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私も拾いたい―鴻池朋子の「あたらしいほね」"根源的暴力vol.2"の感想

「あたらしいほね 鴻池朋子展   根源的暴力vol.2 A New Species of Bone Primordial Violence」

   群馬県立近代美術館(高崎市)


「あたらしいほね」、とか「根源的暴力」、というタイトルだけだったら行かなかっただろう。
チラシをはじめ、各種メディアに掲載された画像だけでも。
鴻池朋子さんの個展だから足を運んだ。


"近美"の2016年度の展覧会スケジュールを見たときは、びっくりした。
「本当に、鴻池さんが?!」
群馬の県立美術館にしては前衛的過ぎるのでは‥‥
‥‥しかし、実際にはイベント(アートコンプレックス&トーク「あたらしいこえ」  鴻池さん/山川冬樹氏)にはたくさんのお客さんが。

質問もいくつか出て、予定時間を超過したのだった。


鴻池さんのことを知ったのは、2005年にたまたま寄った「愛と孤独、そして笑い」展(東京都現代美術館)
「帰還――シリウスの曳航」はその展覧会で一番夢中になった作品だ。
自分の好きなものに満ちていたから。
犬、輝き。(あとで考えると、狼だったらしい)
美しくて、内容にゾクゾクして、そして巨大さに圧倒された。


不安感と安心感、恍惚、鋭利なもの、死。
荘厳で、崇高。


好きにならずにいられようか。
小さなギャラリーを探して、足を運んだこともある。
キラキラ光る、白銀の六本足のオオカミが、たくさんの獣の剥製・毛皮を敷き詰めたうえを堂々と歩いているのを、夢中になって見た。
たくさんの死を犠牲にして誕生した、光輝く力強い存在に、神々しさを感じて仰ぎ見るように。


『みみお』もお気に入りの絵本だ。
四季それぞれの良いところと、自然の本質が白黒の鉛筆(?   手で描く固形の画材)によって、ダイナミックに表現されている。
愛読していた。


ところが近年、テレビで鴻池さんの特集を見て、びっくりした。
剥き出しで、毒々しく、強烈。
皮に描いたものは絵画といえるだろうか?

疑問が湧いたけれど、簡素なアトリエでの制作は、身体全体を使って旺盛だった。

 

だから実は、「自分が知ったころとは作風が変わったけれど、だいじょうぶかな」という一片の不安を抱えながら、「群馬の森」に行ったのである。
イベントは知るや早々に予約して。


そして、本展。

やっぱり最も印象に残ったのは、各種メディアでも紹介されている「皮緞帳」
圧倒されるサイズで、いろいろなものが色鮮やかに描かれている。
(向かって)右面から、地球の大きな歴史が"横書き"されているように"読めた"。


海面にわずかな山頂をのぞかせた巨大海底火山(火山島)の噴火。
生命の初源を思わせる、オタマジャクシのような大群が水流を昇降する様子。
ごろんと転がった、恐竜を連想させる大きな骨。
その骨と重なるように、羽化したばかりの蝶の透明な羽。
そして、長い青の氷柱と、真白な吹雪。
ただ、この地球史は全体として大雑把な印象も受けた。


そもそも、地中から昇天していく黄色の人魂型(小花模様)、上空に浮かぶ卍型のヴァリエーションみたいな黒い勢いのある模様(黒いんだけど稲光を思う。一部は髪の毛に見える)、白っぽい渦巻。
これら(左面)の記号的な表現(抽象表現)の意味がわからない。
再生や、春、くりかえされる生の営み、生命や自然界の強大なエネルギーだろうか?

 

しかし、雪に覆われ、時まで凍結したかのような白く青い針葉樹の森と、その背後の山脈は美しい。
(出身地の秋田県?) 


【ごろんちょ】

最も夢中になったのは、白や青の氷雪の下、あたたかそうな土のなかで、動物たちが冬眠している部分。
つややかな毛並みが丁寧な筆致で描き込まれている。
日本の山の獣たちのほかに、ツバメやフクロウや蛙、テントウムシ、ミミズ、カメムシ、トカゲ、熱帯に棲息していそうな黄色に赤、青のまだら模様の蛇もいる。
そして、生き物の等価な配置によって、童話的な雰囲気に包まれている冬眠の一群のある一匹に、心を鷲づかみされた。


おこじょなのか、カワウソなのか。
一匹だけ、無防備にお腹を丸見せして、ごろんと仰向きで熟睡している。
その様はごろんちょ、という感じ。


このごろんちょしている姿がかわいい!
この“ごろんちょおこじょ”(カワウソかもしれないが、語感がリズミカルで気に入ったのでこう呼んでいる)を、また見たい!

全体は壮大な世界観の絵図――お寺の地獄絵図の自然界版のように思う――なのかもしれないけれど、ぐっすりと眠っている"ごろんちょおこじょ"一匹の愛らしさに悩殺された!

 

【懊悩】

次いで強く惹かれたのは、皮のコート(「12人のホイト」)
受付前の階段状ステージには多数、展示されていた。
ベージュ色の皮で、頭巾(フード)付き。
「あれがほしい、これもほしい」と見ていたら、会場をふらっと歩いて登場した鴻池さんが着ていて仰天した。
「着られるんだ!」


わたしがまず欲しいと思ったのは、立っている白いオコジョの描かれているコート。
王様のように威厳のある、立ちおこじょなのである。

それから、虹色の双眼――多くの獣や人の目も、虹色に輝いている――のらんらんと光るキツネがかっこいいコート。
あと、黒いカラスみたいな双頭で四つ足(八咫烏より強そう!)のキメラ的生き物が夜に咆哮しているコート。
これも神秘的ですてき!


‥‥ところが最後は、こういった順に選んでいたのに、まったく別のタイプのコートに釘付けにされた。
それは、鴻池さんの主要キャラクターの狼なのにも関わらず、間抜けそうな顔の狼。
「ぼへ〜〜」と、のん気に口を開けているような狼。
つまり、全然かっこよくない、神秘的・魔的ではない。
けれども、好きになってしまったよ、「ぼへ〜〜顔」の狼‥‥


ただ、万が一、この皮コート・シリーズが買える、という夢のような機会に恵まれたとしても、一体、どういう基準で選べばいいのか、いまだにわからない。
買える機会が到来! という妄想をしては、のたうち回るように懊悩しているばかりである。

 

【全体の感想】
会場のそこここに死の影があった。
とくに、白い骨を想起させるオブジェ(白い陶物)によって。


具象的な作品は鳥獣たちのパラダイス、楽土でもあった。
その点は伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」(プライス・コレクション)と共通している。
――ただ、若冲作品では、加虐や被虐がていねいに取り除けられている。
たとえば、ネズミを豹がおもしろそうに見つめていて、弱肉強食の現実はスルーされている。
殺生、死の要素がないのだ。
永遠の幸福、という極楽浄土の感覚に全面満ちている屏風二隻――


対して、鴻池作品では、生と死が背中合わせ。
光と影、彩りと暗黒も、背中合わせ。
強烈すぎる。
過酷で眩しすぎるコントラスト(対照)に直面させられる。
――だからか、若冲の例の有名な屏風は、だれてもいる。
冗長なところがある。
総花的で、部分として屹立させた動植絵綵絵みたいな緻密さ、緊張感には欠けている――


鴻池作品は、宮沢賢治の「よだかの星」全体に近いかもしれない。
「よだかの星」はストーリーだから、聖人昇天みたいな神々しい場面へと展開し、それが結論であるかのように世界は閉じられる。
けれども、「よだかの星」のお話の途中にある殺生の現実や尽きることない苦しみ、といったプロセスと結末の神聖さとが同時に、鴻池作品では力強く掲げられているように思う。

 

【象徴的な幼子】

イベントに向かうために足早に見ていた最初、気に入ったのはジオラマである。
とくに森林に囲まれた、正円形で透明、緑色の美しい湖。
しかし、その湖底は仰向けの人の顔で出来ている。
衝撃的。


見ると、顔は幼子のようだ。
赤みの差すほっぺた、赤い唇。
美しい双眸の輝き。
瞳は緑色で、さまざまに(虹色に)輝いて、美しい。
けれども、ぎょっと見開かれた目が、ある予感をひっかき傷のように立ち上がらせる。
――これは、絶命する瞬間の顔だ、と。
半ば開いた口が確信させる。
生誕したばかりの幼子でありながら、死の相貌を併せ持つアイコン。

 

【鳥獣の着物】

「着物 鳥」にも惹かれた。
鳥の羽を一時期拾っていたわたしにとっては、もちろん、大量の本物の鳥の羽で装飾されているからだ。
鳥の羽の美しさを堪能できた。


おなじ意味では「皮着物 赤い川」も。
会場に向けられた着物の背面(和服の一般的な飾り方)の中心に裂け目があって、狼(たぶん)の毛皮が覗いている。
壁際の裏(和服の前面)に回ったら、狼(たぶん)が一匹、吊り下げられていた。
その美しさ、雄々しさに満足した。
だらんと垂れた尻尾はふさふさで丸々。
ああ、いい!


鳥の羽の美しさ。
獣の毛皮の美しさ。
すべて、人間にはないものだ。
かつて太古に、人間の祖先は有していたのかもしれないが、もうとうに失ったものだ。
野生生物のスピードや活動量を機械で上回っても、還らぬものだ。

 

【展覧会名の意味】

「根源的暴力」とは何だろうか?
わたしは「エネルギーにあふれ、大胆で、暴力的な風、嵐が吹き荒れているような感じだからかな」とメディアの印象から、ぼんやり思っていた。
イベントでの鴻池さんの話を、わたしなりに解釈すると、明確な定義はまだないけれど、作家もこの言葉を念頭に置き、掘り下げながら作品を創造しているようだった。
その姿勢を尊敬する。


なぜなら、毛皮も、鳥の羽も、人間は暴力で手に入れる。
拾ったとしても、それを自然界にそのまま放っておけば、ほかの生物の食物となり、生命をつないだだろう。
だから、拾うことも、作品として展示することも、自然界の摂理に反した暴力だと、わたしは思う。

 

ところが、頭で考えることや理念を、やすやすと通り越してゆく美しさがある。
視覚的な美と、触覚的な美を併せ持ち、あまりにも魅力的。
この世の最高の美、とまで思う。
しかし、この最高の美は暴力と結びついているのだ。
この大事な根本、背景を思い出すためにも、作品の展示とともに「根源的暴力」という言葉を掲げること。

 

それは、見ているだけのわたし自身にも役立つだろう。
山号の扁額の掲げられた山門をくぐり、絵図や像が崇敬されるかたちで配された寺域、聖域に入るように。

 

最後に。

「あたらしいほね」という題、銘(題というより、銘という印象)はもともと好きだ。
しばらく前、ふるさとの家の庭にシカの骨が転がっていた。
犬が裏山から拾ってきたようだ。
脚の骨と、頭骨。
草食動物の骨とはいえ、存在感があり、まがまがしく感じた。
けれども、骨は再生を想起させる。
何度でも訪れる春や、再生を。

自分もいずれ死ぬことを。

もしかしたら、人間の文明による災禍で絶命することを。


わたしも、あたらしいほねを拾いたい。
いろいろなことを想像するために。

焚書 World of Wonder

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みみお

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