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『伊豆の踊子』川端康成←→ベルリンの『舞姫』森鷗外(鴎外)

森鷗外(鴎外)の『舞姫』を好きな人、熱烈なファンって今どれくらいいるのだろうか?
高校の国語の教科書に載っているので、現代の多くの読者は学生だろう。
学生たちはこの小説をどう評価するのだろうか。


「太田豊太郎君、君は間違っている」という激しい批判の手紙を学生時代に書いた、という新聞の投書に共感したことがある。
近代化の痛みを美麗な擬古文で著述し、初期小説としては明治の名作なのだろうけれど、今の目で見ると、利己的なひどい内容だ。
精神を病み、何もわからない十代のエリスが初産を迎えなければならないことなど想像したくない。
子どもも異土に棄てたわけだし。
(豊太郎の帰国後の政略結婚から生まれる子どもはぬくぬくと育ち、女子であっても、高い教養を身につけ、欧米に遊学する境遇に恵まれるだろうに)


芸能と売春のはざまに生きざるをえない下層のかよわい女性を、自分の意思で捨てながら、泣き(「千すじの涙をそそぎし」『舞姫』)、“ふるさと”へ帰る小説なら、川端康成の『伊豆の踊子』の方がずーっとすばらしいと思う。
『伊豆の踊子』は小説そのものは国語の教科書に載っていないかもしれないが、『舞姫』とは対照的な傑作だ。
『伊豆の踊子』は一言でいえば、失恋の小説である。
主人公の学生の失恋と、踊子の少女の失恋である。


踊子は「こういう女の子、いる!」と応援したい気持ちになるような、人柄が善良で、純真な女の子だ。
彼女のような人にとって、心の痛みは本物で、生涯、語ったかもしれない。
出会った人のなかで、品やたたずまいが抜きんでていて、「ほんとうにいい人」だった学生さんへの初恋を。
(有名な学校の名前は忘れてしまったかもしれないけれど)


そういう、踊子の自然な失恋に比べて、主人公の失恋はひねくれている。
そういう意味では、彼の心の痛みのほうが鋭かったかもしれない。
主人公は自身の本性と対面し、自分を抉り出したのだから。


対して、『舞姫』は保身の小説だ。
基本的な自分は保持して、変えない、何も失っていない。
確かに涙を流したし、憂いを抱えて帰国するけれど、エリスの苦しみをわかってはいない。
柚木麻子の小説『けむたい後輩』のせりふをぶつけてやりたい。

年上のくせに葛藤のレベルが低くないですか?

涙や憂いの記述は「自分も良い人間である、仲間に入れてください」という欲望と表裏一体に思われる。
エリスとの悲劇に良心の痛みを覚えている、という表現がなければ、近代的な“真人間”ではないからだ。
近代的な自省がなければ、単純な『明治 好色一代男 欧羅巴漫遊編』のように読み捨てられただろう。




ところで、数年前、伊豆へ行ったら、『伊豆の踊子』の像はあるし、観光材料として地域活性に使われていた。
けれども、あれほど伊豆の土地柄を悪く描いた有名な小説はないのではないか?


主人公が冒頭、天城峠のトンネルを抜けて山道を下っていたころ、下の里では一人の子どもが暮らしていた。
その子どもは長じて、今の金沢大学へ進み、京都大学を卒業し、新聞記者を経て、詩人、小説家になった。
その洪作、こと井上靖の『しろばんば』には、この山国で暮らす幸福、滋味がたっぷりと物語られている。


一方、『伊豆の踊子』に描かれるこの土地は、貧しい旅芸人を差別する保守的な田舎で、土地の人々はお酒を飲んで騒いでいる。
そんな土地で蔑まれながら、流れ者としてやむをえず巡っている旅芸人の悲しみに寄り添ったのが、孤児の主人公だった。
ただ、善良なだけではないのである。


また、踊子の健康美、そこに芽生えかけている色っぽさ、性愛の深い魅力に気づいているのも主人公である。
主人公は踊子を誰かに取られないよう、ヒヤヒヤして付いて回っている。
だから、踊子を欲しくて、近づいた旅だったのである。
ところが、手に入れられそうになった時、自ら離れていく‥‥


数年前自分が訪れた時も、伊豆半島は南下につれ、思っていた以上に南国の風土へと変わっていったのが印象的だった。
あたたかく湿った空気と、常緑樹、東京の季節との違いによる花の咲き具合。
小説のように、異国的な感じ、開放的になる感じが濃くなっていった。


天城越えから始まった小説は最後、半島南端の下田の港町へ着く。
海の向こうの大島は目前だ。
主人公は、そこへ喜んで迎え入れられようとしている。
けれども、旅芸人たちにとってはくつろげる“ふるさと”の島は、主人公にとっては、禁断の愛の楽園だ。
そこへ行けば、キャリアも人格も崩壊してしまうだろう、恐ろしい愛の世界だ。
学校生活を中心に培ってきた教養、近代文学、小説への志も雲散してしまうだろう。


主人公自身をかたちづくっている全て(文明、文化)が失われてしまう、禁断の自由な愛の島を目前にして渡らずに、きびすを返し、“ふるさと”の東京へ帰還する。
だから、そういう展開では、『伊豆の踊子』も『舞姫』と同じく、自己保持のために、男が愛のある非日常から逃れて、安定した日常へと脱出・回帰していく小説である。


けれども、『伊豆の踊子』の結末における、主人公の心の痛みはまざまざと読者に伝わってくる。
己の為したことに対する痛み。
踊子に芽生えた明るい未来の可能性を摘み取っただけではない。
(この後もここに暮らす踊子は貧苦に見舞われ、やがて訪れる戦争の時代を中年女性として耐えるだろう)


主人公が大切な何かを手放したこと。
もう生涯では得ることができないようなものを。
二〇歳で少女の性愛の魅力に惹かれて追いかけ、生活を共にすることに成功した主人公は早熟だった。
と同時に、青春も終わったのだ。
青みはじめたばかりの少女の早春と、あっというまに過ぎゆく青年の春を描いているような中編小説だ。
青春のはじめとおわりとが二つの旋律となって対となったり、さまざまな変化を奏でる美しい楽曲のような作品だ。


船で一路、帰京した主人公は、何物かへのわくわくするような期待、未来への喜び、希望を失った身をもって、無味な若い時代が生きていったのではないか。
一方、『舞姫』の豊太郎は、大人の世界に突入しただろう。
太田家も“再興”し、政界と文学界でそれなりの地歩を固めただろう。
何を重視すべきなのか、何をどのように断捨離すればよいのか、ベルリンで学んだだろうから。
わたしはそんな豊太郎に詰問ばかり突きつけたくなる。

一方、伊豆を旅した「学生さん」にはひたすら、共感するのである。
共感するから、読み味わいたくなる。

舞姫 (集英社文庫)

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