源氏物語の年末年始の場面を読んでみたら

年末だから、『源氏物語』の年の暮れの場面を読んでみよう、と開いたら、驚くくらい寒くて、わびしい年末を目撃。

それは「末摘花」巻の故常陸宮邸の描写で、正しくは年末より前なのだけれど、歳末という感じがぴったりだった。

――荒れた邸宅(ぼろ屋敷)を光源氏が覗き見すると、年取った女房4、5人が、唐の舶来品だけれども、みすぼらしくなったお膳や食器を前にしている。

食べ物もとぼしく貧相だし、女たちは宮廷でも今や古風な装いをしている。

しかも、「白き衣(きぬ)は言ひ知らず煤けたる」というふうに薄汚くて、寒々しい。

雑談もすごい。

「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」と泣く女性。

故宮おはしましし世を、などて、辛(から)しと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」と震える女性。

 

当時は板屋だし、暖房の燃料や、重ね着する物、衝立(ついたて)類がなければ、極めて寒かっただろう。

読んでる者も寒くなるこんな場面が、ヒロインが胴長、馬顔で、象みたいに垂れて赤い鼻を持っていた、という世界文学史上、最高の醜女描写(だと思う)の前にあったとは。

 

円地文子先生はこの後、源氏君が末摘花の頭の鈍さにも耐えられず、(たぶん一散に)帰る場面へ登場する、老人と若い女性(少女か)二人の様子を評価している。 

多くの端場のうちで、この雪の朝の常陸の宮邸の門守(かどもり)の翁と何やら関係のわからない女の出て来るところの描写が、実にいきいきしていて、気に入っている。同時に、こういうところの筆つきには、女くさい匂いは全く感じられないのも否めない事実である。

 

源氏物語私見」講談社文芸文庫 

  円地先生のいう「端場」についての文章も興味深い。 

貴族生活を主として描写している物語の間を縫って、数多くではないけれども、この浄瑠璃の端場に類する場面が、ちょいちょい顔を出して来るのに気づいて、面白いと思っている。

(略)

庶民に近い男女(或いは庶民的な感情の持主)が多く、実生活の喜怒哀楽を露わに出すことでユーモアとペーソスが適当に味つけされている。

それほど粗野ではないけれども、明らかに『今昔物語』の世界と全く無縁とは言えないものであるが、こうした端場がそれ自身として独立しているのでなく、必ず、といっていいほど主人公の光源氏の眼に映る姿として捕らえられているところに、私は新たな興味をそそられた。

たしかに。

わたしが源氏物語をちゃんと読み始めたのは「帚木」巻だが、円地先生が端場として挙げる空蝉関連のくだりで、源氏を別人と間違えた女房が話しかけてくる場面は、源氏物語のイメージを改めさせ、新鮮だった(「空蝉」巻)

また、円地先生が二つめに挙げている、夕顔の隠れ家での隣近所の朝の会話も。

「今年こそ、なりはひにも頼むところ少なく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ」なんて生活の嘆きは、痛切に感ずる。

あと、今昔物語との近さとか、端場では庶民(的人物)が主人公で、常に源氏自身が見聞・体験しているという指摘も興味深い。

 

円地先生は門番のお爺さん&少女のペア――「多分妻なのではあるまいか」と書いているが、わたしは同居の孫だと思う。寝場所に困っての同居、雑居はあったと思うし、悪天候の夜に転がり込んできたのでは。――を評価しているが、わたしは今回、雪をかぶって、ひしゃげている門や庭の描写が新鮮だった。 

御車寄せたる中門の、いといたう、ゆがみ、よろぼひて、夜目にこそしるきながらも、よろづ隠ろへたる事多かりけれ、いとあはれに、さびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地してものあはれなるを‥‥ 

 「松の雪のみ暖かげに降り積める」という描写は、こういう風景あるなあ、うまいなあ、と感心させられる。

物語としては、逢瀬の翌朝に雪が積もっていれば、すてき、というのが普通の物語だろうに、それが反転している趣向のおもしろさもある。

降雪後の晴天、全てが白く輝いている庭において、古い木の門のぼろさは際立っていただろう。

門は現代の住宅の玄関と同じで、家の顔といえるし、しかも、この家は宮家である。

恋い焦がれた女性と逢い、夢醒め果てた後に露わになる現実、という諧調がおもしろい。

 

――考えてみれば、源氏自身は生活に困ったことがないので、わびしい年末は、周囲の人物にしか描かれないのだ。

源氏はたいてい、すてきな女性と交際しているので、庶民の共感する年末のつらさは、かなり外縁の人物上にしか点描されないわけだ。

 

【悲劇のヒロイン  末摘花】

源氏物語全体で末摘花をめぐるくだりは、わずかに「蓬生」巻を除き、没落した“姫宮様”への皮肉、風刺が痛烈である。

お歳暮へのお返しのダサさとか。

嘲笑の理由を挙げてみると、醜貌、知性・ファッションや歌に関するセンス・社会常識の欠落、大貧困‥‥

源氏物語、貴族の物語で致命的とされる全ての負の要素が、末摘花ただ一人に背負わされているではないか!?

 

単純さ、率直さのみは、近江の君が担当しているけれど。

末摘花は頭の回転が遅く、会話が不可能なので、短慮による失言癖は近江の君の担当になる。

そうすると、末摘花と近江の君は「口の重さ、無反応――口の軽さ、早口」という個性・属性では、対(つい)で結ばれるべき、ごく近い人物、ということになるではないか。

 

近江の君は好きなところもあるが、末摘花については今回、余りにも可哀想な登場人物であることを思い知らされた。

というか、紫式部のとんでもない冷たさ、冷酷さ、博愛の欠如に改めて気づかされ感じ。

もちろん式部自身というより、貴族社会の価値観そのものなのだろう。

 

「末摘花」では、とっても寒々しい年末が描かれているが、源氏はこの後、衣食住の物資を援助するので、末摘花邸の人々は、たぶん生まれて初めて、満ち足りたお正月を堪能したはずである。

源氏物語の"歳末助け合い運動"、人助けの歳暮が想像される。

 

 【源氏の年末年始/明石君のお正月大作戦】

富裕者、源氏の年末と年始・新春は、華やぎと楽しさに満ちている。

特に、大豪邸の六条院完成後の「玉鬘」「初音」「胡蝶」

愛人たちに似合う衣装を選んで贈るなんて、悪趣味な気もするけれど、楽しそう(「玉鬘」)

元日に着るように、という指示つきなんて、もっと最悪な気がするけれど、実際に全ての女君が着ている展開に、何て言ったらいいのか‥‥

ただ、普通なら悪趣味なお歳暮の準備シーンが、とってもおもしろい。

衣装と女君の性格が合っているので。

逆に、この衣装エピソードのおかげで、女君の性格がわかりやすく把握できて、"女君比べ"をできる(「野分」巻の夕霧の見聞と似ている)

わたしは明石の君の衣装紹介が好きである。 

梅の折り枝、蝶、鳥、飛び違ひ、唐めいたる白き小袿(こうちき)に、濃きがつややかなる重ねて、明石の御方に、思ひやり気高きを、上(紫の上)はめざましと見給ふ。 

 次巻の「初音」(このあたりは、いかにも続き物、連載中という感じ)でも、明石君の登場シーンは格段に高貴で、すてき。 

近き渡殿の戸、押し開くるより、御簾のうちの追い風なまめかしく、吹き匂はして、物よりことに気高くおぼさる。

正身は見えず、いづらと見まはし給ふに、硯のあたり賑ははしく、草子どもなど取り散らしたるなど、取りつつ見給ふ。

唐の東京錦のことことしき端さしたる褥(しとね)にをかしげなる琴、うち置き、わざとめき由ある火桶に侍従をくゆらかして物ごとしめたるに、衣被香の香の紛へる、いと艶なり。

手習どもの乱れうちとけたるも筋変はり、ゆへある書きざまなり。

 個人的にはこういう部屋とか、もったいぶった感じの態度を好きではないけれど、都会的で、人工的で、操作的、高雅な美の空気が濃厚で、いい場面。

明石君は艶やかで、頭がよく、センスもよく、自尊心の高い貴婦人、という感じがする。

紫の上にとっては、子どもも産んでいるし、怖い競争相手であったろう。   

こんなにスペック(死語?)高き美女を、女主人公、紫の上みたいな源氏の正妻格に引き上げなかったのは、ひとえに紫式部とか彼女周辺の女性たち(彰子中宮中宮の家族、女房)の好みに依るのではないか。

 

わたしは、自分であれこれ考えて着た物を見せる方がいいと思う。

明石の君は、源氏のお仕着せ――NHK紅白歌合戦の演歌歌手みたいなイメージでもある――を着て、男を満足させただけではなく、部屋、源氏の来る空間を、美意識を注ぎ込んで作り上げ、今度は逆に、源氏に見せた。

その部屋は、みやび、高貴、貴族趣味の極致であるが、源氏の訪問は少ないから、わざわざ年始回りに照準を合わせ、元日バージョンとしてしつらえたはずである――紅白歌合戦のステージみたいに。

結果、作戦・プロジェクトは成功――源氏の視聴率を独占した。

見方を変えると、プライドの高い貴婦人、明石の君の年末は、芸能人とか、お店の仕事(初売り)、テレビ番組制作など、働く人が一大プロジェクトとして全力で取り組むような歳の暮れだったのかもしれない。

 

【春のパーティー、セレモニーに遊ぶ】

田辺聖子さんは源氏物語で、すてきな宴(うたげ)の描かれる巻として「初音」「胡蝶」を挙げている(「女はセレモニーを愛す」『源氏紙風船新潮文庫

本当にそうだ、わたしは今回、(新春ではなく晩春だけれど)後者の宴のシーンに魅了された。 

これがまた豪奢ですばらしい。 

本当にそう。

そもそも、この宴(パーティー・セレモニー)の発端は、前年の秋、「少女(おとめ)」巻から始まっていて、その時の秋好中宮からの届け物からして、すてき過ぎる。 

風うち吹きたる夕暮れに、御箱の蓋に、いろいろの花、紅葉をこきまぜて、こなたに奉らせ給へり。

大きやかなる童の、濃き衵(あこめ)、しおんの織物重ねて、赤朽葉の羅(うすもの)の汗衫(かざみ)いといたうなれて、廊、渡殿の反り橋を渡りて参る。

 

心から春まつ苑はわが宿の紅葉を風のつてだに見よ

対する紫の上の返しのオブジェ(作り物)といい、女性は妻、母親としての家事だけではなく、こういった遊びごとに知力・感性を投じて興じたかったのだ、そういうことも夢だったのだ、と思う。

中宮のああいう歌自体は、現実では豪邸完成の祝辞とか謝辞、隣に引っ越してきた挨拶といった社交に過ぎないのだろうけれど、それをお互いで興ある挑発として、工夫を凝らし、洗練された遊びに仕立てていく。

当時、配偶者のある女性がイベントを企画して実現させるって、どれくらい可能だったのだろうか。

「胡蝶」の宴で一番印象に残ったのは、春の宴の翌日に中宮が主催した法会の場面。 

春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせ給ふ。

鳥、胡蝶に装束き分けたる童べ八人、かたちなど、ことにととのへさせ給ひて、鳥には、銀(しろかね)の花瓶(はながめ)に桜を挿し、蝶は黄金の花瓶に山吹を、おなじき花の房いかめしう、世に無き匂ひを尽くさせ給へり。

南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前を出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。

華やかで壮大。

最後の一文なんか絵画のようで、これ以上のセレモニーってあるのかなって、思ってしまう。

しかも、この一番の演出をしたのも紫の上なのだ。

この人は染色、裁縫などの衣装関係も秀でていて、音楽も巧みだし、ただ、愛に生きただけの人、愛された可愛い女性ではない。

こういったイベントの場面を読むと、紫式部や当時の貴族女性の持っていた「手腕を発揮し、成功させ、人々の賛辞を得たい」という夢が詰め込まれていると思う。

そういう意味でも、永遠の春が表現されている「胡蝶」は佳巻。

 

【本当におめでたい!?】 

肝心の元日、元旦の様子というと「初音」巻が有名で、冒頭のくだりは確かに、新春にぴったりの名文。

けれども、その先はどうか。

六条院の完成は源氏の栄華の象徴だけれど、そこに入れてもらえず、二条東院に住まわされる女性たちも含めて、愛人たちのランキングが露骨に可視化されている。

邸宅や、ある程度の居住空間をもらえた女君のほかにも、侍女でありながら愛人という、現代ならとんでもない立場の女性たちもちらほらするし。

六条院は理想郷?

女性たちは常に競わされて、苦しいハーレム。

(紫の上はこの数年後、十代の姫宮・女三の宮の降嫁に耐えられず、病んでいき、最終的には死んでしまう)

娘を奪われ、涙を流して、苦しんでいる若い母親もいる。

六条院の完成は、源氏物語“正編”(「桐壺」から「藤裏葉」まで)の骨格、骨組みの完成であり、栄華の物語がどういうものか、という構造の視覚化でもある。

 

「胡蝶」巻のように、この美しい邸宅を舞台にした世界には栄華がびっちりと嵌めこまれている。

わたしは前、恋愛に関係ない女房にとっては、衣食住に困らないシェアハウスだし、その上、様々な分野の文化的な催しがあり、男性にとっての魅力ではなく、知性や感性や教養で平等に評価される夢のような場所、理想郷、とも思っていた。

でも今は、そういった夢を六条院で実現するしかない、という厳しい現実が反映されている点も含めて、暗黒の面、要素が見て取れる世界だと思う。

女性の生き方に関する暗い秩序、枷(かせ)が露わな世界。

この世、現世(うつしよ)の写し絵。

 

この暗黒を内包した栄華の世界、六条院的世界がはっきりと崩壊していくから、「若菜 上」巻以降が好き。

源氏の過ちはもちろん、夕霧が精神的暴力を振るう酷いところも、「宇治十帖」のだめな貴公子ペア、薫と匂宮が浮舟に捨てられた後も成長せずに、どうしようもない空っぽな生き方をしていくんだろうな、と思わされる結末も、物語全体に漂う因果応報的な時代の下降感、衰微感も。

 

ただ今回、こういった源氏物語後半への見方は、現実的で、単線的、現代的な小説の価値観でもあるのかもしれないと思った。

というのは、華やかで王朝絵巻的な宴の場面を求めて「絵合」巻を開いたら、秋好中宮の入内(冷泉帝との結婚)に際して苦しんでいる朱雀院を思い、源氏が反省していたから。 

何にかく、あながちなる事を思ひ始めて、心苦しく思ほし悩ますらむ 

 前は、こんな反省、苦悩に接するたびに、お前が言うか?と腹が立つのみだった。

源氏物語の登場人物は、物語上の駒に過ぎない。

物語の構成上、自分の意思でない何ものかに機械的に動かされていく。

 

だが、現実だって、そういう面が強いではないか。

しかも、現実の人間の方こそ、反省とか、別方向の見方を持つことなく、自分のしたことを当然とみなし、傲然としているばかりだ。

現実でも虚構でも、源氏だけが多面的で複雑な思考、感じ方を素直に行っているのではないか?

(近年、政治・社会に関する意見、思潮が二極化しているのを感じる時が多く、なおさら、そう思う)

 

形式中心、型通りに展開する物語の中で、成功の階段を昇る人生、将来には明るさしか見えない幸福感に満ちた日々にあっても、複雑な思考、感じ方をしている、柔らかな源氏。

この人こそ、人間らしくて、理想的な人間なのかもしれない。

紫の上は、美点ばかり取り集めた紫式部お気に入りのヒロインだが、自分の行為についての反省は描かれていない(苦悩の吐露はある)

その点でも、源氏こそが紫式部の愛した“主人公”なのだ、と思わされる。

こういう複雑な内面を持った主人公の造型も、栄華の物語である源氏物語“正編”の良さかもしれない、と思った2017年の歳末、2018年の年始だった。 

なまみこ物語・源氏物語私見 (講談社文芸文庫)

なまみこ物語・源氏物語私見 (講談社文芸文庫)

 

 

田辺聖子全集〈15〉源氏紙風船・大阪弁ちゃらんぽらんほか

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