るろうに剣心の限界「伝説の最期編 るろうに剣心」映画雑感

この三部作映画の最終編の輝きは、なんといっても志々雄真実(ししおまこと)によってつくられている。
軍艦「煉獄」(すごい名前だ)での最終対決でも、ヒーローの緋村剣心は完全に劣勢。


斎藤一(はじめ)、四乃森蒼紫(しのもりあおし)、相楽左之助(さがらさのすけ)が集結して四人で立ち向かう展開は、原作の「ジャンプ」連載に由来し、目標を達成するための仲間の大切さ、というメッセージなのか。
ただ、一対多数の戦闘場面でも、志々雄の最強・最凶ぶりが見せつけられる。
最後の一対一における剣心の勝利すら、政府側に虐殺されかけた志々雄の身体に限界が訪れたからに過ぎない‥‥


しかし、これは欠点ではなく、逆に剣心の限界が明示されていて、良い終幕である。
剣心もこの時が身体的、技術的に頂点(ピーク)であり、あとは衰えていくだけだろうから。
志々雄の最期/剣心の最期、という良い結末である。


剣心が決定打「飛天御剣流(ひてんみつるぎりゅう)奥義 天翔龍閃(あまかける りゅうのひらめき)」で打撃を与えた後の志々雄も、最高だ。
悪人の生きざまが光っている。
「この先、国盗りが控えているのでな」と言い放ち、野望を捨てない姿勢に見られる強がり、負けていない感じ。
悪人としての芯を矜持している悪人美に、ぞくぞくさせられる。
自ら退場し、死後は地獄へ向かう(地獄の国盗りへ向かう?)覚悟を示すかたちで、強靭さを見せつける滅びの美。
「獅子王様!」とでも呼びたい悪人の美学、滅びの美学に打たれる。


と同時に、犠牲になって死んだ、白い着物(首にはレースを巻いている。ただし髪飾りは「花子とアン」のような、花魁だったことを象徴する華やかで目を引く大ぶりなものがよかった)の駒形由美を、最後の力を振り絞って抱きかかえ、大階段――上下、左右といろいろな方向からの場面を作れて、芝居の舞台のように使えるこの「決勝スタジアム」もよい――を昇り、死体をやさしく横たえるところには、悪人と純愛の美が極まっている。
凶悪でいて、哀しい過去を背負っている、影のある悪人なりの愛が端的に示されている。


対決場面で、志々雄は剣心の分身、鏡像の剣心、剣心のなかのもう一人の自分であることが、はっきりと伝わってくる。
(志々雄の包帯の白/剣心の上着の赤といい、赤/青だった新版「椿三十郎」を連想させられる)
志々雄の「俺たちは政府から要らない者として亡き者にされようとしている」というようなせりふからも、同一視が伝わる。
志々雄は次の高み、段階へ上がるために、最上の敵、剣心を倒すことを必要としていた。
蒼紫ら(とくに相楽!)を邪魔者のように振り払い、薙ぎ倒す場面は、剣心を愛し、対決を熱望していることが伝わってくる。
一方、「おまえや拙者のような人斬りの要る時代は終わったのだ」という剣心のせりふからも同一視、双方は一体であることが伝わる。


そして、剣心の言葉に呼応している、志々雄の「地獄で会おうぜ、抜刀斎」という台詞は、剣心も死後、地獄へ行くことが思わされて、ぞくぞくする。
火に包まれ死んでゆく志々雄の姿も、剣心が地獄、煉獄の業火であのように焼かれ、苦しむことを思わされて良い。
最終的に、由美の横たわる最上段から転げ落ちて――大階段のある舞台での山場はそうあってほしい――、焼死体として朽ちる終わりは、悪人としての凶悪さと、無残で虚しい末路を示し、物語として完璧だ。


剣心の分身のような志々雄も、剣心の過去「抜刀斎」も死ぬ、という「最期」。
ひとえに志々雄の悪役ぶりが強烈だった。
外見は、悪人的装飾を排し、地味といえるのだけど。
頭から半身は白い包帯、半身は片脱ぎで金きら金の蛇のウロコ柄の着物(腕部分に黒い幅布継ぎ)。
見えるのは目と口と、それらの周りのただれた皮膚だけ。
俳優の武器といえる顔の見えない姿なのに、包帯姿は怪物ぶりを誇示するし、この衣装が却って熱演を映えるものにしていた。
藤原竜也、すごい!


【さむ〜い「士(さむらい)たちに敬礼!」の魅力】
剣心たちが小舟で浜辺に戻り(なぜ、砲撃を受け、沈没寸前の軍艦に小舟が残っていたのか? 満身創痍だし、政府乗り込み隊員も殺されたのに、どうやって脱出、帰還できたのか? それらは補完すること)、感動を盛り上げる音楽が流れるなか、日和見主義、腹黒さを内包している伊藤博文内務卿の言動が良い。
「安泰だな」という言葉を掛けられた、隣の川路(初代警視総監)の戸惑いと、批判をにじませた表情。
「士(さむらい)たちに敬礼!」という伊藤の掛け声による、政府側人員の敬礼場面では、警察官僚である斎藤も、はっきりと顔を背ける。
そして、神谷薫、巻町操も含め、剣心側の人物が、白々しいという不信感を隠さない。


でも、ここに終幕の美が極まっていて良い。
乾いた終わりといおうか。
非情な現実がかえって、組織に属さない主人公らの立ち位置を示し、快い。
「地球を救ってくれてありがとう!」と政府、国民ともども喜ぶ、というハリウッド的、あるいは宇宙や怪物を退治する映画とは違う終わりが快い。
空虚な迎え、祝辞のなかで却って屹立する、個としての潔さ。
ぶれない美しさ。


伊藤の「士(さむらい)たち」という言葉もよい。
取ってつけたような尊称だし、政治家と官僚が国をつくっていく明治の時代においては、すでに不要のものなので皮肉にも聞こえる。
この後に初代総理大臣となる伊藤の上っ面だけの様子が出ている。


「さむらい」という言葉は無神経でもある。
さむらい(士・侍)を士分の家柄に育ち、支配者に仕える者としたら、育ちは剣心=農民、相楽も庶民、新選組の斎藤だって農民か?
蒼紫は幕府御庭番衆だから家格は士分かもしれないが、こういうエンタメ時代劇では、表には出ることない忍者に過ぎないだろう。
つまり、狭義では誰も「さむらい」なんかではないのだ。
「さむらい」という言葉の無神経な使われ方から、伊藤の底の浅さも透ける。


もちろん、敬礼する政府側や視聴者にとっては、かれら四人こそがよい意味で、本当の士(さむらい)ともいえるのではある。
武士道精神をもって戦った最後の士(さむらい)、明治十一年に存在した、ラストサムライ
そんな何重もの効果を楽しめる浜辺の場面だ。



【だめヒロイン・薫の魅力】
浜辺に帰還した剣心側の登場人物に漂う、政府、組織への不信感を、薫の「帰ろう」という一言が方向性を変える。
このあたたかく、人のぬくもりの良さを伝えるせりふは、ほかの登場人物には言えなかっただろう。
活動的で、発露する感情に共感できる、はちきん少女みたいな操こそ、こういった映画のヒロインとなるべきだったと思うけれど、「帰ろう」という言葉は第一作最初のほうで剣心と出会い、いろいろな転変に付き添ってきた薫にしか言えない、と思わされる。
その後の、東京の道場でのエピローグで、薄緑色の着物姿の薫もつややかな美しさを放ち、生きることのよさをしみじみと伝えてくれる。


この庭の場面で、もし薫のほうから「一生に生きよう」という声かけ、求婚があったら、薫の行動性が輝き、剣心の以前の柔らかさ、軟派な女々しさとの組み合わせによって、確かに盛り上がったかもしれない。
けれども、前作「京都大火編」で嵐の海に落とされる寸前の薫から「生きて」と叫ばれ、師匠との竹林の対決(福山先輩による指導に見える)によって生きようという意志を取り戻し、戦い後「帰ろう」と薫に促され、エピローグで「生きて」と薫に言われる流れの中では、今度は剣心のほうが「共に生きてほしい」と能動的に薫に求めるエピローグは、快い終着だ。
抜刀斎になって以後、受動的で、虚無的ですらであった剣心が、自分の命を大切にする、人間味を持った新しい人間に変わる感じがする。



【再婚の剣心】
原作によれば、剣心は再婚になるらしいが、この衝撃的な過去をふまえた方が映画の剣心像も受け入れやすい。
舞台は明治十一年で、幕末の動乱期に人斬りとして名を馳せたというから、実在とするとしたら三〇代であろう(作品では二〇代だが)
それにしてはいわゆる男性らしさに欠け、柔弱、中性的な魅力が前面に出ている。
この性的関心の欠如した不思議さは、かつて、初めて愛した女性(巴)を誤って殺し、しかも巴の婚約者を自分が暗殺しており、そのために憎まれていたことを知った、という「それはもうトラウマになるでしょう」という悲惨な過去を当てはめた時、納得できる。


この過去を示唆する場面は第一作から描かれるが、本作では処刑前の罪状読み上げのときに、唯一回想される過去である。
この回想場面では、剣心は狂信的で残忍な暗殺者(テロリスト)にしか見えない。
視聴者の同情を一心に集めるのは、愛する人との祝言(結婚)目前で、「死にたくない」「死ねない」と執念を見せながらも命絶える若い武士(清里明良)である(剣心の頬の十文字傷の一本目は、清里による)
(このちょんまげ武士、窪田正孝君は「デスノート」でも、生を切望して地を這い、「ノートぉ!」と叫び、手を伸ばしながら、火の中で非業の死を遂げる若者を好演しているのが連想される)


この後、雨の中、武士の亡骸(なきがら)にすがって号泣する女性(高く結び上げた、黒地に華やかな菊花柄の帯が目に残る)の後ろ姿と、それを群衆に紛れて見る剣心の姿が映されるけれど、ただ、その女性を「エヴァンゲリオン」の綾波レイが連想されるクールビューティだという、原作の巴と重ねてよいのかはわからない。
ただ、第一作で、頬の十字傷は清里の婚約者によって"完成"されたことを剣心は言っている。



【剣心のプロポーズ】
映画で描かれる剣心のプロポーズ、それに対する薫の反応は「え?」というぽかんと驚いたような表情だけだ。
それで、終わり。
でも、驚くのは当然だと思う。
今まで、さんざん迷惑掛けてきたのだから(ヒロイン属性として、無邪気無謀だし、しょっちゅう攫われるし)


そして、映画最後の"絵"、かつ、最後の実写の剣心像(ラストショット)は、笑顔。
これが私には、薫を誘惑しようとする、年相応の男性のセクシーな笑顔に見える。
意中の女性を惹きつけようとする男としての色気、生きる気配を帯びたと。
年上の美少女との愛憎に満ちた過去“巴編”は悲劇的で物語性が高いだろうけれど、この映画は、日常性を回復した、落ち着きのある終着点で良いと思う。



【"茶番"市中引き回し&処刑の意義】
処刑役の斎藤の言い捨てた「茶番」というせりふが的確なな演出になってしまっている市中引き回し・処刑の場面だが、その設定には魅力を感じる。
たくさんの人間を殺してきた剣心は、断罪されなければならないからだ。
だから、引き回しの場面では、ゴルゴタの丘での磔刑へ向かうイエス・キリストのように、群衆からもっと憎悪の視線、罵声を浴びるべきだったし、肉親を殺され、没落した武家出身の女子が制止を振り切って飛び出し、剣心は石を投げられたりするべきだった。


罪状読み上げの途中で、川路がためらうが、それは剣心を思いやってことなのか。
それとも政府側の汚いやり口、要人暗殺を剣心に命じた黒幕である事実が知られてしまう(志々雄の要求に適う)からなのか。
それを佐渡島方治が奪い取って読み上げ、非道の悪人として「抜刀斎、いや、新政府により」と補足してから、剣心に殺害された多くの武士、貴族関係者の名を続けるけれど、疑問がもたげる。
‥‥志々雄側にとっては佐幕派の大事な同志だったかもしれないけれど、彼らが知らしめたいとする群衆の庶民にとっては「誰、それ?」という縁のない人たちではないだろうか?


所詮、十年ほど前に搾取していた支配者層でしかなく、結局、幕府側(佐幕派)と政府側(討幕派、薩長土肥と朝廷)のお家騒動、権力闘争に過ぎないのではないか?
(だから、この後の乱戦の場面で群衆の姿が少ないのか、と補完してみる。戦闘による避難の前に、多くの庶民が「なんだ、関係ないや、お偉いさんの内輪揉めか」と冷めた目になって視聴率は一挙に低下し、帰宅したのではないかと)


しかし、剣心に殺された人々の名の列挙は、薫や相楽、明神弥彦にとっては、噂に聞いていたとはいえ衝撃だったはずである。
多くの人間の命を奪った殺人鬼、という姿に直面させられただろうから。


一方、剣心にとっても、命令とはいえ自分で無辜の人々を惨殺した過去が暴かれることで、あらためて自己に向き合うことになる時間である。
己の断罪。
贖罪として、また、新たな人間として回生するために、引き回しと処刑は経なければならなかった。
物語の構成上では、暗黒の宿命を背負い、影のある男というヒーロー性が活きる場面である。