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フジバカマの香りまとう源氏物語の貴公子たち

「フジバカマに王朝人の芳香」という読売新聞の記事がおもしろかった(2016年10月6日付)

『暦めくり』という連載記事で、執筆者は斎藤雄介氏(編集委員) 

 葉を乾燥させると、甘い芳香がする。

 

中国では、若葉をもんで髪の毛にしのばせ、湯に入れて浴し、また身に帯びた。

この風習は日本に伝えられ、平安貴族はフジバカマを大切にした。

 

薫がフジバカマをたおると、草の香りが一層ひきたった。

 

(匂宮は)人気のあったハギの花には目もくれず、フジバカマを栽培していたというから、身に帯びていたのではないか。

 

(実際に乾燥させてみると)

確かにいいにおいがする。

桜の葉の塩漬けとおなじクマリンの香りだが、もっと甘いように感じる。

どこかで、かいだことのある匂い。

ラベンダーに似ているという人もいる。

 

筆者はほかにも書いてくれているけれど、わたしはこの引用箇所に驚かされた。

「源氏物語の薫大将や匂宮が、フジバカマの香りを身につけていたとは!」

気になったので、源氏物語を開いてみたら、この記事が基としたらしい一節に出会った。 

この君(=薫)は、まだしきに世の覚え、いと過ぎて、思ひ上がりたる事、こよなくなどぞものし給ふ。

げに、さるべくて、いと、この世の人とは造り出でざりける、仮に宿れるか、とも見ゆること添ひ給へり。

顔かたちも、そこはかと、いづこなむすぐれたる、あな清らと見ゆる所もなきが、ただ、いと、なまめかしう恥づかしげに、心の奥多かりげなる気配の、人に似ぬなりけり。

 

香のかうばしさぞ、この世の匂いならず、あやしきまで、うちふるまひ給へるあたり、遠く隔たるほどの追ひ風に、まことに百歩の外も薫りぬべき心地しける。

 

(香をたきしめることは)かく、かたはなるまで、うち忍び立ち寄らむものの隈も、しるきほのめきの隠れあるまじきにうるさがりて、おさおさ取りもつけ給はねど、

あまたの御唐櫃に埋もれたる香(かう)の香どもも、この君のは、言ふよしもなき匂ひを加へ、

御前の花の木も、

はかなく袖ふれ給ふ梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしむる人多く、

秋の野の主なき藤袴も、もとの香りは隠れて、なつかしき追ひ風、ことに折りなしからなむまさりける。

 

 

 かく、あやしきまで人の咎むる香にしみ給へるを、兵部卿の宮(=匂宮)なむ、こと事よりも挑ましく思して、

それはわざとよろづの優れたるうつしをしめ給ひ、朝夕のことわざに合はせいとなみ、

御前の前栽にも、

春は、梅の花園を眺め給ひ、

秋は、世の人の愛づる女郎花、小牡鹿(さをしか)の妻にすめる萩の露にも、をさをさ御心移し給はず、 

老いを忘るる菊に、おとろへゆく藤袴、ものげなき吾木香などは、 いとすさまじき霜枯れの頃ほひまで思し捨てずなど、

わざとめきて、香に愛づる思ひをなむ立てて好ましうおはしける。

 

むかしの源氏はすべて、かく立てて、その事と様変はりしみ給へる方ぞ無かりしかし。

 

参考『新日本古典文学大系 源氏物語 四』岩波書店

       『玉上琢彌訳注 源氏物語 第八巻』角川ソフィア文庫

 

「光隠れ給ひにし後、かの御影に立ち継ぎ給ふべき人、そこらの御末々にありがたかりけり。」と始まる『匂宮』の、薫中将/匂宮と並び称されるわけが書かれている有名なくだりであった。

 

あと、源氏物語本文では、フジバカマとともに香りの例として、梅、女郎花、萩、菊、吾木香といった複数の植物が挙げられていることもわかった。

「藤袴」は春の代表の「梅」と対置され、秋の代表として二回言及されるものの、流れゆく雅文のなかでは小川の小石のような扱いに思えた。

 

そこで、フジバカマの香り自体についてもっと知りたくなり、手元の“図鑑”を開いてみた。

『草木花の歳時記 四季花ごよみ 座右版』(講談社/1994年)

つまり、俳句・短歌の創作・鑑賞を中心に扱っている本である。 

異名  こめばな、かおりぐさ、こうすいらん。

         中国での別名は香草で、これは半乾きのときに芳香を放つことに由来する。

 

藤袴手折りたる香を身のほとり    加藤三七子 

 

平安時代の貴族が着物にたきしめていたことは、説明されていない。

フジバカマはそもそもわたしとって、秋の七草というから期待して見ると、実物は花すら見栄えせず、あまりの存在感の薄さに拍子抜けさせられた“がっかり七草”である。

しかし、今回の新聞記事によって、まったく見方が変わった。

 

俗っぽい薫や匂宮が、ほのかな甘い感じの芳香を身に帯びていたとは!

意外で新鮮。

『匂宮』巻は、光源氏の最後の姿が描かれる『幻』巻のつづきで、光源氏亡き後の世界がとうとう始まる帖だ。

それまでの本編では、光源氏に関係する幼くかわいらしい子どもとして脇役的に点描されていたのに、薫と匂宮が個性や翳りを持つ青年の主要人物として登場する。

この次世代の若者二人については、「どぎつい人たち、人工的に造型されているような人物」という良くない印象をわたしは持っていた。

 

しかし、品のある、草由来の芳香をまとっていたとは。

これまでの印象が一新されて、さりげないおしゃれを楽しむ現代の若者、という感じがするではないか。

たしかに薫は、身体の香り(体臭だ)があたりに放散し残留した(こう書くと、ケモノと同じだ)

匂宮は対抗して、深く濃く香料をつくって、たっぷりと衣にたきしめていた。

しかし、乾いた葉の香りということは、現代の人工香料などよりもずっと、ほのかな甘い感じの芳香だっただろう。

 

また、匂宮は自ら、菊、藤袴、吾木香をていねいに栽培していた、とある(ワレモコウは実際は匂わないらしいが)

きっと春先からだ。

「少しなよび、やはらぎて、好きたる方に引かれ給へり、と世の人は思ひきこえたり」という源氏物語の表現がわかりやすい。

柔和で色白で身ぎれいで、通好みの美に凝って、趣味を大切に生きている、内向きな若者が見えてくる。

 

今を時めく匂宮の私邸には、「いとすさまじき霜枯れの頃ほひまで」、茶褐色に変わり果てたり、黒ずんだ草花が立ち枯れている一画があった。

そんな花園に降りて歩き回り、丹念に見て、手でふれたり、摘んで、かいでみる若い皇子。

将来の天皇候補である‥‥

 

田辺聖子さんの小説『不機嫌な恋人』(角川文庫)を思い出した。

ヒロインで、宮仕えをしている「小侍従」の私邸にも、似たような庭がある。

わたしの中では、イングリッシュ・ガーデンみたいに、野草が自然のまま、のびのびと生い茂る薬草園が一画にあるイメージだ。

一部に垣根を結いめぐらして、犬や猫が入れないようにした花園がある。

 

小侍従は羊歯(しだ)や菖蒲(あやめ)をしらべ、藤袴の花に手でふれ、匂いを嗅ぎ、つるばらの実の色をしらべ、紫蘇(しそ)の一種の葉を爪で千切って嗅いでみる。

――そうして、

(明日の未明ごろ、摘もう)

と思う。

小侍従が身辺にただよわせる芳香は、みな自分で調合する。

 

小侍従が仰ぐ京の空は、秋の澄んだ大気の中に、燃えるような夕焼けだった。

 

あらためて読んでみたら、フジバカマが出ている!

それに、匂宮についてのわたしの想像は、なんのことはない、この小説のおかげであったのだ。 

高校時代から好きな小説である。

秋の修学旅行のときなど、本文の一節を書き抜いた紙を御守りに入れ、京都へ携えた気がする。

しかし、この庭と芳香についての記述にもフジバカマが出てくることには、初めて気がついた。

 

実際、かつての貴族は、都住まいとはいえ、自然とかなり密接に暮らしていただろう。

庭には草木を植えて愛で。

衣服は草木染めで美しく仕立て。

郊外への花見、紅葉狩り。

それだけでなく、邸宅から出るだけで、様々なところで自然にふれただろう。

かなり野趣の織り込まれた生活といえないか。

 

晩秋には、枯れゆく草木の色調に目を留めたり。

雨の降ったあとは、落葉から立ち上るほのかな匂いをかいだり。

暮色に沈みゆく山、うつろいゆく夕焼けの色合いを眺めていたのではないか。

 

最後に。

読売新聞の連載記事『暦めくり』のおかげで源氏物語の理解が深まったことは前にもあった。

「椿餅」を取り上げた記事によって、これまた有名な『若菜』の桜春の蹴鞠(仔猫(唐猫)が御簾をめくり上げる)の場面をとても面白く読み直すことができたのだ。  

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 今回も斎藤さんの記事を入口に、ただ本文を読んでいるだけではわからない、昔の宮廷文化を実感できた。

奥深い源氏物語の世界に遊びに行くことができて、とっても楽しかった!  

四季花ごよみ―草木花の歳時記
 

  

 

源氏物語索引 (新日本古典文学大系)

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