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椿餅と源氏物語――いはけなき柏木物語「若菜」

記憶の本棚−ほんの感想

(承前)
柏木が女三の宮を見た蹴鞠のあと、源氏は"東の対の南面"で人々をもてなす(「若菜 上」)
華やかなイベントは新婚の宮側に見せて、準備の必要な宴会は、センスが良くて女主人として有能な紫の上側に任せる、ということだろうか。

殿上人は簀の子に、わらうだ(円座)召して、わざとなく、
椿餅(つばいもちひ)、梨、柑子やうの物ども、
さまざまに箱の蓋どもに取り交ぜつつあるを、若き人々、そぼれ取り食ふ。
さるべき干物(からもの)ばかりして、御かはらけ参る。

いろいろな一口サイズの食べ物が美しく、しかし気取りなく並べられている様子が浮かぶ。
「梨」は秋の果物だから、生の梨そのものではないだろう。
「椿餅、梨、柑子やうの物」――最初に列記されているものは、すべて甘いものである。
それを、夕霧や柏木や蛍兵部卿宮(源氏異母弟)ほど高位ではない若い貴族たちが、はしゃぎながら摘んだのだ。
塩味の効いた干物もたんと出て、お酒を飲み始める。


――椿餅を「つばいもちひ(ゐ)」と書くのは、不思議な感じがするけれど、宇治拾遺物語の「児(ちご)のそら寝」にも「かいもちひ」とある。
餅は「もちい」「もちー」と伸ばして発音していたのだろうか。
「もちー、美味しい!」とか――


先の蹴鞠の場面は、今のサッカーの熱狂的な試合のように描かれている。
選手も観覧する女性達も、一体となって熱中したイベントとして。
その後の打ち上げだから、さぞ盛り上がっただろう。
しかし、夕霧と柏木は身分の高い人専用の席で、それぞれ考えていた。
柏木はもちろん、初めて女三の宮を見たことについて。

おぼえぬ物の隙(ひま)より、ほのかにも、それと見奉りつるにも、我、昔よりのこころざしのしるし、あるべきにや、と契りうれしき心地して、飽かずのみ、おぼゆ。

二十代半ばの男が運命を感じているなんて、幼い感じがして、「あほか」と言ってやりたくなってしまう。


しかも、このパーティーで、源氏が柏木にかける言葉は、他家の地位ある年配者からの嫌みにしか思えない(「常夏」冒頭のように)
ところが、柏木のやつは、なんと源氏に感心し、気圧されてしまうのである。

かかる人に馴らひて、いかばかりの事にか、心を移す人はものし給はん。
何事につけてか、あはれと見許し給ふばかりは、なびかしきこゆべき、と思ひめぐらすに、いとど、こよなく、御辺り遥かなるべき身の程も思ひ知らるれば、胸のみふたがりて、罷りで給ひぬ。


恋するどうしようもない貴公子は、夕霧と帰る車中でも、女三の宮を念頭に置いた話ばかり。
これでは夕霧に限らず気づくし、呆れるというものだ。

なほ、この頃のつれづれには、この院に参りて紛らはすべきなりけり。


院にはなほ、この対にのみ、ものせさせ給ふなめりな。
かの御おぼえの殊なるなめりかし。
この宮、いかにおぼすらん。
帝(朱雀帝)の並びなく、ならはし奉り給へるに、さしもあらで、屈し給ひにたらんこそ、心苦しけれ。

柏木にとって、女三の宮は孤閨に苦しむ理想の令夫人である。
夕霧が柏木の妄想を止めようとしても、

「いで、あなかま、給へ。
みな聞きても侍り。
いと、いとほしげなる折々あなるをや。
さるは、世におしなべたらぬ人の御おぼえを、有り難きわざなりや」
といとほしがる。

「いかなれば花に木伝(こづた)ふ鶯の桜をわきてねぐらとはせぬ


春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ。
あやしとおぼゆる事ぞかし」と口ずさびに言へば‥‥

歌まで歌って、源氏を批判するのだ。
六条院では媚びて、内心では劣等感に打ちのめされていたくせに。
夕霧は、実像に気づいているので、柏木の思慮の無さに閉口する。
しかし、柏木の恋は病膏肓に入るのみ。

なほ、大殿の東の対に一人住みにてぞ、ものし給ひける。


思ふ心ありて、年ごろ、かかる住まゐをするに‥‥


我が身、かばかりにて、などか思ふこと叶はざらむ、とのみ心おごりをするに、このゆうべより屈しいたく物思はしくて、いかならむ折に、また、さばかりにても、ほのかなる御ありさまをだに見む‥‥

今まで、「自分の恋は叶うはず」と思い上がっていたそうで、周りの見えていないお坊ちゃんぶりが伺える。
しかも、「宮を再び見る」とは、侵入や覗き見だから、道に外れていると思うのだが、そこは悩まない柏木である。

深き窓のうちに、何ばかりの事につけてか、かく深き心ありけり、とだに知らせ奉るべき、と胸いたく、いぶせにければ、小侍従(女三の宮の乳母子)がり、例の文、遣り給ふ。


 一日(ひとひ)、風に誘はれて、御垣(みかき)の原を分け入りて侍りしに、いとど、いかに見おとし給ひけん。


 そのゆうべより乱り心地かき暗し、あやなく、今日をながめ暮らし侍る。


など書きて、


  よそに見て折らぬなげきはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ

柏木の萌えポイントはやはり、深窓の佳人、邸内深くに住まう高貴な夫人というところらしい。


ところが、「屈しいたく物思はしく」「胸いたくいぶせ」き柏木とは対照的に、チビ猫事件を知らない小侍従は「うち笑ひて」女三の宮に報告する。
鬱屈した貴族と、「うち笑ひて」女主人に見せる仲介役の侍女。
現実にこういう対照的な光景はよく見られたのではないだろうか。

肝心の女三の宮の反応も印象的だ。

何心もなげに、のたまひて、文広げたるをご覧ず。


「見もせぬ」と言ひたるところを、あさましかりし御簾のつまを、おぼし合はせらるるに、御面、赤みて、おとどの、さばかりのついでごとに、
「大将(夕霧)に見え給ふな。
いはけなき御ありさまなめれば、おのづから取り外して、見奉るやうもありなむ」
と戒め聞こえ給ふをおぼし出づるに、大将の、さる事のありしと語り聞こえたらん時、いかにあはめ給はんと、人の見奉りけん事をば、おぼさで、まづ憚りきこえ給ふ心のうちぞ幼かりける。

 
常よりも御さしらへ無ければ‥‥

恋文を読んで、宮が抱くのは、「源氏に『あなたは幼稚だから』といつも注意されているのに、夕霧に告げ口されたらどうしよう!」という、源氏に怒られることに対する大変な怯えなのである。


柏木も、女三の宮も、そして世間体を大事にして"生活指導"する源氏も、三者三様に「いはけなき」「幼かりける」印象だ。
というか、貴族社会そのものが閉鎖的で、つまらないものなのかもしれない。


「椿餅」をつまむ宴会の場面や、その前後の場面では、源氏、女三の宮、紫の上、夕霧らの主要人物(源氏ファミリー)には、直接重要な出来事は起こっていない。
王朝絵巻そのもののような春の美しい蹴鞠を背景に、ただ一人、柏木の心の中にのみドラマは起こったのである。
「若菜 上」は小侍従による社交辞令的な返信を紹介し、閉じている。
――「かひなきことを、とあり。」