タイトルが思いつかない…

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlからの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。


 今年もまた一年がおわる。自分もまた一つ歳をとった。しかしこれからは、その次の歳へまっしぐら、という感覚をもっている。
 誕生日のころ、「これで一歩、死に近づける」と一瞬、うれしくなってしまった。捨て鉢な気持ちや浅薄な思慮から関心があるのか。ほんとうに惹かれているのか。受動的な死を待っている気はする。
 そのすこしまえ、「神様、はやく自分を殺してください」とか願っている自分がいた。あとで気づいた。この神様への願いって、安楽な死とか、意味のある死(犠牲とか殉死とか)を請うているわけで、ずるい。



 この世が嫌だから、というのではなく、この世への関心が薄くなった気がする。以前は、本を読んだり、アートを見たり、山を歩いて得られる忘我、没我没入の境地が「この世に生を受けてもらえる唯一のプレゼント」のように思ってた。この世につなぎとめてくれていた物みたいだった。
 今も、新しいものに出会えば驚くし、眼が広がる感じがするのだけど、どこか、その繰り返しに飽きてしまっている。


 一方、「本や自然の見せてくれるあまりに美しいものを得たい。でも、この世に生きていても得られない」、という絶望にも駆られる。
 薬の意味でもあり、毒薬の意味でもあるというギリシャ語「ファルマコン」を思う。本や自然や芸術は、自分にとってこの世の美味しい水、甘露であり、苦しませ、のたうちまわさせる毒の水だ。


 自分はお金が好きだと思っていた。高校のころ、夏休みに進学補習を受講しながら、こう願っていた。「将来はエアコンの効いた部屋でごろごろ寝っ転がって、本でも読んで過ごしたい」
 なんと身の程もかえりみず、玉の輿が夢だったのだ。
 このごろになって、資産や名誉、虚栄心、子どもなどが目標で価値基準の人がうらやましい。その人たちは幸福だと思うから。ゴールがわかるし、そこへ至る道筋も見えるのだから。
 でも、心の幸福みたいなものを求めていても、ゴールはわからないし、どうやったら、幸福になれるのかも、わからない。心のさびしさは埋まらない。
 「幾山河さりゆかば さびしさの果てなん国ぞ 今日も旅ゆく」という短歌(若山牧水)が嫌いになった。寂しさの果つる国はない、って言っているから。



 自分が、とびっくりしたのだけど、新興宗教の教祖とかに頼ってしまいそうだ。答えとか、生きていく方法が知りたくて。
 樋口一葉の日記をすこし読んだら、自分は一葉の享年を超えているのに、共感するところがずいぶんある。学校を出てしばらくしてから、やっと現実の厳しさを知ったからかもしれない。
 一葉が久佐賀というあやしい占い師に押しかけて会ったわけもわかる気がする。「わたしの非凡な才能を見なさい、歌塾のためのお金を出しなさい」という高圧的な脅しにも似た挑戦である一方、具体的な世渡りのすべとは違う、アドバイスがほしかったのではないか。一葉の周りにはきっと、夏子自身や妹・邦子の結婚や、収入を得る職業について、あれこれ言う人はきっといたはず。
 でもそういう、地上にごく近い所での具体的な意見ではなく、天空から見た、天の時の流れを視野に入れた広い見地がほしかったのではないか。


 一葉は日記に、命は捨てた、と書いているけれど、はなやかに生きたい、と願っている。そこが大きく違う。
 俗世、濁世、穢土、塵の中、憂き世。いままで世の中がそういうものであるから、自分は苦しめられているのだ、なんて、したり顔で思いこんでた。
 でも、自分が塵だから、塵芥(ルビをふれば、ゴミ)だからこそ、浮き世が憂き世になり、汚れ濁るのではないか。
 一葉の日記のタイトル「塵の中」はそういう意味ではない気がする。
 しかし、自分は生きていても、塵芥であること、悪人であることをやめられない。積善という言葉があるけど、生きていれば生きているほど、積悪してしまう気がする。
 以前は、聖書の「心貧しき者は幸いである、彼らのために天国はある」や「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏教の言葉にうっとりとしていた。今は、「悪人」という言葉がもっと怖ろしい感じでせまってくる。


 自殺はしないようだ。
 先に書いたように、意義のある死(犠牲とか)を願ったりしてる。
 映画かなにかのキャッチコピーに「命を捨てても守りたいものがある」ってあったけど、そんなもの、たくさんある。
 私が死ぬことで地球滅亡後も源氏物語が残るなら、私の命なんて放り投げてあげる。
 しかし、そんな“うれしい”自死のチャンス、来ないのだ。たとえば、わたしは里山が好きだけど、死んだら、守れない。
 とはいえ、生きていても、近くの野山、河川、沼が壊されているのをギリギリと睨んでいるだけ。自分をふがいなく思ったりしているのだけど。

 並木道があって、暗い長い道の出口がぽっかり開いて、明るくなっていた。その先に別の世界があるような想像に駆られた。もし本当にあるなら、さらりと行ってしまいそうだった。
 この世に大事なものはいっぱいあるはずなのに、未練は起こらなそうなのだった。
 ・・・・・・これって、「死なないで別の良い世界に行きたい」っていうことだ。
先の、「本のかいま見せてくれるような美しい光輝に満ちた世界に行きたいから死にたい」、っていうのも、
死ねばそんな世界、行けないわけで、
私は「死なないで、楽土に生きたい」っていう、ずうずうしい願いをさも美しい純粋な願いであるかのように、粉飾させて抱えていたみたいだ。これまで。


 「身土不二」っていう言葉があるとか。
 自分と世界は不二。だから、生きていくっていうのは、生きるか、死ぬかを選ぶことじゃない。それはもう選ぶことじゃない。この世から離れず、生きていくべきなのだ。
 美しい別の世界、天上にありそうな世界にいくら憧れても、この身を捨ててはそこに行けない。
 自分は一生、地べたに生きていく。
 むかし、雲は泥が成ったものと考えられていたとか。でも、泥が天に昇り、浄らかな雲に変わる時代があったしても、そのときにも、雲になれない泥・塵が世界の片隅にはいたはずだ。
 雲泥の差っていうけど、空で光って、風のままに流れて、静かに美しく消えゆく雲を、ずっと地上で見つめている、茶色いべっちゃりした泥っていうのも、絶対いたはずだ。


 自然を見ていて哀しくなるのは、前にも書いたように、きっと得られない理想を見せられること。
 それから、青空に雲が流れ、木々の葉が快く揺れていることからもつきつけられるように、すべては過ぎ去っていくこと。美を愛おしんでいる瞬間にも、限りある自分の時間は過ぎていく。
 でも、紅葉して、散っていく秋はそれほどでもない。春が哀しい。
 日に日に、というより、時々一刻、花が満開になり、緑が濃くなっていく。山はすごい勢いで変化し、美味しそうなサラダになっていく。しかしわたしの身はガタピシと、ギシギシと古びていくのだ。
 春にも書いたけれど、「花の色はうつりにけりな」って春に歌われたのがわかる気がする。あと、伊勢物語の「月やあらぬ春は昔の春ならず」
 時間が過ぎ去っていくことが実感されるのは、春なのではないかなあ。
 それに、自然は冬に死に絶えても、春に生き還る。何度も何度も、再生する。指輪みたいな環っかになっている。でも、人間の人生はまっすぐにたった一回の、はるなつあきふゆを過ぎていく。


 自分は地上を離れない一粒の泥だなあ、って思っていても悲しい。 悪人だなあ、って思っていても、ますます積悪していくみたいだし。夢中になるものは見つけたけど、それだけを目標にしては生きていけないし。
 映画や音楽や本が表しているように、本当に、生きていくって悲しいこと・つらいことを抱えていくことみたい。
 十代後半に死にたくなり、20代前半に生きる歓びに酔って、自分の振り子はいつも対極、最大幅にふれていたけれど。



 変化していくものと、変なものに、むしょうに惹きつけられる。
 前者はたとえば、空と山。
 空はとくに夕暮れだ。「雲にあらわれるピンクやだいだい色は、この世のどこにもない」とうっとりとする。ああいう色の服を着たくなる。
 山なら、春と秋。
 空も山も時々刻々と変わっていく。美っていうのは、変化していくこと、そのものなのではないか。


 そして、自然界の美には、光が必ず関わっている。若葉も紅葉も、きらきら光っているとき、ハッとする。自分の好きな鉱物や石やアートのことを、いままで「光り物が好きだ」と思っていた。
 そうではなくて、空も山も天文現象も、光を帯びているから、光を発しているから美しいのだ。自然界は光にささえられていることを実感する。ほんとに、太陽あってのこの惑星(ほし)なんだなあ。


 たしかに、光に惹きつけられる自分は、太陽系の一構成要素だ。
 ・・・っていうか、夜、白い灯りのまわりをむやみにバタバタと羽ばたいている蛾とおなじかも。


 変化と光は結びついてる。いままで気づかなかったけど、これも当たり前ではないか。
 星を見てもわかるように、光は永遠に存在はせず、時には一瞬だ。
 光が変化を、つまりは美を生み出す。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)やクロード・モネ (Claude Monet)とかアルフレッド・シスレー(Alfred Sisley)、印象派の画家はそう思ったのかな?
 光は美しさの母なり、源なり。
 ・・・・・・でも、これって悲しい。
 光老化っていうのがある。太陽の下に誕生させられたのに、寿命とはべつに、光を浴びれば浴びるほど、紫外線によって身体は傷つけられ老いていく。衰退、死滅に向かっていくのだ。
 そもそも、美しいものにふれると、悲しくなる。うつくしいっていうのは、うつろっていくことだ。まして、光や輝きは一瞬だ。なんで自分だけが(美しくないけどさ)、ただの生き物の常として、そういう時間の鎖から逃れられるだろう。


 変化するもののほかに、変なものも好きだ。漢字はおなじ「変」だけど、意味はけっこうちがうと思う。
 前述とはちがう意味で、美しく整ったものは決まりきって、分け入るすきがない。のっぺりとした分厚い壁みたい。完璧なものはつまらないし、美味しくない。
 一方、、変なものはなぜか、後々まで心に残る。「これは何だろう」「この意味はなんだろう」「答えはなんだろう」、って引きつけられる。いわば、この世界が贈ってくれるナゾナゾなのだ。
 ココ(この世界)の魅力と、快適かそうではないかの住み心地は、このナゾナゾにかかっている、と言ってもいいのではないか。


 イギリスの羊、ドリー誕生を知ったとき、「これで自分は何百年も、何千年も生きられる! 自分のクローンをつくって、そいつから古くなった臓器を交換して、生きていけるんだ!」と歓喜した。
 と同時に、器官交換体でしかないコピーとして、なにかの液体に一生、漬かっている自分のお腹に刃物が入って、臓器がえぐりとられる感覚も起こった。気持ち悪かった。
 その感覚は、他人を殺してまでも、生きたいという貪欲、エゴイズム、人を踏みにじってまでも不老不死を得たいという利己的な心について示していたのかもしれない。


 しかし、自分は変化と光が好きな点でも、変なものが好きな点でも、不死なんて望んでいない、むしろ要らないみたい。
 漆黒の夜、誘蛾灯に魅了され、離れることのできない羽虫のごとき存在であり、光の理(ことわり)、自然の理に従うべきなのだ。永遠(不定)はないし、それどころか、生きているのはつかの間だと。
 あるいは、光の下で生きているものが、光から贈られる老化を拒絶できないように、自分も死ぬべきなのだ。

 ナゾナゾだって、自分はいつかは、一つも見つけられなくなるだろう。そしたら、つまらなくなって退屈してしまう。
 くだらない、まちがっているかも知れない答えを、冥土の旅用スーツケースに詰めこんでいるだけ、かもしれなくても。


 高い峰に住まい、カスミを食べる仙人よりも、下界の澱(おり)の底にうごめき、ものを食べているふつうの人の方が、この世界についてよく知っている。
 草木虫魚鳥獣のなまえも性質も、まずは食卓にのぼるから覚えるのでは。食べるから、この世界を学べる。お皿に載ったサラダのみずみずしいレタスにしろ、殺して死体を摂取しているわけで、生と死のつながりも思われる。
 人は定命のなかで、自然から収奪して食べ散らかし、大地を穢(きた)なくする一方で、生を豊かにしているのかもしれない。だから、ふつうの人こそ、なぞなぞの答えをたくさん持っているはずだ。
 しかし仙人は、久米の仙人(『徒然草』第八段)のように、深山で修行して飛んでみるや、ふだんの格好で洗濯している田舎女を見ただけで、落ちて(堕ちて)しまう。


・・・・・・こんなにいろいろ理由づけしてまで、俗界の塵埃にまみれた凡夫である自分は尊いと、
いずれ命尽き、死ななくちゃいけないのは尊いと、主張しなくてはならないのか。なんで、考えずに無心に生きられないのだろう? 野外の草木や、行く雲流れる水のようには。