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ホラー×モンスターの『けむたい後輩』柚木麻子

『けむたい後輩』は今一番好きな小説だ。
だから、『ダ・ヴィンチ』2015年12月号「柚木麻子特集」での作家のコメントは驚きだった。
わたしにとって、真美子はモンスターだし、栞子が幸福だとは思えないからだ。
栞子は何も生まず、消費し、だめ男に搾取されているだけではないのか。


『けむたい後輩』は文化系女子の青春小説だ。
結末で真美子はシナリオ・ライターとして活躍するが、文学少女の成功はそれしかないのだろう。
『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズ(三上延)みたいな古書店主なんて。
『ビブリア〜』の超絶文学少女の栞子さんが表だとすれば、『けむたい後輩』の栞子さんは努力はできず、ぐうたらで、裏の栞子さん。
理想と現実の、現実の栞子さん。
光と影なら、影の栞子さん。


かわいそうな栞子さん

「商業的に成功しようなんて思っていないよ。好きなことを飄々と自分のペースでしているだけだもの。(略)ダメ人間だよ」


「結婚なんて興味ないよ。(略)自由に生きていきたいの。好きなことをして食べていきたい(略)**と一緒に暮らし、ヨーロッパを旅行したり、映画や本に囲まれて過ごし、文化的な交流を持つ」


「そうだ、この女のようにここで暮らそう。(略)**のアパルトマンに転がり込む。(略)言葉なんて現地で暮らせばすぐに身に付く。マルシェで食材を買い、**のために料理を作る。**の勤める日本語学校に何かいい仕事があるかもしれない。(略)そうだ。この美しい街で暮らす。それこそが、十四歳の頃から思い描いていた、将来の姿ではないか。就職ガイダンスでも、
『まずは自己分析。小さい頃から夢見ていた自分を、紙に書き出すことから始めてください』
と、言っていたではないか。」

こういう夢を持たずにいられるだろうか。
こういう夢の輝きに惹かれずにいられるだろうか。
ものすごい甘やかさをまとう夢だ。
美味しいお菓子のような香りがする、強く引き寄せられる。

「就職ガイダンスに行った。黒いスーツ姿の学生たちがびっしりと並んでいる様を見て、具合が悪くなった。人と同じ格好なんて絶対にしたくない。」


「就職ガイダンスでも、
『まずは自己分析。小さい頃から夢見ていた自分を、紙に書き出すことから始めてください』
と、言っていたではないか。」


「確かにアートやカルチャーに強かったり、物作りの才能に恵まれた男に弱いかもしれない。話が合うのはもちろんだが、自分を引き上げてくれそうな気がするのだ。少なくとも、**のそばにいるだけで光の当たる場所に行ける気がする。また何か書ける気さえしてくる。」


「そんなすごい人と気軽に話せる仲だと思うと、ますます**が眩しく見える。」


「有名人に気軽に話が出来る彼に、ほれぼれしてしまう。
この人を絶対自分のものにしたい――。欲望が静かに沸騰し始めた。」


「本当はすぐにあの撮影現場に戻りたい。**の隣で、萩尾有春監督と話をしてみたい。」

共感するところがないだろうか。
身に覚えのある個所が。
文化的素養や個性の濃淡で、判断するところ。
教養のある人に、興味を引かれてしまうところ。
クリエイティブな人たちの人間関係の輪に入りたいところ(自分自身は血のにじむような努力などしていないのだが)。
文化の世界に加わりたい、という夢を捨てることはできるだろうか?



恋する栞子さんの悲劇、あるいは悲喜劇
ところが、この小説の栞子さんはさんざん断罪される。
男女観について、多くの人が持っているだろう人生観について。
自由な作家のような夢想をしながら、きわめて保守的な性生活、セクシャリティを。
しかし、ふつうの日本女性の本質であるようにも思われる。
芸術家っぽい人間であっても保守的な恋愛観、結婚観、ひいては人生観を持っていることは。

「ああ、やっぱり男の人っていいな、とつくづく思った。素直になれる。心が穏やかだ。負けているとか勝っているとか、意識しなくていい。(略 写真を撮る真似をする男に)冗談だとわかっていても嬉しい。自分が飛び切りの美女になった気がする。」


「傷も悔しさも、何もかもが溶けていく。
こんな風に、きちんと交際を申し込んでもらうのは、初めてだった。」


「『ひどーい! それセクハラだよ』
顔を赤らめ、怒ったフリをするものの、栞子はこんな風に男たちにからかわれるのが好きだった。むずむずするような気持ち良さを感じる。(略)
まだまだ誰か一人のものにはならず、男たちの間をひらひら舞うのもいい。ああ、なんて楽しいんだろう。主導権が自分の手の中にあるなんて、初めて経験だ。この時間が永遠に続きますように――。」

この甘やかさに陶酔せずにいられるだろうか。

「くらりとする雄の魅力に満ちている」
「光の中を進む彼は驚くほど男らしい。」

芸能人やスポーツ選手への熱狂とおなじで、ふつうの女性がセクシーさを無視できるだろうか。
ふつうの男性がもっている色気に。
こういった甘美な罠は、男性のみに待ち受けているものではない、と指摘されてもいるようだ。


ともあれ、栞子は惚れっぽい女性としての甘い夢見心地と、煮えたぎるような嫉妬をくりかえしくりかえし、さんざん味わわされる。
栞子の恋人は全員、後輩の友だちの美女に夢中になるからだ。
大学祭や、恋人を追いかけていったパリでの惨めな終幕。
恋する女性の滑稽で哀れな姿がくりかえし描かれる。
このある種のミソジニー、女性への冷徹な視線。
文化系女子と恋する女性への揶揄がすごい、とわたしは思う。
これでもかとどん底へ突き落され、最悪な面が露呈される。



恋愛もお仕事も、という夢
栞子へのエサはどんどん濃くなっていき、ついには憧れのパリで、恋情(性欲といってもいいようなもの、でも、だれもが持っている生への力といえるもの)と文化とのつながり、という極めて濃密で甘いものになっていく。

バイト先の書店は「業界関係者に有名だ。もともとはお役所だったという、昭和三年に建築された石造りの建物の一階に入っている。『こだわりの』とか『知る人ぞ知る』が、いかにも栞子好みの店だった。(略)
ついに、紅一点となった栞子がどれほどご満悦か、想像に難くない。おまけに、周りを固めるのは、サブカル男子。夜な夜な、安い飲み屋でキャメルをくゆらし、映画論を戦わせているのだろう。すべての男を引き寄せようと、思わせぶりに、かつ、おおらかに面倒見よく振る舞うのだろう。」


「誰にも負けないほど映画に詳しく毒舌で、アルコールも煙草も下ネタも大丈夫。それでいて母性的で女らしい、お嬢様大学出身の自分は、彼らにとってマドンナなのだろう。その証拠に週の半分以上は、バイト仲間との飲み会で埋まっている。二百八十円均一のチェーンの居酒屋で騒いだ後は、**のマンションで朝まで映画を語るのが定番コースになっていた。」


「『なあ、このバイトのメンバーで絶対映画作ろうよ』
と叫ぶ。どんな脚本にするか、ロケ地はどうするか、酒を飲みながら、皆で和気藹々と語り合う。栞子もいつか、制作に参加してみたいものだ、と思っていた。**の横でカチンコを叩く。夜な夜な酒を飲みながら**と脚本を練り直す。時には、**のマンションで皆で編集作業をし、眠くなったら雑魚寝をする。腹ペコの彼らのためにカレーや豚汁をたっぷり作る。キャンプみたいな日々は、どれほど楽しいだろう、と密かに心待ちにしていた。」

こんな内容の、人気ドラマ、映画、マンガはあるではないか。
一定数の人にとっては、夢の設定そのもので、くりかえし作品に描かれ、ヒロインはハッピーエンドであったではないか。

そして、現実世界でも、「自分だけは実現するのではないか」と望んだ人はいないだろうか。
アーティストや作家同士の夫婦もいるのだから。
あるいはパートナーが支援側のカップルも、珍しくないのだから。

まだある。
自分は創り手ではない、でも、文化的なものを愛しているから、補助の仕事をしたい。
一般の人よりは作品やその世界にずーっと詳しくて、愛している。
ーー加えて、人間関係をはじめ、ほかのことが不得手で、社会で働けないような人間にとって、これはどんなに輝かしい夢だろう。
文化的な仕事と、恋愛との結合は。(幸福なマリアージュ)


しかし、美里のせりふは、そんな夢に生きざるをえない人間、弱い人たちに痛く刺さる。

「映画なんて絶対に撮らないわよ。ううん、撮れないの。形にする根気もなければ、伝えたいこともないんでしょ。勝負に出ないのは、何がなんでも負けたくないからでしょ? (略)一生『学生』やってろよ。この負け犬!」

モラトリアム期間にふらりと陥ってしまうことの簡単さを知っていれば、よくわかるだろう、このリアリティは。



モンスター:真美子姫
一方、真美子はどんどん吸収する、正体のわからないブラックホールのような人物だ。
栞子が夢中になる男たちへの嫉妬から、全集を読破し、写真を始め、脚本を書いて投稿し、加速度的に成長して、作家として成功する。

わたしがふりかえると、真美子こそ本当の顔が見えず、得体がしれない。
はじめに共感できるところ、こんな女の子いたなあ、という可憐さを読者に見せ、応援したくなる親近感を抱かせておいて、エピローグで暗黒面をがばりと露出するモンスターへと変貌した感じ。
ホラー小説みたいな(からい)結末だ。


そして、真美子の栞子への献身的な愛は、いわゆる女子中高生などの同性の先輩への憧れを超えて、ほんとうの愛なのだ、と最後になって思わされる。
幼なじみの美里から真美子に対する思いも同じだ。
ただの女性の友情、友愛としては見過ごせない真剣な愛で、このふたりの同性愛ははっきりと書かれている。
先輩と共同生活して人生を送る、という夢のために真美子が本当に準備するところ。
真美子を超えるほどの魅力的な男性はいない、という美里の気づき。


最後に。
栞子の複数の相手はどころか、ヒロイン陣営の男性(真美子の交際相手、美里の求婚者、裕美子の婚約者)といい、登場する男性は誰一人、実質的な役には立っていない。
どの場面でも、女性キャラクターの成長に資しているのは女性だけである。

むろん、栞子の関係する男性陣にいたっては、害悪が強調されているのみ。
男性の良さがゼロ、全く無化されている小説である。
(『伊藤くん A to E』よりも極北の境地に思える)

このかぶき(傾き)、偏向した世界観、均衡の崩れている価値観ーーぴりりとした辛さが、たまらなくいい。
世にごまんと垂れ流されている、ごくふつうの小説(恋愛小説/お仕事小説)の水っぽい薄ら甘さよ。


時には目を覆いたくなったり、同情すら覚えるような栞子の性の面での失敗が、真美子や美里にはない理由。
甘い性愛の落とし穴で醜態を晒さずに、青春小説のヒロインらしく、颯爽と退場できた理由。
それは、ふたりが女性に恋していたから。
そう読める、甘く苦い(あまから)三角関係の小説だ。

けむたい後輩

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あまからカルテット (文春文庫)

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伊藤くん  A to E

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