絲山秋子さんの中編『小松とうさちゃん』は魅力的な(恋愛と暴力についての)小説だけれど、単行本に同時収録されている短編もおもしろい。
『ネクトンについて考えても意味がない』
題名といい、とても新鮮な感じを受けた。
「こういう内容、設定の小説を知らない」と。
もちろん、『小松とうさちゃん』も、『ラジ&ピース』『末裔』『作家の超然』など、絲山さんはいつもいつも新しい小説世界を見せてくれる。
ただ、『小松とうさちゃん』には恋愛の成就、という伝統的な要素がある。
『ラジ&ピース』にも恋愛への執着からの解放、再生、という多くの小説に通ずる要素が流れている。
ところが、『ネクトンについて考えても意味がない』に混ぜ込まれているのは、恋愛無し、という要素だ。
無恋愛。
婚活が喧伝されるほど成婚率低く、離婚率高く、恋愛と縁のない現役世代の多い日本の今と合致している。
そういう現代の相が横糸のように、そして生き方についての、普遍的で哲学的な対話と思索が、縦糸のように書き込まれている短編だ。
【ネクトンとプランクトン】
小説の語り手がミズクラゲであることに、はじめは驚いた。
しかし、語り手=ミズクラゲ効果は大きかった。
まず、「ミズクラゲ」という語が繰り返されるたびに、ミズ=水の清らかさや、水流の快さが感じられるのだ。
つぎに、無限を感じさせる広い海に、一個でただようこと、たゆたうこと、浮遊すること。
それが憧憬や理想像と重なる。
孤独だけれども、それを超越する自由な精神。
ミズクラゲはたゆたい、プランクトンを食べるという。
プランクトンは陸上では、空気中を飛んだり、落下したり、舞ったりする種、草木の実にあたるだろうか。
作中に「動物プランクトン」とあるから、空を切って飛ぶツバメが食べるような羽虫のほうが近いだろうか。
いずれにしろ、種も虫も、空中にたゆたうものだ。
ミズクラゲもプランクトンも、そして思考も、たゆたうものだ。
だから、人間の南雲咲子の思考は沈潜し、ミズクラゲと対話できたのだろう。
二個だけど、好一対の「プランクトン」たちが異界で対話しながら、ゆっくりと思索を深めていく。
一方、題名になっている「ネクトン」のほうはまず、イルカやクジラの群れで象徴されているところがおもしろい。
イルカやクジラとなら、かれの知性にふさわしい、面白い話ができるのではないか
イルカがジャンプ
遊んでるんだろ
知的なもの、活発な会話、大自然のなかで全身で体感する遊び、といったものへの憧憬と重なる。
しかし、この小説ではそういう良いイメージは評価されず、代わりに主張される「ネクトン」の性質は、運動である。
流れに乗って勢いを増したり、自力で流れに逆らって、新しい局面を切り開いていく運動性。
だから、こんな対比がシンプルに楽しめる。
「プランクトン」=あちらこちらへ浮遊する、個の思索
「ネクトン」=集団による、線的な(放物線や直線の)力強い運動
【宮沢賢治と絲山秋子】
「ネクトン」は、宮沢賢治の『やまなし』(クラムボンが笑ったよ)のカワセミを連想させる。
安らかさや美を、一瞬で破壊する暴力性を垣間見せる出現と退場。
『やまなし』では弱肉強食で、死と背中合わせの生態系が浮き彫りにされている。
また、カブトムシを食べることに耐えられず死に(自死といえる)、そして星になる(聖なる存在として昇天する、再臨する)という救済的な結末の『よだかの星』も、殺生のうえに成り立つ生の問題を書いている。
賢治童話界のカワセミやヨダカは、陸上の「ネクトン」である。
対して、絲山さんの短編の「ネクトン」は別の特色が付与されており、興味を引かれる。
それは、「ネクトン」が「イルカの群れ」のイメージと重なるような、活発な人間として表現されているところだ。
明るくて、人との交流が好きで、生きることの楽しさに積極的で、多人数でのスポーツや楽しみごと、イベントに興じる人たち。
つまり、同じ強者でも、賢治が命題としたのとは異なる苦しみが書かれている。
【トーベ・ヤンソンと絲山秋子】
「ネクトン」とよく似たキャラクターとして、すぐに鮮明に浮かぶのが『ムーミン』童話シリーズの「ヘムレンさん」である。
とくに『ムーミン谷の冬』の「ヘムレンさん」
明るくって、度胸があって、よく笑い、音楽とスキーが好きで、誰かを差別することなく、みんなをスキーに誘う。
こう紹介すると、とっても好ましい人物なのだけれど、ムーミンの目線から描かれると、細やかさに欠け、騒がしくて、外向的すぎる。
わたしの中では、一昔前の元気なアメリカ人男性のイメージと重なる。
――でも、ヤンソンさんのすごいところは、ムーミン谷住人たちから嫌われて、とうとう策略でもって追い出される「ヘムレンさん」の美点も讃えているところだ。
ムーミン世界の魅力的なヒロイン「ちびのミイ」は「ヘムレンさん」から大きな影響を受ける。
そして終末部の、快哉を叫びたくなる行動、英雄的な行動はムーミン谷住人の誰にも、主役のムーミンにもできないものだ。
しかも、ムーミン谷にしか住めなそうな繊細な二人(二匹)が、颯爽とした「ヘムレンさん」に救いを見出し、付いていく。
理想郷のはずのムーミン谷から出て、別の新しい人生を始めるのだ、喜んで。
また、『ムーミン谷の仲間たち』所収の『しずかなのがすきなヘムレンさん』の「ヘムルたち」も、わかりやすい「ネクトン」である。
集団行動を好み、騒がしく、人前で表現したり演出することが好きで、遊園地を運営(エンターテインメントを提供)している。
遊園地が自然災害で失われれば、修復することなく、新たに別の活動を立ち上げ、遊園地を心から愛していた小さきものたちにはお構いなしだ。
こう書くと、とんでもなく悪い人たちみたいだが、ヤンソンさんの描写を読むと、「こういう人たち、いる、いる」という普通の人たちだ。
おたがいにあいてのせなかをたたいては、わっはっはと気がへんになったみたいにわらうような、とても大きな、ようきなおしゃべりのヘムルが、うんといたのです
こういう人たちの性質が一生変わらないことも思わされる。
――そして、「やっぱりヤンソンさんはすごいな」と思わされるのは、この「ネクトン」の美点も併せて描出しているところだ。
遊園地も「世の中のためにたちたいという、りっぱな心がけでやっていたことなんですよ」
だけど、だれだって自分のすきかってにやるのが、いちばんたのしいんだからな
結びで、この短編のまとめのような卓見を述べるのだって、「ヘムル」なのである。
そもそも、行動的な「ヘムルたち」の手助けあって、「しずかなのがすきなヘムレンさん」は美しい夢を実現できたのだ。
いったいに『ムーミン』童話シリーズでわたしが惹かれるのは、多様な個性が生きる世界での在り方が描かれているからである。
興味深いことに、『ムーミン』童話シリーズには人間がほとんど出てこず、出てきてもムーミンたちと同等の一種の生き物として扱われているだけだ。
これは驚くべき特色に思われる。
イソップ童話にも似て、ほとんど寓話でありながら、きわめて共感させられるのだ。
自分と相容れず、付き合うのが困難な人たちとの関係。
それによる苦しみと、この“苦界”で共生するための方法。
勝手な想像だが、ヤンソンさんも人間関係に苦しみ、個々の物語を書き始めたころは、生きることの苦しみや絶望をだいぶ混ぜていたのではないか。
しかし、話が展開され、苦手な人間像が極まると、今度は別の角度から良さが見えてきて、美点が書き足される。
だから、この世界、人間の現実を丸ごととらえているような、奥行きをもった、全体性ある物語群として完成されているのではないか。
【「ネクトン」について考えてしまう】
改めて、『ネクトンについて考えても意味がない』
夏目漱石もいう、とかくに住みにくい人の世。
この短編が提示している、生き方についての結論を一行で要約すれば、『ネクトンについて考えても意味がない』という題名になるだろう。
断定口調に、いろいろな意味合いが籠められているとしても。
さて、小説では“わかったら、死ななくてはならない”
それが小説の定型に思われる。
実際に、南雲咲子はミズクラゲから、海の美しさをいろいろと挙げて慰留され、再会を懇願されながらも去り、戻ってこない。
もちろん小説の結びは、読者に向けた死の通知、訃報だ。
彼女が既に死んでしまっているのなら、それはそれでいいのだとかれは思った。
グラス一杯の清涼な水。
小ぶりな水槽のなかに展開されている美しいアクアリウム。
そんな一編に夢中になったのは、架空のムーミン世界の住人たちに対するとの同じく、現実の「ネクトン」について考えさせられたからである。
ただ、実は今、自分はもう少し「ネクトンについて考えても」いいのではないか、という誘惑に駆られている。
結局は「ネクトンについて考えても意味がない」という結論に達するとしても。
あるいは逆に、自分だって周囲からすれば、気持ちを害している不快な「ネクトン」だとわかっても‥‥
だって、「ネクトンについて考えて」いれば――作中の語句を借りれば、「悩むことをやめ」なければ――南雲咲子のように「長生き」したとき、美しい精神そのものであるミズクラゲとの交歓が、天からの贈り物のように降りてくるかもしれないのだから。
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