幸福な末裔――小松とうさちゃん、と絲山秋子さん

【ふつう、母の遺産なんか、何もないんだよ?】
水村美苗さんの長編小説『母の遺産』を読むと、下降感にやられる(2010年〜読売新聞連載)
没落して、老後に突入する怖さでいっぱいになってしまう。

気の利いた人はみなああいうマンションに移り始め、このままでは、気の利かない人たちの吹き溜りに取り残されてしまうような気さえしてくる。


まずは駅を降りて通る道の醜さに顔がこわばってくる。

大学教授夫人の主人公は、離婚して家を探さなければならない。

外食はほとんど諦め、美容院は回数を減らし、読みたい本も、冷え性のための漢方薬も「ホカロン」も買い控えるしかない。


「そんなの、みじめじゃない」
(略)
「そんな古くて狭くてキタナイとこで、好きでもない仕事を無理してずっと続けるなんて、今さら、いやじゃない。若い人じゃあるまいし」
(略)
自分自身あまり考えないようにしてきたことが姉の口から無遠慮に悲鳴のようにほとばしり出るのを耳にして‥‥


母の遺産が入ってこなかったら、どうなったか。
(略)
安いマンションに移り住み、年金もつかぬ非常勤講師を六十八歳まで続け、特許の翻訳も今より増やし、働けるだけ働き続けねばならない。


しばらく沈黙があってから昌子は静かに応えた。
(略)
「あたしたちの年になると、ふつう、職なんか何もないんだよ。スーパーの裏で魚をおろしたりして最低賃金もらうのがせいぜいなんだよ」

主人公の美津紀は、大学の非常勤講師と翻訳の仕事をもっている。
50代。



漱石の描く高等遊民「先生」たち】
貧困に苦しんでいなくても、働かない高等遊民は批判される。
百年前にも、夏目漱石がコミカルな筆致で描いている。

「僕はちょっと職業を探して来る」と云うや否や、鳥打帽をかぶって、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。


飯田橋へ来て電車に乗った。


たちまち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色がたちまち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。
傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。
傘の色が、また代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を巻いた。
四つ角に、大きい真赤な風船玉を‥‥


売出しの旗も赤かった。
電柱が赤かった。
赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。
しまいには世の中が真赤になった。
そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと焔(ほのお)の息を吐いて回転した。
代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。


『それから』1909年

『それから』は、代助「先生」――代助宅の書生、門野は代助を「先生」と呼ぶ――にとっては終末的な結び、崖っぷちに追い詰められる結末で、ぷっつりと終わる。


すでに『三四郎』(1908年)でも、洋書を渉猟する比類なき読書人「広田先生」は、チャーミングな登場場面のあとは、生き生きとした感じが、恐ろしいほどに失われてしまっている。
『行人』(1912年)の一郎「先生」は、大学の先生で妻子もいるけれど、精神的に病んでいく。


『こころ』(1913年)の「先生」に至っては、東京帝国大学を卒業後は社会に出ることなく、自殺してしまう‥‥



【絲山ワールドの高等遊民たち】
でも、絲山秋子さんの『末裔』(2009年〜連載)には、転落感がない。
底辺感がない。


音信不通の娘が、実は映画制作の仕事で活躍していた、とか。
アメリカに渡り、音信不通の弟はなんと文学の大学教授になっていて、今後は日本に帰国し、30代の女性(公務員)と結婚するとか。
最後のほうで、文化との深い結びつきや、慶事が判明するからである。


それから、佐久地方(長野県)へ父方のルーツを探しに、主人公がドライブする場面に爽快感や、気持ちのいい速さで旋回しながら上昇するような感じがあるのも大きい。
主人公の省三は、東京の区役所の公務員。
50代。



ところが、『小松とうさちゃん』(2016年刊行)は、もっと幸福感に満ちている。
それも、はじめっから終わりまで。
時に不穏な影が差しかかっても、ふんわりとした幸福感がそこはかとなく滲み出てきて、駆逐する。


『末裔』と『小松とうさちゃん』には、似ているところもある。
幸せな婚約、という結び目がふいに明かされ、それまでの好ましい登場人物同士が、より強くつながる終わり。
それから、教養のうかがわれる会話、挿話。

それでも彼女は、その時間帯であれば朱鷺メッセの中にある万代島美術館に行くことを提案した。

企画展はトーベ・ヤンソン展だった。



自分が子供の頃ニョロニョロを怖れていた、行く先々でニョロニョロに囲まれないか身構えたことさえある、という話をしてみどりを笑わせた。




石川雲蝶ね。私も一緒に行っていい? 車は出しますから」


石川雲蝶の彫刻や絵画には思った以上の重厚さと迫力があって、見るべきものを見たという充実感もあった。


『小松とうさちゃん』

江戸時代の地図はトイレの入り口だったな。ガラスに入った黒曜石の矢尻の化石は出窓の台みたいなところにあった。



南極船「しらせ」の本物の旗は帰る客に「また来いよ」と励ましてくれるようだった。





イーストエンドって言葉があるけれど、あれはロンドンだけじゃないな。おおまかに言えばパリもそうだし、ニューヨークもそうだ。



「富井さん、映画はごらんになります?」
籠原氏が水を向けた。
「イタリアだったら、そうだなあ。マストロヤンニなんて好きだったね。」


『末裔』

両作品とも、文化に深い関心を持っている人たちの交流が成就する。
幸福なかたちで。
文化的な交歓譚といえる。




ハッピーエンドという点では、『海の仙人』『ばかもの』『離陸』などもハッピーエンドだけれど、主人公は失う。
犠牲の上に成り立っている。
しかし、失うこと――愛する人が死ぬこと、身体の一部を失うこと、障害を負うこと――犠牲を捧げることに、わたしは贈与的な意味合いを読み取ることができない。
現実に身の回りのことを考えると、“ファンタジー”として受け取ることはできない。


『ラジ&ピース』は失うことなく、ハッピーエンドで締めくくられる。
そして『末裔』『小松とうさちゃん』には教養を、息をするように愛する人たちの、交歓と幸福とが描かれている。



一方、『小松とうさちゃん』にだけはっきりと表れている特色もある。
それは、“ないけど大丈夫そう”という幸福感である。
「小松さん」も「みどり」も50代。
若くは“ない”。


社会に関する不安な予感も、はっきりと描かれている。

「これから寂れるよ。都内は。すごい勢いで寂れる」
少子化ですもんねえ。廃墟探検できるようになりますかね」
「なるよ。(略)」

高齢化の先に見える、展望の“ない”将来の首都像。


50代の「小松さん」は大学の非常勤講師、「月収は十五万円に満たない」
かといって、教授になるとか著作を発表――ここから小説は始まった! フランス近代文学の傑作、フロベール『マダム・ボヴァリー』、無名の桂美津紀さんによる画期的な新訳!――とか、未来の開ける可能性は“ない”。
経済的には、近年脅されている下流老人どころか、底辺にもう陥っているだろう。
絶望的だ。


ところが、不幸の翳りが、わたしには見えない。
これはすごいことだと思う。
現代日本の新しい幸せのかたちに見える、小松&うさちゃん&絲山秋子さんである。

小松とうさちゃん

小松とうさちゃん

末裔

末裔

ラジ&ピース (講談社文庫)

ラジ&ピース (講談社文庫)