主人公はふつうの群馬県民ではない。
だからいいのだ。
『薄情』の絶妙な味わいは、「宇田川静生」がふつうの群馬県民ではないことに起因している。
「おれ」はいうなれば、半神半獣ならぬ、半深半住だ。
県北の嬬恋村に五か月くらい住み込んで、キャベツ収穫のアルバイトに従事するという点からして、多くの県民とは違う。
しかしそのために、一般的な定住型県民は、生涯知らなかっただろう感覚にふれることができる。
“半住”の設定により、深度が生じている。
この小説で重要な、東京都内からやって来た木工家「鹿谷さん」の工房との関わりも特徴的だ。
嫌いな人には口もきかないどころか、つまみ出すことさえあるという噂だった。それで工房に来るひとはある程度一定していた。
さらっと書かれているけれど、ほとんどの県民はふつうに生活している中で、ものをつくる人、文化人、アーティストらと親しくなる機会に浴しない。
一定して、どこか世間とずれているような、ずれていてもかまわないという覚悟を持っているようなひとたちなのだった。
その土地の山水を愛しながらも、地方の「世間」に困惑している者にとって、夢のような場ではないか。
主人公は“半住”の民だから、深いところに進める。
電車に乗ることなど、月二回もあれば多い方だ。高崎駅は長い間工事中だった駅構内がきれいになり、東口のロータリーやペデストリアンデッキも来るたびに改修がすすんでいる。それでも、戻ってくるたびに「ああ、いつもの通りだ」と思う。
そもそも、初めのほうの一節からして、地元育ちの県民というよりは、“外界からの来訪者”の感想ではないだろうか。
「今日まわってるコース自体がもう日本庭園みたいじゃね」
池にあたるものが高崎や前橋の街がある平野で、そのまわりをぐるりと囲む山が、移動するごとに見え方を変えていく。それにしてもよく出来てるじゃないかと思った。
わたしが今、もっとも好きな一節である。
舞台の七輿山/ナナコシヤマは子ども時代から、家族にまつわる思い出のある古墳でありながら、こんなふうに捉えたことは、全くなかった。
近年は古墳であることすら、忘れ果てていた‥‥
たしかに『薄情』は日本の地方の今を切り取り、北関東内陸の小都市(まち)に住まうことについて考察されている。
それでいて具体的な記述は、“ソトからの人”だからこそ見える県内各所の魅力ガイドブック、という面を呈している。
七輿山古墳(藤岡市)に先行する楽山園(甘楽町)の場面といい、車による紀行エッセイ『街道を行ぐ(けぇどをいぐ)』の記述と重なるところもある。
だから、『薄情』はこういうふうにもお薦めできそうだ――群馬探訪記、『街道を行ぐ』の小説版ですよ、と。
――あるいは、イサク・ディネセンによる極めて魅力的な、ケニアの農園生活記『アフリカの日々』
それと、そこに出てくる雇人の少年カマンテが後年に描いた絵や、関係者の当時の写真などの資料から構成された『闇への憧れ』(編集ピーター・ビアード/監修・解説 西江雅之/訳 港千尋/出版 リブロポート)
この二冊の関係にも、いくらか似ているかもしれない――
結晶度の高い虚構と、現実。
しかし、東京の出版社の『薄情』/地元の新聞社の『街道を行ぐ』は、同一作家による本である。
”地に足の着いた地元民”ではなく、来訪者/マレビトにより、初めて開示される、地の魅力。
『薄情』は地の魅力を無尽に放散している。
そのため、「おれ」が親族の、由緒ある地域の神社を手伝い、将来は神主になることにも意味があるように思ってしまう。
――宇田川は、マレビト、来訪した神だと。
といっても、神話の荘重で厳かな来訪神ではなくて、『海の仙人』の「ファンタジー」みたいな、俗にありて仙人であるような、飄々とした印象の。
結婚相手と目し安心しきっていた女性から関係を切られるエピソードも、徒然草に書かれている「久米の仙人」の話を想起させる。
久米の仙人は、脱俗して飛べることができるようになったが、飛行中に地上の若い女性に惹かれ、その瞬間、神通力が切れたという。
失敗したり、困難が降りかかって墜落しても、また飛行して――車で東北へと向かう――生きようとする半深半住の人、群馬の仙人――地上の仙人「おれ」
彼には「変人工房」はもう必要ではないし、最後に向かう場所は群馬県内でもない。
だからこそ、新たな始まりが確信される結びである。
アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)
- 作者: イサク・ディネセン,エイモス・チュツオーラ,横山貞子,土屋哲
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/06/11
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