椿餅と源氏物語――不穏で退廃的な春の六条院

源氏物語に桜餅ならぬ椿餅(つばきもち)というお菓子を、若い貴族がふざけながら食べるシーンがある、という記事に引きつけられた。

若い貴族が蹴鞠を楽しんだあと、椿餅をふざけながら手に取って食べる場面がある。
ここでもつばきは若さの象徴だ。


読売新聞『暦めくり』斎藤雄介氏

光源氏の名が出ていないので登場しない一コマなのだろうけれど、そもそも若い貴族が蹴鞠に興じる場面といえば、一つしか知らない。
高校の教科書にも採られている有名なくだり。
源氏の正妻「女三の宮」に恋い焦がれる柏木が、子猫によってめくれた御簾の隙間から、宮を初めて目にする場面(「若菜」)
この出来事により柏木の恋心はさらに燃え上がり、数年後、密通におよび、子どもまで誕生してしまう。
秘密を知った源氏は苦い気持ちで、その男の子(薫)を抱く‥‥


藤裏葉」までは、孤独な若き皇子が愛と栄光を獲得していくさまを、応援するように描いてきたはずの源氏物語なのに、“第二部”では打って変って天下人の暗澹たる晩年を描き出す。
蹴鞠の場面は、そんな第二部の転回点の一つだ。
と思っていたのだけれど、「椿餅」はいずこに? 誰がどんな気持ちで食べたの?
とても気になって、源氏物語を開いてみると、

弥生ばかりの、空うららかなる日、六条院に‥‥

(若菜 上)

柏木は、この日も源氏のご機嫌伺いに参上していた。
しかし、本当の目的は女三の宮。
新婚の姫君は、源氏の愛する紫の上と同じ敷地(町)に住んでいるのである(!!)

さる物は思はせ奉らざらまし。
(自分だったら、そんなつらい思いはさせないのに)

長年の愛人(紫の上)、幼な妻と三人で共住みしている源氏も薄気味悪いけれど、柏木も何だか歪んではいないか。
意中の相手の家にしょっちゅう上がり込み、年齢も立場も上の夫へ、如才ない態度で接しながら、内心ではヒーローぶった妄想をしているのだから。


源氏は「丑寅の町」(花散里の邸宅)での息子・夕霧の蹴鞠遊びを知り、自分が本宅にしている邸宅(東南の町)に呼んで、蹴鞠をさせる。

やうやう暮れかかるに、風吹かず、かしこき日なり、興じて‥‥

「かばかりの齢(よはひ)にては、あやしく見過ごす、口惜しくおぼえしわざなり」
という源氏の言葉で、夕霧と柏木も加わる。
ここからは、女性の観覧者のために盛り上げようとする配慮や、実はうずうずしていた若者たちへの思いやりが見て取れる。
と同時に、この世界は家長の源氏によって厳格に秩序立てられていることを感じさせられる。
しかし、この後、源氏の望むままに統制できていたはずの世界は、崩壊するのだが、柏木によって‥‥

我も劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督(柏木)のかりそめに立ち混じり給へる足元に、並ぶ人なかりけり。

たとえるなら、ふだんは高級なスーツを着て、重要な仕事をこなす若きエリートが、飛び入り参加したスポーツでも機敏さを見せ、満座の喝采を浴びる、という感じだろうか。


時は春の夕方。

えならぬ花の陰にさまよひ給ふ夕映へ、いときよげなり。


色々紐、解きわたる花の木ども、わづかなる萌黄の陰に‥‥


御階の間(みはしのま)にあたれる桜の陰によりて、人々、花の上も忘れて心に入れたるを‥‥


花の雪のやうに降りかかれば‥‥

色とりどりの花が咲き、新緑が萌え出でて、狩衣に桜吹雪の降りしきる、この上なく贅沢で美しい背景なのだ。

色々にこぼれ出でたる御簾のつま、透影など、春の手向けの幣袋(ぬさぶくろ)にや、とおぼゆ。

去りゆく春を惜しみたくなるような夕方。
その時、舶来のペットが事件を引き起こす。
日本の物語上有名な、猫により始まるドラマである。

御几帳なども、しどけなく引きやりつつ、人気(ひとげ)近く、世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さく、をかしげなるを、少し大きなる猫、追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろぎ、さまよふ気配ども、衣のおとなひ、耳かしましき心地す。


猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱、いと長く付きたりけるを、物に引き掛け、まつはれにけるを、逃げんと、ひこしろふ程に御簾のそば、いと露は(あらわ)に引き開けられたるを、とみに引き直す人もなし。


この柱のもとにありつる人々も、心、慌ただしげにて、物怖じしたる気配どもなり。



几帳の際(きわ)、少し入りたるほどに、袿(うちき)姿にて立ち給へる人あり。


階(はし)より西の二の間の東(ひんがし)の側なれば、紛れどころもなく、あらは(露わ)に見入れらる。


紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎ(次々)にあまた重なりたる、けぢめ華やかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。


御髪の裾まで、けざやかに見ゆるは、糸を縒(よ)りかけたるやうに、なびきて、裾のふさやかに削がれたる、いと美しげにて、七八寸ばかりぞ余り給へる。


御衣の裾がちに、いと細く、ささやかにて、姿つき、髪のかかり給へる側目(横顔)、言ひ知らず、貴(あて)に、らうたげなり。



夕影なれば、さやかならず、奥暗き心ちするも、いと飽かずくちおし。


鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあえぬ気色どもを見るとて、人々、あらは(露わ)をふとも、え見つけぬなるべし。


猫のいたく鳴けば、見返り給へる面持ち、もてなしなど、いと、おいらかにて、わかくうつくしの人や、とふと見えたり。



大将(夕霧)、いと片腹痛けれど、這ひ寄らむも中々、いと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶき給へるにぞ、やをら引き入り給ふ。

まるで、劇の一幕のような場面である。
突然の登場、身を翻して(と想像される)退場。
ちょうど、カーテンが突然開き、しばしの後、閉じて姿を隠すような視覚的な演出を連想させる。
女三の宮の立っていた場所も、(神社のように)地面から高い貴族の寝殿だから、ステージ(舞台)みたいなものだ。
しかも、外に面したところに立っていたので、ステージでいうなら最前面、客席に最も近い際(きわ)に立っていた宮を、柏木は仰ぎ見たことになる。


当時の物語は、今みたいに各自の黙読ではなく、侍女が朗読し、女主人は絵入りのものを楽しんでいたという(国宝「源氏物語絵巻」の浮舟の場面など)
ナレーションや、せりふの遣り取りを耳で楽しみながら、美しい静止画を見て、想像をふくらませる感じだろうか。
しかし、このシーンが、極めてお芝居に似ているということは、紫式部もお芝居(めいたもの)や、人形劇(あるいは家庭での雛遊び)を楽しみ、そこで培われた眼から、このような場面が生まれたのではないだろうか。


ところで、女三の宮についての描写は、読者も美しく愛らしいものを側で見ているような快さに包まれる。
紅梅の襲(かさね)や桜色の衣装。
背丈よりも長く豊かな黒髪。
――どちらも女君が恋物語のヒロインにふさわしいことや、若さを伝えている。
実際、当時の姫君は、体も小柄だし、階級を誇示するため、衣装はたっぷりと何重にも体を包み、髪はできるかぎり長く伸ばすので、一瞥した姿は衣装と髪ばかりだっただろう。


衣装と髪の描写のついで、宮の姿と、髪のかかる横顔が称えられる。

言ひ知らず、あて(貴)に、らうたげなり。

蹴鞠の場面の女三の宮はまるで、日本人形のようだ。
美しい着物を何枚も重ね着して、黒髪を垂らして立つ市松人形のような姿。
強く印象付けられるのは、紫の上に劣るとは思われない美少女ぶり。


物語本文では、女三の宮は劣った人物で、紫の上は幸福である、と繰り返し書かれている。
宮は精神的に幼くて、見識も、評価すべき個性もないので、すぐに失望させられた源氏は、紫の上の魅力にあらためて気づかされた。
世間の人も「(糟糠の妻である)紫の上の方が寵愛されている」と見ている、と。
しかし実際は、四〇歳という当時では老年の源氏が、本心から女三の宮に執着していたように、物語の各所からは読み取れる。


現代では還暦にあたるような「四十の賀」を前に、周りは源氏を賛美するけれども、一人、青春時代をなつかしく思っていた源氏。
そこへ新たな「紫のゆかり」――紫の上は藤壺中宮の兄の娘(つまり姪)だが、女三の宮も藤壺中宮の異母妹の娘(やはり姪にあたる。紫の上より血縁は薄いけれど。しかし、この異母妹は藤壺中宮に次いで美しかったという)
――で、かつ、結婚したときの紫の上とおなじ14歳の宮が現れる。
しかも、紫の上が社会的立場の極めて低い庶子(母方縁者は不在)で、源氏とも内縁関係でしかないのに対し、女三の宮は藤壺中宮とおなじく皇女。


世間が羨む最高の結婚生活が始まるはずだった。
紫の上との関係がうまくいった源氏は、「俺はやっぱりツイている!」と運命を感じたろうし、積極的に皇女降嫁に動いた節がうかがえる。
だって、本当に嫌だったら、自分の意思を押し通すなんて、老練な政治家としてさんざん成功させてきたのだから。


にやにやと(と想像される)結婚をした後、女三の宮が14歳の紫の上ではなかった(当たり前である!)ことには失望したものの、若い女三の宮には異様に執着している。
それは女楽の場面にも象徴的だ。


源氏は若さを取り戻したくて、あがいていたのではないか。
だいたい、成功した中年男性が、身分高く、うら若い女性を娶るなんて、よくある話だ。
たとえ、内面にがっかりしても、若さには魅了される場合も、よくあるだろう。
そして、その若い女性の精神性や知性がすばらしくて、人生の後半を幸福に過ごす場合は、もっと多いだろう。


若く格上の新妻が劣っていただなんて、紫式部お気に入りのキャラクター「紫の上」を庇護する源氏物語にしかない、非現実的で、うら悲しい設定だ‥‥
(遡って玉鬘(たまかずら)登場の時点から、すでに恋愛至上主義、理想主義的な愛の世界は破綻しつつあったけれど)


ところで、柏木が初めて見た宮そのものは、髪のかかる横顔だけだから、ごくわずかな部分に過ぎない。
しかも、「夕影なれば、さやかならず、奥暗き心地する」とあるように、ほの暗かったのだけれど、そこへ劇的な奇跡が起きる。
またもや、チビ猫のおかげで。

猫のいたく鳴けば、見返り給へる面持ち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人や、とふと見えたり。

柏木は夢中になっているが、読者は違う感想を持つだろう。
なぜなら、宮は何か有意義なこと――賢い女主人として指示を出すとか(一条天皇皇后定子のように)、機知に富んだ言葉を発するとか(清少納言のように)、才能の感じられる歌を詠むとか(和泉式部のように)――をしたわけでは全くない。
皇女育ちらしく、箱入りのお嬢様らしく、たいそう大らかな、おっとりとした反応を示しただけである。


言い換えれば、鈍く、緩慢で、空っぽな少女である。
「若く」という語も、「稚(わか)く」という表記や、「幼く」という意味のほうが合う。
そして、「うつくしの人」は、愛玩や保護の対象としての「かわいらしい人」、つまり、お人形さん、と取れるだけだ。



横道に逸れるが、この一節もいい。

紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎ(次々)にあまた重なりたる、けぢめ、はなやかに草子のつまのやうに見えて‥‥


(紅梅襲(かさね)だろうか、濃い色や薄い色が次々に重なっている、その色の境目がはなやかで、草子(冊子)のつま(小口)のように見えて‥‥)

今の時代における色見本、紙見本に近いのだろうか。
王朝の美意識の結晶であるような、種々の色と風合いの和紙で綴じられた美しい本が目に浮かぶ。



さて、女三の宮の退場後、彼女や侍女たちの軽率さを苦々しく思う夕霧とは対照的に、柏木の取った行動がすごい。
例のチビ猫を「招き寄せて、かき抱」くのである。

かき抱きたれば、いと香ばしくて、らうたげに、うち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、好き好きしや。

意中の相手のペットを抱っこしたわけだが、仔猫の小ささや、鳴き声に、女三宮を重ねていて、何だか異常な感じがする。
その意味で「香ばしき」文。


将来は安泰、何の目的もなく(つれづれなる)、ただ恋だけが生を感じる確かな証しであるような、若者の危うさだろうか。
恋に恋しちゃってるのだけど、プライドが高いので、選んだ恋は最も難しく、奪取する価値のある恋(と本人には見える)
最高権力者に冷遇されている、高貴で可憐な若夫人を自分が幸福にする!という恋、というか妄想に陶酔していて、幼い大人のように思われる。


くだんの「椿餅」が、こんな不穏で退廃的な貴族たちの蹴鞠遊びのあとに、何も気づいていない(考えていない、とも言える)源氏によって、ホーム・パーティーで供されていたとは。

源氏物語 (1)  (新日本古典文学大系 (19))

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源氏物語 第6巻 若菜上~若菜下―付・現代語訳

源氏物語 第6巻 若菜上~若菜下―付・現代語訳