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高橋源一郎訳「方丈記」は訳ではなかった!(日本文学全集)感想

 インターネットで評判を知り、興味が湧いて読んでみた。

夕食前のひとときに、夢中になってページをめくった。

「おもしろい!」

 

方丈記は、もともと好きな古典である。

関心をもっている家/住まいについて論じられているし、とても短いからだ。

四〇〇字詰原稿用紙に換算すると、二十数枚らしい。

実際、わたしの持っている文庫本は薄くて軽いし、そのうちの本文は三〇ページほどに過ぎない。

方丈記は“きわめて薄い本”なのである。

 

二〇代のころ、生き方とか将来に悩んで、「方丈記なら答えがありそうだ!」と思い、はじめから通して読んだことがある。

すると、多くの言葉が胸に刺さった。

しかし、「ゆく河の流れは‥‥」といういかにも流麗な和文らしい――橋本治は、原文が漢字カナ混じり文であるところから、「観察しながら書いた」「科学的な文章」だと言っている(『これで古典がよくわかる』より)――冒頭ではなく、若いわたしの心に刺さったのは、たとえばこんな一節だった。

  (世に)従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
    もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。
   かむな(やどかり)は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人を恐るるがゆゑなり。我またかくの如し。  

 どれも、痛々しい心の叫びであるように感じた。

「もとより妻子‥‥」という一句も、鴨長明は若いころ、妻子がいたわけだから、言葉通りには受け取れず、複雑な心情に思われるのだ。

 

 

その後、2011年の東日本大震災のあった週末(晴れていた午後)にも、「津波の記述があったな」と思い出して開いた。

しかし、共感とは別の衝撃を受けた。

たしかに地震と津波について、的確に描写されていた。

けれども、わたしが衝撃を受けたのは、鴨長明の考える態度、叙述する立ち位置みたいなものである。

大地震/大津波のほかにもいくつかの大災害、災禍が記されているけれど、どの記述にも揺るぎない考え方が貫かれていたからだ。

自分は被災地にいたわけではないが、昼夜の余震や、前代未聞の災害の甚大さが明らかになる情報に動揺していて、そんなわたしには、長明の揺るぎない考え方が屹立して見え、うらやましかった。

 

 

‥‥というように、方丈記は自分にとって特別な古典なのだが、今回の高橋源一郎訳によって三回目の衝撃を受けた。

まず、題の「方丈記」にルビが振られていて、それが「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」

方丈、という草庵の大きさを訳すのではなく、「モバイル」という近年の流行語の使用に、新鮮さを感じた。

 

著者名は「カモノ・ナガアキラ」というカタカナ書きで、普遍性を感じた。

 

次いで、章題の「リヴァー・ランズ・スルー・イット」

たしかに有名な「ゆく河の流れは絶えずして‥‥」とはこんな意味ではないか、と思った。

とにかく、英語のカタカナ書きとの併用が新鮮で、方丈記の内容に新しい意味が見いだせる感じがした。

 

――「2 バックドラフト」「3 ツイスター」「6 アルマゲドン」などがアメリカの娯楽大作映画のタイトルであることには、気づかなかった――

 

それから、もちろん本文。

たとえば、

 もしかしたら、わたしたちはみんな、ひとつのホテルに泊まっているようなものかもしれない。

「ホテル」!

この一語にも本当にびっくりした。

たしかに「宿り」は、現在ではホテルと言える。

でも、そういうふうに捉えたことはなかったし、「宿り」を「ホテル」と訳しただけで、新しい意味合いが見えてくるようだ。

 

いろいろな一言一句に夢中になった。

  でも、ほんとにそうなのかな。
   知っている人たちは、みんな、どこかへ行ってしまった。   

 あっという間に読み終わって、心に湧いたのは、「この鮮烈で刺激的な文章が、原文ではどう書かれていたのか、確認したい!」という好奇心だった。

と同時に、高校時代(たぶん)から好きだった描写や、近年「いいな」と惹かれていた語句が無くなっていることには気づいていた。

たとえば、

  果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたる者どもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。   

 もちろん高橋訳にも同じできごとの記述はある。

ただ、陽炎立ち上るような夏の昼間に、土壁(築地)のある埃っぽい路上に、身分ある者(高校生のわたしの想像では、高家に仕える女房)が倒れるような様子は思い浮かばなかった。

 

鴨長明の原文には、大火の記述――ちょうどこれを書いているころ、糸魚川市で起こったが、方丈記の記述と恐ろしいほど共通点があった――といい、映像を喚起する力がある。

たとえば、「辻風」という大風、おそらく竜巻の描写。

 檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるが如し。 

 

また、わたしは方丈記の、歯切れがよく格調ある漢語や、七五調の漢文訓読体も好きなのである。

  一夜のうちに塵灰となりにき。
   七珍万宝さながら灰燼となりにき。  

ところが、高橋訳では格調ある漢文調は消えていて、名残りもない。

 

 

原文と比較することになるくらい、高橋訳には大きな特色がある。

平坦な散文であること。

そこに、軽やかな口語調の混じる散文である。

 

長明の原文は視覚的、ヴィジュアル優位である。

後半の住まいと生活の紹介も、極めて具体的にこまごまと描かれている。

そのまま撮影すれば、ささやかな番組ができあがるカメラワークの台本のように。

 

比喩すらも具体例であり、切実な感情が伝わってくる。

  羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らん。 

この文章においては、大げさな喩えに感じられないのである。

 

対して、高橋訳で印象に残るのは抽象的な思考である。

「カモノ・ナガアキラ」なる登場人物の思考がたっぷりと、明快に語られている。

 

一編のエッセイだと思う。

鴨長明の「記」とは別の。

「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」という題名の。

 

文章量は原作より多い。

書き込みが多いからである。

だから、原作をなぞりながらも書き足されている部分に刺激をうけながら、わかりやすい作品として、すらすら読めたのだと思う。

 

本巻の月報で上野千鶴子氏が、橋本治の『桃尻語訳 枕草子』の各段の後の注釈の長さに言及している。

高橋訳の原作にない書き込みには、注釈を本文にまぜいれたものもある。

が、それよりも「方丈記」や長明に対する高橋氏の推測、解釈が目立つ。

つまり、作家高橋氏による注釈や解釈が本文にまぜこまれた新作なのだ、と思う。

 

似たような本はけっこうある。

――この全集にも。

それから、橋本治の『窯変 源氏物語』は光源氏による独白体(モノローグ)で、そこから浮かび上がる源氏は冷たく酷薄だ。

初めて読んだ小説家による源氏物語訳は円地文子で、わたしは表現に陶酔して源氏物語がわかった気になり、読者としての一歩を踏み出した。

 

『桃尻語訳 枕草子』からの恩恵も限りない。

高校時代、『枕草子』は本文を抜粋した学習書が与えられ、小テストの対象だったけれど、『桃尻語訳 枕草子』によって、清少納言や周囲の女性たちの自由で強い精神に感動したのだ。

 

それから、橋本氏の『絵本 徒然草』

あの上下巻から立ち上る兼好おじさんの印象が、徒然草に接するとき、いまも中心にある。――

 

ところが、高橋訳『方丈記』は、原作からの距離が遠い。

前述した橋本氏の『枕草子』『徒然草』や円地氏の、つかずはなれずの著作とは違っている。

 

――タイかどこかの東南アジアの売春所の少女の目線で描いた角田光代の「若紫」がとてもいい『源氏物語 九つの変奏』(ほかに松浦理英子、町田康など)とも違う。

この本には逐語訳もあるけれど、全体に源氏物語をもとにした作品、という印象だからだ。――

ときに饒舌な高橋訳『方丈記』は、地上から変な感じで浮いている感じ。

 

古典を取り上げたほかの作家とおなじように、高橋氏の解釈も新鮮で鮮烈、今までにない方丈記の世界を見せてくれる。

古典の現代語訳や解釈書の新しいかたちである。

でも、長明の伝えたかったことが高橋訳の通りだとは思えないのだ。

狭義からいえば訳ではなく、超訳であろう。

 

今回、原作をざっと読み返して、もう終わるところの一文にしみじみと打たれた。

 その時、心さらに答ふること無し。 

こういう断定的で素っ気ないもの言いに、長明の実像を感じる。

言葉数少なく、一語一文も簡素。

それをたどたどしく読み、自分の出来事とつたなく重ねている方丈記好きにとっては、こういう本に思える――「方丈記」をもとに、高橋氏がリライトした新しい、魅力的な作品。 

池澤夏樹=個人編集『日本文学全集』第七巻(河出書房新社)

  

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

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絵本 徒然草 上 (河出文庫)

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