽつんと座った男の姿が見えるようだ。

周りはがらんとして誰もいない。

 

帖ももう終わりだ。

源氏はとうとう最後の歌を詠む。

もちろん出家後も詠んだのだろうが、読者が読める最後の歌だ。

もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる

年もわが世も今日や尽きぬる

まさに最後の歌にふさわしい。

これこそ源氏だ、と感嘆させられる。

 

注(新古典大系岩波書店)によれば、後撰集藤原敦忠の和歌の上三句をそのまま引いているというが、わたしには単純に『伊勢物語』の最終段、例の「男」の最期の場面、辞世の歌が連想される。

つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

 

源氏物語も「ある男」の一生の物語だ。

伊勢物語の二番煎じではなく、あえて言えば、“今伊勢物語”。

男女の多様で美しい恋愛を描くも、「男」が社会的には落ちぶれゆく伊勢物語と違って、源氏物語政治界で立身出世し、栄華を極める様子がリアリティをもって描かれている。

ところが、最後の方はやはり愛の話なのだ。

 

「若菜 上」巻から、源氏は愛欲により人生を暗黒面へ反転させる。

それまで自分を幸福にしてきた愛欲が因果となって、内心の苦しみ多い、昏き晩年を送る。

そして、紫の上の死によりようやく、愛とは何かを知った感じになる。

愛の全体像みたいなものを。

 

それを女性との逢瀬ではなく、死、別れから知らされるところが普遍的だ。

源氏物語は源氏がさまざまな美質を発揮し、社会的にも成功する様子が多方面で描かれているけれど、最後は「恋」の男として生を終える。

 

 【新生であり、とぢめ】

源氏の歌に二つの文が続く。

現代的な小説の読み方としては、率直に吐露した内心が共感を呼ぶ歌で終わってもいいかも。

でも、やっぱり年の最後の日、大みそかの夜の源氏を描いて終わるのもいいかも、と決めがたい。

 

「幻」巻は紫の上亡き後の春から、次の春の始まる直前までを描いているが、春はまた訪れても再生ではない。

これまでたくさんの別れを体験し、そのたびに立ち直り、いわば蘇生してきた源氏が、とうとう一直線の人生を生きてゆく。

誰もが通る、ありふれた一本道のような人生を。

 

とはいえ、別の意味ではやっぱり「再生」である。

あの世への、彼岸への。

物語の後、仏道の世界へ生まれたろうことが読者には予感される。

途中はなかなか感銘を受けなかった「幻」巻の源氏だけれど、最後には確かな決意と、新生せんと踏み出す、清く淡い光を発するような姿で物語は結ばれる。

明るい兆し、うっすらとした清浄な光(仏様の後光みたいな)が発しているような結末だ。

 

そして、物語が終わった後の余白、白いところに想像されるのは、出家後まもなく(長くて五年余りでは)に訪れるだろう「彼」の死だ。

栄華の人が無として終わる。

 

 もし、死別した伴侶の本質を理解していない老男が愚かしくうろうろする、可笑しみすら漂う一巻しか後世に残らなかったら?

あるいは読まなかったら?

源氏物語が人生ついての飛び抜けた傑作だとはわからないのではないか?

 

この巻で出てきた、「とぢめ」という言葉が印象に残っている。

源氏が侍女たちに語っている言葉だが、漢字で表せば、閉じ目か。

まさに閉じようとする戸の、僅かな隙間から覗くように、一年が描かれている“最終巻”。

一人の女の死を契機に、自らも死へと歩みゆく源氏の最後の姿が、ほぼ半世紀に渡る物語全体を背景として、しみじみとした感慨をもたらす。  

源氏物語 4 (新 日本古典文学大系)

源氏物語 4 (新 日本古典文学大系)

 

 

源氏物語索引 (新日本古典文学大系)

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