目撃せよ、この神話!
『シン・ゴジラ』(庵野秀明/総監督・脚本)を観ると、二つの時間を生きることになる。
それは、ゴジラを知らない時間と、東日本大震災を知らない時間である。
東京湾――江戸前――に、のたうつ尾っぽ(巨大なミミズみたいだった。あと恐竜みたいな背びれも?)が現れたとき、わたしは叫んだ。「ゴジラだ、ゴジラだ!」
ところが、官邸では閣僚や官僚やらが慌てふためき、正体について議論しているばかり。
一般人のほうも、謎の生物(後に「第2形態」と説明される)が多摩川を遡上し、蒲田から上陸しても逃げ惑うのみ。
わたしは繰り返し思った。「ゴジラだよ、ゴジラ。日本人なら知ってるでしょ、ゴジラ!」
これはちょっとしたストレスだった。
後に「Godzilla」/「呉爾羅」なる名称が明らかにされ――ゴジラ映画の歴史に加わるお披露目、“ゴジラ襲名口上”だ――、誕生の原因が説明される場面では、「それ、もう知ってるんだけど‥‥」という気持ちに90%覆われた。
つまり、『シン・ゴジラ』の日本人は、ゴジラを知らなかったのだ。
その意味で、この映画の日本人は日本人ではない。
だから、画中の日本人だけでなく、わたしも混乱した。
「どう見たら、いいの?」
結局は、攻撃場面――総理大臣(大河内清次/大杉漣)が自衛隊による爆撃を決定(ただし、内閣官房長官(東竜太/柄本明)に促されて)――あたりから、だんだんと感情移入できるようになった。
政府チームに。
【3・11を知らない】
しかし、ゴジラを知らない時間を生きていることよりも重要なのは、『シン・ゴジラ』の日本人が、東日本大震災を知らない時間に生きていることである。
観客に初めてゴジラの全身を見せる場面では、古代生物(想像上含む)や深海の肺魚(ハイギョ)みたいなゴジラが這って“進撃”するにつれ、船舶、車が小山のように盛り上げられ、崩れていく。
「これって津波?」
2011年3月11日の津波もこんなだったのではないか、と暗然とさせられた。
ところが、これは序の口に過ぎない。
「ホットスポット」、首相が会見で覚束なげに読み上げるシーベルトだかベクレルだかの放射能レベルの単位。
自治体全住民の強制避難。
公共の体育館の避難所。
映画終盤では、除染、半減期‥‥
「これも知ってる」
あちこちに既視感を覚えるものが登場するのだった。
ふつうは、専門用語や異様な場面は説明が付されるはずだが、『シン・ゴジラ』は説明無し。
そして、映画の中の日本人が「3・11」を知っている様子はない。
ーーけれども、わたしも説明なんて、全く要らなかった。
本当に、知っているものばかりだったから。
東日本大震災によって。
完膚なきまでの全破壊、放射能汚染、全員避難。
それを『シン・ゴジラ』によって、まざまざと思い出させられた。
【神 ゴジラ】
シン・ゴジラには大規模な自然災害(地震・津波)の要素が見いだせるが、最も重きを置かれているのは放射能汚染である。
ゴジラにより高濃度の放射能が東京に撒かれる場面は、福島原発(FUKUSHIMA)の事故しか、連想させなかった。
3・11で、深刻な放射能被害を受けなかった東京にへの"報復"
(そして映画の後半では、HIROSHIMA/広島、長崎という、日本の重要な歴史と重なる)
あの原発事故は人災だった。
そもそも、人間の欲望による核の使用が、もともとの原因である。
ゴジラは放射性物質の海底投棄から生まれたという設定だが、それは、ゴジラは人々の欲から生まれた、という意味にしか換言できない、と思う。
だから、ゴジラの赤黒い巨体の半身は天災、残りの半身は文明の災禍からできている、と言える。
いや、ゴジラの小さくて怖い二つの目、せいぜい双眼くらいが天災だ。
あとの巨体は全て、核を渇望する人間の姿――ゴジラが放射能を放射するとき、紫色に発光するのは、かつての事故で少数の日本人が見たという、青い臨界ではないか。
要するに、シン・ゴジラは突然の災厄、大破壊そのものだ。
カタストロフィの象徴、シン・ゴジラ。
日本に住む者にとって。
少なくとも、東日本で3・11(サンテンイチイチ)を体験したわたしにとって。
ギョッとするが、神であるとも言及せざるを得ない。
神はかつて、豊穣や救済をもたらすだけでなく、荒ぶる神であり、暴風雨や雷のような威力により、人間には恐怖の存在だった。
神の行いは善悪両面を持ち、人間の倫理を超越していた。
ゴジラも全く違(たが)わないではないか。
災禍と、人間の欲望から成る一種の"神"。
だいたい、放射能の恐ろしさは、神威そのものではないか。
【災後を生きる】
子どもの頃から数十年、「戦後」という言葉を見聞きしてきた。
しかし、明らかに「災後」を生きていることを、『シン・ゴジラ』によって初めて実感した。
放射能汚染の様子しかり。
映画山場の、アメリカ軍による2回目の攻撃(1回目は有人爆撃機で、簡単にヤラれる。2回目は高価そうな無人戦闘機が何機も投入される)なんて、震災時の「トモダチ作戦」という言葉しか浮かばないもの。
もう一つだけ、象徴的な場面を挙げたい。
この映画はリアリティがあると評価されているらしい(会議や、行政の決裁のプロセス?)
しかし、登場人物は全く違う。
突っ走る主人公、矢口蘭堂(長谷川博己)
存在が異色で居心地悪いくらいのアメリカ特使、カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)
若手実力派ふうの与党議員、泉修一(松尾諭)ら‥‥
誰もが理想的であり、その個性、人間味は――容貌、ファッションとともに――デフォルメ(誇張)されていて、マンガ的だ。
人としてのリアリティや、文学的な深み、複雑な味わいといったものは希薄である。
ところが、“巨神”ゴジラによる壊滅現場の視察で、矢口が去り際にそっと合掌する場面。
その行動は極めてささやかだけれど、すぐにわかった。
「あの日から何度も見た光景」だから。
天皇は震災後すぐに緊急のビデオ・メッセージも発表した。
それは初めての行為で、真率さがあふれていた。
ところで、ゴジラ映画で皇居が破壊されたことはないという。
『シン・ゴジラ』でも、天皇の存在はチラリともほのめかされていない。
だから、この映画の日本人は、ゴジラも3・11も知らないし、天皇制も存在しない日本国の国民である。
現実の日本人とは別次元の時空間に生きている。
【鏡のゴジラ】
しかし、東日本大震災のような巨大地震が起きたり、巨大津波による大きな被害に日本が襲われるなんて、わたしも思っていなかった。
あの日まで。
知らなかったという点では、同じだ。
シン・ゴジラは、本やノートの真ん中の綴じ糸、または蝶番(ちょうつがい)、鏡のようである。
シン・ゴジラを中心に、映画の中の日本人/現実のわたし達(少なくとも傲慢なわたし)は重なる。
災禍のごときシン・ゴジラによって、恐れおののく虚構/現実の日本人が合体し、同一の存在となる。
その結果、共感が生まれ、鑑賞後にこう思わせるのだろう。
「『シン・ゴジラ』は3・11後の日本にしか生まれなかった傑作だ」
展開や結末があまりにも幸福、という点においても。
実に実に、ハッピーエンドではないか。
新元素も獲得でき、除染も可能で、政府の人間は優秀で、自衛隊やアメリカ軍は実直で正義そのものだなんて。
夢のような、夢のような、"災禍"
「こういうふうにあの震災を生き直したかった」という熱い感慨があふれてくる。
有能で人道的なエリートたちの団体戦により、理想的な"乗り越え"を仮想(バーチャル)体験できて、「この国にもすばらしいヒーローたちがいるはずだ」と元気をもらえる。
‥‥現実を思うと、あまりに乖離している悲惨さに涙が出そうだ。
福島では町は永久に消滅し、棄郷させられたのだから。
山は青きふるさと、川は清きふるさと‥‥
【災後の傑作】
3・11の震災後、影響を受けた作品はいくつか現れた。
けれども、5年経って作られたこの娯楽映画『シン・ゴジラ』が一番だ。
「こういうふうに震災を生き直したかった」という思いが、見ている者の内面からほとばしり、昂揚感に包まれる。
災後の傑作だ。
今から数十年後、『シン・ゴジラ』を日本の地方の商業映画館(シネコン)で見たことに、大きな意味を見出す気がする。
だから、まだ見ていない人には、こう見得を切りたい。
「この神話を目撃せよ!」
個人的には2016年になって読んだ本や、ルネッサンスなどの展覧会、映画「スターウォーズ Star Wars/フォースの覚醒」をはじめとする映画などの中で、一番おもしろかった。
エンターテインメントだから当然なのだけれど、前述のようにいろいろと考えさせられたのだ。
震災の影の落ちている文学や、アート、あるいは人類の存亡を描くハリウッド大作映画よりも。
遥かに明瞭に――隠微でなく、高尚でも、さりげなくでもなく――、くっきりと鮮明に"再現"されていて、(あの巨大な災禍の部分こそがリアルな現実)、同時に、快い虚構(フィクションであり、限りなく美しい"夢")と二重写しになり、カタルシスを得られるから。
わたし達を襲い、今も解決していない災禍に対し。
【未来に対する徴(しるし)】
現実の震災の黒い影や、日本の未来の徴(しるし)は、最後の場面に見て取れる。
日米共同作戦(新安保同盟?)により倒されたゴジラの尾から、断末魔の人間の手のようなものが突き出ているところに。
終わらない災いなのだ、という刻印。
凶兆の彗星のように、禍々しい尾を曳いて幕はいったん下りた。