『涙から読み解く源氏物語』鈴木貴子氏(笠間書院/2011年)
この本を読みながら、源氏物語について、つらつら思ったことです。
【涙から読み解く源氏】
光源氏はよく泣くと言われるけれど、一般的に女性的、と言われる要素を持っているところがふしぎな魅力の要因だと思う。
活動的で宴会好き、明るく開放的なタイプの男性ではない。
(こういうタイプは源氏の友人、頭中将かもしれない)
『末摘花の「音泣く」』
「なぜ末摘花にのみ「音泣く」が集約されているのだろうか」とあるが、そもそも末摘花は、恋愛物語のヒロインとしては特異である。
この上なくダサく、野暮ったくて、不美人。
容貌と体形の描写は、文学史上最も辛辣だ――象のように長くて赤い鼻、胴長で、痩せさばらえているなんて。
それだけでなく、ファッション・センスもだめ。
音楽(琴)も、書(字)も下手。
感覚はしかたないかな、と思う(現代もファッションに興味なかったり、何も演奏できなかったり、字のうまくない人はいるのだし)
外見だって(胴長だったり、痩せっぽっちの人はいるし)
ところが、末摘花は頭の回転もきわめて鈍く、人と会話ができないのである。
経済観念もないから、父宮亡き後、雇い人は離れ、邸宅は荒廃していく‥‥
全く長所のないお姫様なのだ。
けれども、当時の読者はこんな末摘花の登場を大喜びしたのではないか。
「末摘花」巻が、美しい恋愛幻想に報復されるような源氏の滑稽な失敗譚ということもあるけれど、末摘花についての記述は、宮家の姫君に対する露骨な揶揄だからだ。
血筋がいいだけで、ブスでバカ。
(身も蓋もなくてすみません)
零落の様も同情を誘ったとは思えない。
世間の荒波に揉まれることなく、家柄(既得権益)だけで呑気に生きてきた人々が転落していく。
その様に、小気味よさすら感じていたのではないか。
‥‥ところがところが、「蓬生」で再登場する末摘花は、まるで別人だ。
育った邸宅を離れることを拒絶し、伝来の家具・調度品も手放さない。
ほぼ無人で、庭には草木が茂り、荒れ果ててひっそりとしている邸内で、文庫から「竹取物語」を取り出して読む。
読書する末摘花!
その本が「竹取物語」であることは、家や調度品を守り抜く行動と同じ意味を持っているのだろう。
「竹取物語」は古くて、由緒ある物語のシンボルなのだ。
源氏が失脚し、都の外へ蟄居するしかないという時勢の推移に、多くの人が源氏から去っていった。
そんな時代に、末摘花はたった一人で、昔からの良きものを無心に守り抜いた。
この意味は、末摘花が宮家の姫だからこそ大きい。
つまり、「末摘花」巻は、恋愛妄想の相手がひどい姫君だった、という笑い話。
ーーこの末摘花は、宮家の姫君だからこそ、読者が愉快な気持ちで嘲笑するヒロインである。
対して、「蓬生」巻は、時代の変転に遭っても、宮家の姫君が「古(いにしえ)」を純粋に守っていた感動的な話だ。
ーーこの末摘花は、いじらしく理想的で、好感の持てるヒロインとなっている。
一体、この正反対の性格をどう捉えればいいのだろうか?
源氏への恋がもたらした成長だろうか?
しかし、「一貫性は無いのだな」とわたしは簡単に捉えている。
その場その場に合わせて書いたり、造型するという特徴が源氏物語にはあると思うからだ。
たとえば、光源氏も三十歳代になると、嫌みな中高年男性の政治家に変貌する。
源氏が男雛だとしたら、その女雛のような紫の上も、自分の内面を静かに見つめる成熟した女性になり、最後は悲劇的な形で世を去る。
紫の上の死とともに、源氏も生から退場する。
「蓬生」で再登場した末摘花もそういった描かれ方の範疇にいる。
好感の持てるヒロインとして照明を浴びたものの、この後は再び、時代遅れで野暮ったい、嘲笑される脇役に退いていく。
『紫の上の涙と匂宮』
死にゆく紫の上と、幼い匂宮(義孫)の交流の場面は美しい。
もともと、匂宮はいずれ帝位に上るだろう、という予感が読者には兆している。
だから、ここには紫の上には最高の継承者がいる、という幸福が描かれている。
純粋な子どもとしての最高の面を見せる、かわいい匂宮は、美しい義祖母の面影を生涯忘れることなく、思慕するだろう幼い皇子である。
ところがところが、青年として再登場した匂宮には幻滅させられる(第三部)
それに、どう読んでも脇役だし。
源氏の正統な嫡孫なのに。
重要な三角関係の一員なのに。
思慮の浅く、自己を省みることのできない性質ばかりが目立つ。
中の君(宇治八の宮の次女)、六の君(夕霧の女)、浮舟(宇治八の宮の庶子)――
どの女性にも、一生懸命に泣いたり笑ったり愛したが、それが却って表層で狂騒しているだけの現代の若者、という印象。
中身がなく、幼い。
薫に対抗するように行動しているだけで、――自己や時代の空虚をやみくもに埋めるためなのか。「恋愛」というのは名ばかりで、本当は別の衝動に動かされているように見える貴公子二人なのだが――、自分の問題点や原因を考えようとはしない。
しかも、物語の叙述からはやはり、こんな浅薄な人物がいずれ帝になるように読めるのである。
ここにも、第三部における時代の衰退がはっきりと読み取れる。
『涙の共有と<ずれ> ――紫の上・光源氏関係をつなぐもの』
紫の上/源氏の関係が幸福なものではなくなって終わったことは、よく指摘されている。
けれども、わたしは“幸福な病妻物”だと思う。
難病に冒されるも、愛されて死ぬ女性のドラマ。
この型のドラマは空疎かもしれないが、作者は自身が愛するキャラクターのために注意を払って、それなりに幸福な物語を仕上げている。
それは源氏のためでもあっただろう。
源氏は途中からは嫌な点ばかり描かれているが、作者はやっぱり、人間の奥行きや理想をさまざまに描ける存在として、源氏を愛している。
紫の上に捨てられることなく、静かに死を迎える源氏を描きたかったのだろう。
帝の寵愛を独占し、東宮まで産んだ養女・明石中宮が看取ったことはもちろん、源氏と紫の上の関係はそれなりに理想的なものだ。
源氏は紫の上を支え、頼って、一方の紫の上は源氏を思いやっていたのだから。
これは、当時の専業主婦的な貴族女性にとっては、理想的か、「まあいい」最期では?
一方、「若菜」巻以降(第二部)には現実がかなり盛り込まれている。
恋愛には終わりが訪れること。
幸福な結婚だったはずなのに、夫が自分より若く、格上の女性と結婚すること。
当時、よくあったのだろう。
現代でも、苦労した頃からのパートナー(糟糠の妻)と別れて若い女性と結婚したり、付き合ったり、あるいは、社会的立場のある裕福な人が四〇歳ごろになってようやく結婚する(相手はかなり若く美しく、才能ある女性)なんて、珍しくない。
見識や思いやりを備え、理想的人物だった源氏も四十歳にして、十四歳の皇女を所望する。
秩序の崩壊を呼び込むことは、誰にだって(ふつうの野次馬なら)わかるのに。
「藤壺中宮と血縁がありながら、庶子だった紫の上と違って皇女。
紫の上と関係を持って"幸福な"日々が始まったときと同じ十四歳。
そんな少女を手に入れれば、自分なら一層幸福になれる」と思うほど傲慢だったのか。
ところがところが、若い正夫人は愚かで、その正夫人を寝取り、子どもを産ませる若い貴公子も愚かだった。
関係者が理想的な人格の持ち主たちだったら、苦悩の絡みつく美しい三角関係の話かもしれない。
しかし、三人が三人とも、愚かで浅慮、軽薄な面を持っていて、現実にもよくある身も蓋もない話なのだ。
‥‥こんな源氏のみっともない晩年、そして人間の複雑さ、奥行きを見せてくれる物語を、「帚木」などの若い源氏の恋愛遍歴譚や、「若紫」などの藤壺中宮をめぐる禁断の愛の話(紫のゆかりの物語)、“玉鬘帖”などの四季を背景にした六条院の華やかな暮らし(玉鬘@六条院物語)を書いているとき、作者は構想していただろうか。
たぶん、書き続けているうちに、変わっていったのではないか。
第三部につながる現実の要素。
源氏や紫の上という登場人物を通して描かれる理想の要素。
現実/理想の二つが、継ぎ合わされている最後の巻が、紫の上の死を描く「御法」巻だと思う。
『雲隠』巻より後の第三部に、男女の理想の関係は描かれていない。
『明石一族の涙と結束 ――涙をめぐる風景』
源氏物語について知ったころは、源氏のたった一人の娘を産んでいるし、六条院でも一町の女主人なのだから、紫の上や藤壺中宮らと同じようなヒロインの位置にあるのだろうと思っていた。
ところが、いろいろ読むうちに、実際的な幸福を取り集めている明石の御方は、魅力的でなくなってきた。
実際には当時、かなりいたタイプなのだろうけれど。
美しくて、文化的教養があって、賢くて、成功していく貴族の女性。
紫の上や藤壺中宮のような人は、現実には存在しない。
けれども、いや、だからこそ、理想的で憧れる人物である――物語にしか存在しない永遠のヒロインである。
ところがところが、第三部の玉鬘は、見ていられない。
美しくて明るくて賢かった女性が、主婦として苦労している。
将来性のない息子たち。
相愛であったはずの冷泉院は、玉鬘の長女を寵愛し、長女の心も玉鬘から離れていく。
身分の高い相手に嫁いだ次女の結婚も、幸福なものではない。
こんなに苦しみを抱えなくちゃいけないの? と読んでいるこちらは思わされる。
玉鬘と、明石の御方の境遇は、光と影のようだ。
二人とも美しくて賢く、才能があったのに。
不幸/幸福
この分かれ目は、物語的な主役の源氏と関係を持ったか、どうかでしかない。
つくづく第三部は社会の限界を描いているように思う。
源氏の唯一の娘、明石の中宮も第三部では、口うるさく常識的な中年の母親に変貌している。
まだ美しいけれど、権高で、怒らせたら怖いと想像させられる母后。
少女時代はあんなに可愛らしかったし、晩年の紫の上とは心を通わせたのに。
玉鬘や明石中宮の“変貌”の種は、すでに上の世代の明石の御方に内在していたと思う。
美しく賢い女性の人生カタログ、といおうか。
話が現実に傾斜するにつれ、憧れることのできない部分が脇役にも顕在化しているのが第三部である。
『夕霧物語の涙の構造 ――紫の上をまなざす夕霧』
以前、大学入試センター試験に出題されたときに書いたように、落葉の宮に対する夕霧の行動は、恐ろしい。
まちがっても、初恋の幼なじみと家庭を持ち、落ち着いたはずの中年男性のすてきな恋、などではない。
源家の跡取りであり、好ましい少年だった夕霧が、嫌がる未亡人に執念深く迫る怖いストーカーに変貌し、その恐ろしさがみっちりと描かれている。
権勢者による女性への暴力、という感じでしかない。
一番なりたくないキャラクターは?
葵の上である。
六条御息所や末摘花にもなりたくはないけれど、彼女らは自分の個性のままに存分に生きている。
しかし、葵の上は、自分の思うとおりに生きたことのないまま死んでしまった高位の夫人、というアイコン(記号)でしかないように思われるのだ。
『宇治十帖を織りなす涙』
『宇治中の君の涙 ――見られる涙の力学』
宇治の姫君"中の君物語"は、セレブな人の不幸な話、という印象。
結婚はしたし、子どもも生まれて、義母(皇后)からも目を掛けられているけれど、色彩にたとえると、玉鬘の次世代の女性たちの人生は、灰色な感じなのだ。
『大君の涙』
宇治の姫君"大君物語"の掉尾の「総角」巻は印象的だ。
自分を愛する男が、生活を援助し、全力で最高の看護体制を整えてくれて、泣いている傍らで、死んでいく。
ただ、薫の愛情は理想的かもしれないけれど、大君からみたら、男性と関係を持つことは絶望につながるのである。
男性への強い拒絶、この世への絶望を抱いて死んでいく大君の最期は、凄まじく壮絶である。
『浮舟物語の涙 ――浮舟・匂宮の相関』
最後のヒロインである浮舟は、それまでのヒロイン達と違って、身分も低く、才能も見識もない。
言うなれば、取り柄のないふつうの女性である。
しかし、最後はこの人物だけが、俗世や恋愛を拒絶し、それでいてなお、生きていこうとする境地に至る。
源氏物語は未完説もあるけれど、やはり「夢浮橋」で源氏物語は閉じていると思う。
身もだえするような男女の多様で美しい性愛、生の深い愉楽を提示して始まりながら、荒涼の世界へ、翳りゆく世界のなかの一灯へ。
源氏物語は、紫式部が真摯に書き進めていった結果、物語の主題そのものが大きく変わって終わった。