澤田瞳子(さわだとうこ)さんは気になる小説家だ。
初めて知ったのは『孤鷹の天(こようのてん)』の短評だった。
奈良時代が舞台の優れた青春小説、というような紹介に、強い興味が湧いて読むと、全体は生硬な印象だけれど、ほかの小説には持ったことのない驚きに打たれた。
「この若い作家は、子どものころに、海音寺潮五郎とか山岡荘八の、少年少女、若者の男女が縦横無尽に活躍する歴史小説を読んでいるのではないか」と思ったから。
わたしは子どものころ(正確には中高生のころ)、家の離れにあった海音寺潮五郎の『蒙古来たる』『平将門』、山岡荘八の『源頼朝』(タイトルは違うかもしれないが、頼朝や北条政子のことが描かれていた)に夢中になった。
ほかにも家にあった、永井路子さんの『炎環』『朱なる十字架』『乱紋』『銀の館』が好きで、――“文庫本”というものを初めて知ったのも、親の持っていた永井さんの本だった――、高校生のころは『噂の皇子(みこ)』『裸足の皇女(はだしのひめみこ)』『わかぎみ』『山霧』『姫の戦国』やエッセイに夢中になった。
また、離れには司馬遼太郎の幕末志士物なども何冊かあったが、わたしは『梟の城』『風神の門』を読み、とくに『風神の門』の霧隠才蔵(服部才蔵)に夢中になった――実際、高校生の間、わたしが心の中でうっとりと見つめるスターであった。
というように、好きなものの一つが歴史小説だったので、学校の歴史の授業は簡略無味で、かえって「詳しい歴史を学びたい!」というのが高校の進学動機になったくらいなのだが、最初に挙げたふたりの作家、とくに海音寺潮五郎の作品には、独特の魅力があった。
いろいろな子ども、それも男の子も女の子も両方出てきて、端役ではなかった。
青年男女もいろいろ出てきたし、子どもたちが青年になることもあった。
彼らは小説内で長い歳月を生き、広い空間を縦横無尽に駆け回って、活躍していた。
ところが、登場人物には欠点もあって、容赦ない終わりを迎えることすらあった。
彼らの出会いと成長、さまざまな恋愛や、人の結びつきのかたち。
――今ふりかえれば、ひとつひとつが明瞭に描かれ、読みやすかったのだろう。
歴史的な大事件を背景に、共感できる年齢の登場人物の活躍、彼らを襲う人生の転変が描かれるスケールの大きな群像小説。
それらの本は厚めで、茶色く褪めていて、子どものわたしには立派な古い本に見えた。
しかし、澤田さんの『孤鷹の天』を読むまで、子ども時代、中高生時代に同じような読書をした人がいるとは、思ったことがない。
当時はわたしの感覚からするとライトで、新しい感じの歴史小説が流行り、映画化もされていた。
澤田さんの実際は存じ上げないけれど、『孤鷹の天』にはかつてあった、歴史を青春の群像劇でダイナミックに描く、風格ある大きな歴史小説が復活したかのような趣きがある。
『若冲』
読んだ理由はもちろん、伊藤若冲の絵が好きだから。
そして、こちらは二回びっくりさせられた。
まずは、『孤鷹の天』の生硬さが薄れていたこと。
はじめは、設定が史実とされていることと違う、と困惑したけれど、文章に馴れるうちに「展開も描き方も、飛躍的に練達している!」と感嘆した。
小説後半に入り、別のことで仰天した。
「そうか、こういう解釈もあり得るのか!」
たしかに説得力に欠けるところはあるし、それどころか、裏付ける事実はもちろん、示唆する断片的事実すら存在しない‥‥
けれども、「だからこそ小説にしか書けない真実」なのだし、小説にしか書けない真実があって、よいのだ。
もともと『鳥獣花木図屏風』について、わたしは「不満」だった。
わたしも好きで、原寸大に印刷された本や、服も持っていて、作品自体は三回見ている。
はじめは森美術館の開館時の「ハピネス展」
あの屏風を見るのは楽しみだったけれど、六本木ヒルズの階段で、屏風の生き物がキャラクターのように飾られているのには、びっくりした。
「そういう存在だっけ?」
つぎは東京国立博物館の「プライスコレクション展」――墨絵の鶴を見て、シンプルでおもしろく、軽快洒脱な絵も描いていること、多才であることを実感した。
最後は仙台の「若冲が来てくれました プライスコレクション」展
観客の男性(二十代とか三十代くらい)が興奮気味に「これ、見るのが楽しみだったんだ」と言いながら展示室に入って来たのを思い出す。
‥‥しかし、どの展覧会でも(じっくり眺める機会があったけれども)、わたしは魅力が減ずるのを感じたのだった。
「傑作なのか?」
もちろん、すごく魅力だ。
類を見ない、枡目描きによる動物の造形と色彩。
それに細部に物語性があって、たとえば、豹だかのネコ科の動物が、おもしろそうにネズミを見守っている部分なんか、殺生のない楽土、という若冲の夢が表れていると思う。
また、小さなネズミをおもしろそうに見つめる豹は、若冲とも重なる。
けれども、――ダレているのだ。
とくに鳥の屏風は、冗長で、緩慢で、退屈なところが目立つ。
傑作とはすべてが完璧なもののはずだ。
この屏風と同内容だという静岡県立美術館の屏風(見たことはない)だけが若冲作だという意見や、いや、プライスコレクションのこそ若冲作だ、という意見があるらしいけれど、「緊張感に富んだ形態はまったくなく、すべてはゆるみきって凡庸である」「平板」「稚拙」という評(佐藤康宏氏)は当たっていると思う。
少なくとも、わたしは夢中になって見続けては、いられない。
だから、澤田さんの『若冲』の解は真実に思える。
他の多くの、完成度の高い若冲作品との落差に対する不思議さ。
それでも際立っている独創性の謎を、単なる贋作説ではないかたちで見事に解いてくれている。
同時に、歴史学では事実しか書けないけれど、「真実」を書ける小説のすごさに打たれる。
ほかにも、冷笑家みたいな与謝蕪村像や、京の町の酷薄な面も印象的で、後に直木賞候補になってうれしく、結果がとっても恨めしかった力作だ。
『夢も定かに』
文庫本のイラストはビビッドで、今風の愛嬌がある。
ところが、小説自体には『孤鷹の天』のような生硬さが感じられる。
あと、久しぶりに永井路子さんによる、奈良時代や飛鳥時代や平安時代が舞台の小説、エッセイについて思った。
永井さんの客観的な描き方や、活動的な女性像の清新さ、文章の格調。
それから、人間社会へのある種の冷たさが好きだったことを。
もしも、永井さんが同じように平城京を舞台に女官を書くなら、結末後の有名な事件や、出てきた多くの人物のけっこう悲惨な最期まで、点描する気がする。
本作も昨今よくある、女子たちが仕事でお手軽に成功する小説、ではない。
この後に訪れる大変な時代のとば口で、「夢も定か」ならぬ世の中であることを見通す透徹な眼を持つまでの過程を、ややコミカルに描いているのかもしれない。
いま、澤田さんの新しい作品をとても楽しみにしている。
とりわけ、わたしが勝手に感ずる生硬さ――少し前の世代の偉大な歴史小説家の作品を想起させる要素でもある――と、思いがけない作品を書いてくれるだろう可能性のために。