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るろうに剣心「誕生編 剣心の覚醒」映画雑感

テアトルてれび

実写版『るろうに剣心』三部作は、一言でいうと、見ごたえのある殺陣(アクションシーン)と、引き込まれる成長物語が魅力である。
原作との違いに批判もあるらしいけれど、原作を知らないわたしは夢中になった。
娯楽大作ならではの「あれ?」と辻褄の合わないところや、「ありえない!」という不自然さもあるけれど、補完すれば、本格的な物語が楽しめる。


【悲劇のヒーロー】
本シリーズを王道の物語に高めているのは、ヒーローの悲劇性である。
続編をどれほど計画したのかわからない本作でも、すでに主題(テーマ)と一体化している。
とくに山場(クライマックス)の鵜堂刃衛との対決は、ヒーローの悲劇性を象徴的に描き、黄金の定型の物語に仕上がっている。


刃衛の刀をかいくぐって旋回、跳躍し、脳天へ振り下ろす緋村剣心。
流血し、よろめいている刃衛に対し、冷酷な表情を変えずに、決定打として「飛天御剣流 抜刀術 双龍閃」の構えをとる‥‥
――鬼気迫る姿はもう剣心ではなく、「人斬り抜刀斎」と化している。
そして、刃衛を闘えない身体にすると、逆刃刀(さかばとう)を斬殺用に持ち替える。
ためらうことなく傲然と言い放った、「薫殿を守るために、俺は今一度人斬りに戻る」という宣言に、刃衛は偽善、善の脆弱さ、悪の強さを見ただろう。
剣心の人斬りとしての復活を、待望していた刃衛である。
悪鬼のごとき形相の剣心をかっと見返し、不敵に「殺せぇ」と応じる言葉には、喜びがにじんでいる。


「死ね!」と剣を振り下ろしたときに飛ぶ神谷薫の声――その時機は斬殺阻止には非現実的であるが――、「剣心! やめて!」という、彼の善良さを信じた呼びかけだからこそ、心に響いたのだろう。
また、「人斬りに戻らないで!」という願いの一念が、薫にかけられていた術を自力で解かせのだろう。
それまで剣心が剣技の程度を馬鹿にしていた、守るべき、か弱い存在のはずの薫の命懸けの術破りと説得によって、「不殺(ころさず)の誓い」に生きてきたこの十年のるろうにへ戻れた剣心。


すると、去る剣心の背後で、刃衛が「決着をつけるぞぉ、抜刀斎」と立ち上がる。
剣心は振り返りもせず、「おぬしに勝機はござらん」と言い捨てるが、刃衛は「終わっちゃあ、いねえよ」と刀を振り上げる‥‥
――ここからが、本作一番の見どころである。
再生できたはずの剣心が、自分の暗黒の宿命に気づかされるからだ。

「おまえの本性は人斬りよ。」
「所詮、人斬りは人斬りだ。」
「いつまで、るろうになどと、ほざいていられるか、地獄の淵で見ててやろう。」

人斬りとして生きてきた刃衛に見えるのは悪の権化、抜刀斎であり、悪からの更生などあり得ない。
『伝説の最期編』では志々雄も、剣心のなかの悪を指摘する。
そもそも、己の名刀と剣術を信じる姿勢は、剣心も刃衛も志々雄も同じである。
刃衛・志々雄は剣心の暗黒面・ダークサイドであり、分身といえる。
刃衛の「決着」は復讐というか、冥途の置き土産のように、悪人の烙印をしっかりと押すことであり、悪人として当然の行為なのだ。
そのまま悪(悪の力)を信じて自決する刃衛は、ある意味、幸福である。


しかし、剣心は違う。
光の方へ歩みだしたばかりの剣心は、ここでやっと修羅の道が帯びる暗い運命を凝視させられる。
刃衛の末期の言葉は、虚無感に満ちた、恐ろしい運命の宣告である。
幕末の行為、罪業を懺悔し、これまで「不殺(ころさず)のるろうに(流浪人)」として、人助けに生きてきたつもりだった。
そして、薫の言葉のおかげで、今までの十年の価値や、自分の善なる心を思い出し肯定できて、悪人回帰を踏みとどまれた筈だった。
――しかしこの場面で、罪業の過去を背負う生は、そんな甘いものではないと、今までの思いが幻想のように打ち砕かれる。
己の宿業の深さ、修羅としての運命の底知れぬ恐ろしさに初めて気づき、慄然とする剣心。


刃衛の自刃も、悪人、修羅の道に生きた者は非業の最期を遂げる、という予言と映っただろう。
剣心もかつて、刃衛と同じく、あるいはそれよりも酷い悪行を積み重ねたのだから。
また、刃衛の振るった刀は、かつて剣心が用い、鳥羽・伏見の戦い終結時に手放した殺人剣であり、ここでも二人は似通う存在、表裏一体のような存在(幕末=剣心/明治=刃衛)である。


それに、人を活かす神谷活心流に共感し、薫に教えられた剣心だが、自分の半身であるような刃衛に、活人剣を振るうことは全くできなかった。
刃衛は悪の力を信じたまま、自滅しただけだ。
剣心からすれば、決着の付いた敗者で、剣心と違って回心できない敗者でしかないはずの人物に、悪人の宿命を示され、戦慄する。


薫を抱き、山門の外の石段を昇る剣心へ、斎藤一(元新選組隊長/警視庁警部)の掛ける言葉も、刃衛の思想と相通ずるところがある。

「思い知ったか。殺さずの流浪人などと、えせ誓言をほざいていると、どんな目に遭うのか。」
「いつまで、そんな綺麗ごとを言っているつもりだ。」
「るろうになど、弱者の逃げ道に過ぎん。」
「剣に生き、剣に死ぬ。それ以外に俺たちの道はない。」

悲壮感あふれる劇中音楽も、悲劇的なヒーローという王道の物語を盛り上げる。
視聴者にとっては、これから悪との相克に対峙し、非業の最期を乗り越えられるのか、という期待が高まる。
もともと、映画登場時より、暗い過去を背負うヒーローであった。
ところが、本作の山場は、過去を垣間見せて登場した時よりも格段に、ヒーローの悲劇性を増幅させており、魅了する。


本作の重要な物語(ストーリー)に基づくと、暗黒の過去に苦しむヒーローが、やっと己と向き合う機会を得、新たな次元に進む様子を描く、いわば“剣心 誕生編”である。
また、悪の内面を自覚するので、“剣心の覚醒”ともいえる。
ただ、『STAR WARS ep7(スターウォーズ 7) フォースの覚醒』と違って、主役の影差す宿命を暗示する結末により、極上の物語に仕上がっている。



【悪と正義の問題】
悪については、刃衛による宿命の予言の前にも興味深い場面がある。
刃衛に杉の大木に追い詰められて肩を刺され、その衝撃のうちに頭を蹴られ、地面に飛ばされた緋村剣心が立ち上がる。
「遊びは終わりだ」――この言葉は自分自身に言ったのだろう。
ここ十年の“るろうに”を「遊び」と否定し、「殺してやるからかかってこい」と歪んだ顔は、刃衛とは比較にならないほどの悪人そのものだ。
最後、逆刃刀を斬殺用に持ち替えて、凄い形相で「死ね」と振り下ろす場面も同様だ。
ためらいなく“不殺の誓い”を破り、完全に人斬りとして復活しようとする凶悪な表情には、凄みがある。
――つまり、剣心の高度な技は、彼が凶相の極悪人に変貌したときに発現できるのである。
憎しみと殺意のかたまりとなって、悪に化身した時に。
最強の極みは、悪人としてしか顕現しないところに皮肉を感じる。


悪と正義の相克。
罪深き過去や、圧倒的な力や兵器との関係。
これまでも多くの作品が取り上げてきた主題(テーマ)だが、本作も、悪と正義のはざまを生きる剣心に、日本が重なる。
戦争放棄、つまり“不殺の誓い”を正しいもの、真実、理想だと信じているところ。
悪への対処に苦しみながら、それでも平和を、つまり“不殺の誓い”を貫こうとする剣心は、揺れ動く戦後日本の象徴のようだ。
(新版『椿三十郎』は、設定が現代日本と重なる)
無辜の邦人もテロで惨殺されるなか、この主張を貫いていけるのか。
どう守っていくのか。


「いつまで、そんな綺麗ごとを言っているつもりだ」「弱者の逃げ道に過ぎん」という政府の武闘派、斎藤一の詰問。
「いつまで、るろうになどと、ほざいていられるか、地獄の淵で見ててやろう」という反政府の殺人者、刃衛の捨て台詞。
映画の結末は、日本が極めて険しい稜線、剣の切っ先のようなところ、修羅界のごとき現実を苦しみながら、不安定にとぼとぼと歩む未来を突きつけられるようだ。


悪人と化せば超人的な殺傷力を発揮する問題を解決する方法には、刃衛のような自裁もあるが、神谷薫は「過去のためにも生きて」と贖罪を果たしながらの生を諭す。
仮に剣心が命を落とせば、いかに非力の女子といえど、「心の一方」という妖術を信念から解いた薫や、相楽左之助、明神弥彦、高荷恵ら剣心の仲間は、自ら犠牲となってでも復讐を果たすだろう。
清里明良の婚約者・巴のように。
(剣心のトレードマーク、頬の十字傷は必死の清里と、剣心への愛憎に苦しんだ巴によって付けられた)
"不殺の誓い"は、大切な人たちの未来の罪業、憎悪の連鎖を阻止したことになる。
観客はこの映画のメッセージを喜んで受け入れたし、同じ主題はほかの多くの有名作品でも繰り返され、それらについての観客の反応も同様なのだけれど‥‥



【鵜堂刃衛の魅力】
三部作全体から見ても、ラスボス・志々雄につながる悪人が巧みに表現されている。
悪を歓喜する、不敵な悪人像。
金(アヘン商人の武田観柳などに象徴される)や、権力(本作では陸軍の山縣有朋、「伝説の最期編」では内務卿の伊藤博文などに象徴される)よりも、剣術を尽くした決闘を望む殺人狂的な姿勢。
「強ければ生き、弱ければ死ぬ」という志々雄の信条を全うできた人物でもある。
四乃森蒼紫(幕府御庭番衆の御頭/伊勢谷友介)も、瀬田宗次郎(志々雄の「十本刀」の最年少/神木隆之介)も、剣心に命を絶たれないどころか、剣の強さに頼らない生き方を諭されるので。
演者の吉川晃司は、TBS日曜劇場「下町ロケット」での財前という、高潔な管理職の役柄とは一転して、幅の広さを見せてくれる。