新年、欧米の現代小説3冊め。けれども、比較にならないくらい読みにくかった。
前の2冊(ユーリ・ツェー『人間の彼方』、アン・タイラー『ヴィネガー・ガール 語りなおしシェイクスピア じゃじゃ馬ならし』)がいかに国外のいろいろな人にも読みやすいよう工夫されていたか、たとえば、情報を適量にして内容を均していたかを思い知らされた。『となりのブラックガール』は最近のニューヨークの流行やライフスタイルに関する多くの具体的なモノ・コトに満ちているから。
消費生活はもちろん、社会に敏感でいるためのメディア(SNS)と発信者(インフルエンサー)も重要な要素として描かれる。
何に関心を持っているか、持つべきだと意を払っているか。そういった消費や受容や興味の対象から、有名な出版社に就職できた、若くはつらつとしたワーキングガールたちが浮かび上がる。まるで、自分まで高学歴を獲得し、世界に開かれた大都会の住人として日々闊歩しているかのような楽しさ、高揚感、未来への期待。
ところが、この極上の文芸編集者「お仕事小説」は、巧妙に隠されている社会のしくみを暴き出す小説であり、そのテーマはタイトルやあらすじの紹介通り、アメリカの黒人差別なのだけれど、実は極東の読者にとっても、いかなる「差別」にも通じることが一番興味深かった。
この感じは、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の読後感と似ている。
近未来の遺伝子管理の話なのに、今の自分を取り巻く世界がまるで違ったものに見える。
身近なスーパーや、現実にもネットにもあふれている可愛いペットたち。
「もう今までのようには生きていけない」と切実に思わされる‥‥
以下、ネタバレ。なぜなら、何度か試みたものの、結局、わたしはこの小説の感想は、全体をふまえてしか語れないので。
最後の部分に差し掛かるまでは、エンターテインメント映画を楽しむような読者でいられる。
本作の意図は結末に託されているから。
しかし、実際はこの小説は、
半分あたりで、
別の種類の小説に変貌している。
カバー裏の説明通り、「皮肉と風刺に満ちた」「スリラー」、怖い小説へ。
スタイルとしては、一昔前の筒井康隆、清水義範、星新一、世にも奇妙な物語に近いのかな、知らんけど。
最初はラスト・シーンに衝撃を受けて混乱した。
でも、ディストピア小説、後味の良くない作品、オープンエンドに落ち着かない人も心配不要。
全体を振り返れば、悪夢みたいな後半の怒涛の展開は現実離れしていたし、逆に前半のヘイゼルの好感度高い人物像は明快だったし、この結末も衝撃を与えるためのものだって判るから。
主眼は、リアルな出版業界のお仕事小説、しかも、魅力的な登場人物が友情を結び、連帯して悪を懲らしめる痛快なシスター・フッド×アクション、ではなくて。
現代小説を読み慣れている人、読書通の人々には、珍しくない書き方・スタイルの小説なのかもしれない。
書き方としてはある意味、あざとく、計算しつくされている。
けれどもやっぱり、テーマがあまりにも日本社会の差別と同じであることがわたしを突き刺す。
「ここ」にも深刻な差別があるから。
黒人差別には及びもつかない?
いやいや。
――女性差別(男女格差)、障害者差別、外国人差別、高齢者差別、若年者への性的加害(断じていたずらなんかではない)、地方の切り捨て、とか無数にあって深刻。
しかも、これらも本作の提示するものと同じ構造にあるのではないか、と思わざるをえない。
なぜ、差別が一向に無くならないのか?
メディアや編集者(優秀で意欲とセンスのある黒人女性)、作家(黒人大学を卒業した女性の大学教員)、記者、文学を好きな人たち、創作活動・表現活動をしている人たち――発信する人々、創造的なことを為している人々と業界が、差別・格差を進めている。
この小説を真剣に受け止めれば、文芸に携わる人としての矜持を抱き、時空を超えた「永遠の共同体」を信じている人たち、民主的な見方、リベラルな精神を尊んでいる人たちのプライドが破壊されている。
本作の仄めかしによれば、科学の世界でも、大学でも。
ハラスメントに敏感で、加害を許さず、弱者にまなざしを向けている、と自負する人々が実は新しい芽をむしり取っているから。
排除するのではなく、洗脳して、手先に変えて。
しかも、彼女を幸福にするために、と信じて。
「愛している」と思って。
ああ、本作のリアルなことよ。
実際、私たちの周りには魅力的な「となりのブラックガール」が増加中なのだから。
公平を重視し、学歴・キャリアも立派で、人柄もすてき、業務外では創造的な社会活動にも携わっていて、各自のアイデンティティを表したファッション・ヘアスタイルを自然にまとう人たちが。
社会でも学校でも、差別に関する法律や部署は整備されているし、差別は研究分野として確立されている。
そんな中、新しい人たちが日々「それぞれの分野にトップにのぼりつめる」。
だから、差別の解消は少しずつ進み、多様性(ダイバーシティ)が浸透しつつある、ように見える。
「幾世代か後には、幸福な世界が実現するだろう、あともう少し‥‥」 浄土を待つ心境でいる。
しかし、本作の示す矯正(救済)の構造は、日本社会のいろいろな差別と同じではないか。
たとえば、この国では人口の半分もの人たちが、明らかに造り変えられてきた。
学校で、社会で、家庭で。
期待に胸を弾ませ飛び込んだ現実に傷つき、いつの間にか、自分の心の保守(メンテナンス、調整)で精一杯になってしまう。
若い時に束の間、夢見た未来と乖離していても、「これが現実なのだ、世間の荒海とはこういうことなのだ、往古から文人たちが嘆く人生のむなしさとはこのことなのだ」とむしろ冷静で客観的に、人生の深奥を知ったかのように思わされる。
さまざまな分野に女性が増えていて、海外では総理大臣も珍しくないのを見ながら。
実は、それは寂しい諦めなのだ‥‥
最後に。
希望も書いておきたい。
本作は読み始めたら止まらない娯楽小説で、凄い筆力でもってページをめくらされながらも、後半は徐々に増す不安と痛みを、結末では衝撃を与えられる。
ただ、これは告発する内容を高く掲げる小説のパターンなのだ。
本とは、作中にも使われている言葉のごとく「パンドラの箱」である。
ギリシア神話のごとく、愚鈍な一人の女性が期待に胸を膨らませて本を開けると、あらゆる悪、とびっきりのひどい悪、やりきれない悪夢が飛び出す――最悪の構造に自分が取り込まれていることに、まざまざと気づかされる――、でも、希望は残る。
シャニはネラと同じ?
彼女はまたも逃げおおせた。
彼女は記事を「書いた」
伝説の編集者ケンドラ・レイ(ケニー)は?
彼女は既に半世紀くらい生き延びて、シャニを救った。
そして、Zakia Dalila Harris
ワシントン大統領の奴隷だった女性の逸話が思われる。
聡明な彼女は脱出に成功するも(マーサもジョージも、自分たちは奴隷を厚遇し、保護していると信じていた)、晩年は貧窮の中、声を上げずに世を去ったようだ(『わたしは大統領の奴隷だった ワシントン家から逃げ出した奴隷の物語』 キャサリン・ヴァン・クリーヴ、エリカ・アームストロング・ダンバー、渋谷弘子訳、汐文社)。
けれども長い年月の後、ザキヤが「書いた」。
そして、遠いアジアの田舎の、全く異なる人種、文化の人間が偶然読み、感銘を受けた。
だから、こう言いたい。
シスター、「となりのブラックガール」に万歳!
〔追記〕
『となりのブラックガール』(岩瀬徳子訳、早川書房)のことを正しく説明できていない気がする。
黒人女性への差別を声高に告発する硬派な社会小説、というのではない。
この小説の実体は、カバー裏の文言の通り、「皮肉と風刺に満ちた」「スリラー」。
作者のザキヤ・ダリル・ハリスも、謝辞でぴったりな言葉を使っている――「怪談」
そう、怪談。
怪談だから、前半のストーリーも滑らかでリズミカルなのだ。
痛快な小説と怪談は途中まで同じ幹。
不穏で怖い結末に対する「レジスタンス」としての希望について。
現実では連帯は難しい。
だから、本作のストーリーにリアルな恐怖や諦めを感じてしまう。
けれども、高名な黒人女性作家ダイアナ・ゴードンも嘆息しているように「いつもその職場で唯一の黒人女性になってしまう」
これが弱点なのだ。
では、もう一人、シェニのとなりに新しいブラックガールが登場しますように。
続編を待望する。