政治のできごとや社会の様子に「現代の世界は最悪かも‥‥」と絶望しかけたとき、ある本のことを思い出したら、元気になれた――その本が『源氏物語』である。
主人公の光源氏は徹頭徹尾、理想的な男性だ。
だから、実際の当時は、そうではない支配者層の男性や人間であふれていたのだと思う。
自分より若くて、社会的立場が下の美女と何回も結婚し、子どもはすでに家庭を持った成人から、孫と同じくらいの幼い子まで、何人もいる。
金ぴかで見る者を圧倒する豪邸。
虚栄心や身内の権益のための貪欲な活動。
資産はあるが、教養や芸術、文化とは無縁の暮らしぶり。
思いやりと想像力に欠け、差別に満ちた放言。
関係を持った女性たちを邸宅に住まわせる形態(妻妾同居・ハーレム)は、現代の感覚では「最低!」と一刀両断されるだろうけれど、平安時代なら、どうだろう?
関係が冷めても、捨てるのではなく、生活を支援する。
品のなさそうな美女ばかり追いかけるのではなく、様々な女性の美点や魅力に、細やかに気づいて評価する。
当時だって、女性は一夫多妻なんて嫌で、気ままな暮らしを望んでいただろうが、一戸を維持する手段がなかった。
日本全体が貧しく、わずかな富に男性貴族が群がっていたように思う。
宮仕えの女性たちにしても、将来は不安だっただろう。
ところが、"源ホーム・シェアハウス"に身を寄せれば、衣食住は安心だ。
そのうえ、源氏は歌も詠めば、絵も描き、音楽も奏で、書も見事、いろいろな書籍を多く収集している。
さまざまな文化活動を催す、文化の担い手だ。
六条院(二条院)は、日本一の福祉センターであり、文化センターである。
ここに暮らすって、現代の人が望んでいる「健康で文化的な最低限度の生活」の保障ではないか。
なにより、容姿や若さ、愛想だけではなく、思慮の深さ、教養、機知、心配りなどの人間性が評価され、平等に待遇される。
六条院は最高の理想世界だ。
――いったいに、源氏の君は実在しない虚構の男だが、対置される女たちは、ぐっと現実感を帯びている。
約八十年の物語には、さまざまな個性のヒロインが登場するけれど、たとえば、理想を取り集めたような「藤壺の中宮」や「紫の上」だって、読んでいるこちらには共感するところが多い。
たぶん、紫式部は、自分の中に蓄積されたさまざまな女性像を抽出し、そのほかにも、自身が社会生活で知った個々の女性の魅力を惜しみなく注いだのだろう。
世間の男性による、偏見に満ちた女性論にうんざりしながら。
(『帚木』は全編、その主題を扱っている。
また、『末摘花』も、偏狭で陳腐なラブ・ストーリーを笑っている)
「最高の美女ではなく、若くもないけれど、人間として魅力的な女性がいろいろいるのに」と発奮しながら――
聖家族はいない
源氏物語は意外に、保守的ではない。
たとえば、家族主義・家族重視・家族賛美ではない。
子どもなど数えてみると、三人しかおらず、しかも皆、物語展開のための存在に過ぎない感じだ。
〇冷泉帝――父帝の最愛の夫人と不倫してできた子で、運命的恋愛と、源氏の政治面の成功物語の推進力。
〇夕霧――正妻との男子で、家柄確かで優秀な後継者がいる、という現世幸福を保証するための存在。
〇明石の中宮――隠棲中の須磨で関係した女性との子だが、天皇と結婚して東宮(皇太子)を産んで国母となり、源氏の栄華を最高のものに仕上げるための存在。
このうち冷泉帝は隠し子なので、戸籍上は男子一人女子一人、つまり、子どもは二人しかいないのだ。
これって現代と同じではないか。
当時も子孫繁栄が人々の願いだから、現実の権勢家には珍しかったのではないか。
紫式部は可愛らしい子どもの描写が見事だけれど、数や距離感はこれくらいが理想と思っていたように読める。
――実際、子だくさんの夕霧は笑いの対象であるし、その正妻で、セレブ・ママともいえる雲居雁の子育ては、皮肉な感じで描かれている。
源氏の友人の頭中将も子だくさんだが、彼やその子ども達による娘/異母妹の「近江の君」への冷笑、酷薄な扱いには、読んでいてゾッとさせられる――
一方、源氏身辺以外はかなりリアルである。
源氏は、母親と祖母には早くに死別したけれど、兄弟(異母)皇子はたくさんいる。
しかし、彼らは、源氏のようにすばらしい人物ではないことが読み取れる。
聖母子もいない
頭中将の母親(大宮)は、賢く思いやりある女性だが、大臣になった中年の息子は老いた母親の気持ちを顧みない。
家族間の疎隔、心の通わない親子の様子が印象的だ。
物語で母子の大切さは描かれているけれど、それもすぐに思い出されるのは、実子実親ではない関係だ。
血縁のない"母子"のほうが源氏物語では魅力的に書かれている。
紫の上――明石の中宮
花散里――夕霧
落葉の宮――夕霧の六の君
どれも女性の識見や思慮深さ、思いやりによる行き届いた養育があり、後には大人同士の成熟した関係へと変化したように見える。
恋愛/男女関係を賛美していない
源氏の幸福は後半(「若菜」巻以降)、一気に翳りを見せる。
六条院の世界は崩壊し、最高に見えた結婚(源氏――紫の上)も破綻する。
最後の「宇治十帖」に至っては、“恋愛”の否定、社会で一般に良いものとされる男女関係(異性愛)の不毛を書いている、と思う。
逆にそこから振り返ると、それまでだって、光源氏に理想が体現されていた時にだけ、源氏の身辺にのみ理想は顕現していた。
常にそのすぐソトには家族、恋愛、社会の問題点が点描されていた。
だから、光源氏から理想が衰微していけば、現実の荒涼が接近拡大されるのに決まっているのだ。
紫式部が生きた実際の時代は、みやびな文化、豊かな心の時代などではなかったろう。
一部の人間の思惑で政治が行われ、武士(というか武力で資産を獲得する一団)が勢力を確かなものにしていて、宮廷では一条天皇の皇后定子に対するようなものすごいいじめ、嫌がらせがあった。
叔父(藤原道長)や伯母(一条天皇母の詮子)が、姪甥(定子・伊周)を苦しめて社会的に抹殺したし、ほかの貴族も、いや社会全体がその行為に加担した。
暴力と、精神的な暴力の脅威がまじかにあった。
きっと、多くの女性は生きにくかっただろう。
家柄や外見によって、差別的に扱われ、自由ではない結婚をして、子どもを産むしかなかった。
『蜻蛉日記』に書かれているように、美しさや才能に恵まれ、社会のトップ層と結婚して男子を得た女性でも、満たされなかった。
――『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱の母)も現代に生きていたら、大きな声で笑い転げる楽しい日々を送れたかもしれない。
一条天皇中宮の彰子だって富裕で長寿だったけれど、別の女性を愛していた夫に若くして死なれ、本当に幸福だっただろうか?――
わたしは平安時代を賛美できない。
ものすごい格差社会で、ひどい差別や加害も横行していたから。
けれども、紫式部は光源氏を灯(ともしび)のようにして、聖火のように高く掲げて、理想を明るく照らし出した。
物語の後半では、現実の暗部を冷静に見つめ、問題点を抉り出すような完璧な小説を書いた。
すごい人だと思う。
ただの読書好きで、知識ばかりある、夢見がちな中流階層の女性がご都合主義のラブ・ストーリーを書き飛ばしたのではない。
虚構のなかに、現実も理想も、見事に書きこんだのである。
わたしは臆病者なので、紫式部は勇気があったと確信している。
今よりも荒れ果て、厳しい時代に勇気を持って書いていたはずだ、と。
そう思うと(自分は文筆業などではないし、小説も書かないのに)元気が出てくるのである。
- 作者: 柳井滋,大朝雄二,藤井貞和,室伏信助,鈴木日出男,今西祐一郎
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