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影のヒロイン「いと不調なる娘」が見せる貴族社会

 源氏物語の“正編”(光源氏が生きている「幻」までとする)において、取り上げるべき女性登場人物(キャラクター)といえば、藤壺の中宮、紫の上、六条の御息所、明石の君、朧月夜、空蝉、末摘花、夕顔、玉鬘、朝顔の姫君、女三の宮、葵の上、花散里、弘徽殿(こうきでん)の大后、桐壺の更衣など多くいるけれど、定員が許されるなら、この枠に加えたい人物がいる。
 たしかに、大臣の姫なのに、系図に載っていないことさえある(!)
 けれども、きらりと光る脇役・端役の枠、あるいは「21世紀枠」には絶対に取り上げたい人物である。


 ふいに登場してくるところは物語の姫君らしいし、顔かたちも魅力的なのだけれど、これは頭中将の娘なので当然であり、ふたりが似ているという皮肉な設定でもある。
 そもそも頭中将の母親は美しい皇女(桐壺帝の同腹妹)であるし、頭中将自身も見目麗しく、若い時から望みは何で叶う権力をもち、色好みだった。


 この「あふみのきみ(近江の君)」は、常に「ほほえみ」される、ほほえまれる役である。
 といっても、この「ほほえみ」は嘲笑なのだが。
 主役で、いい男のはずの源氏からも嘲笑されるという、この点からも重要人物だ。

 底清く澄まぬ水に宿る月は、曇りなきやうのいかでかあらむ、と、ほほえみて、のたまふ。


 朝臣や、さやうの落ち葉をだに拾へ。
 人わろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにて慰めむに、なでうことかあらむ、と、弄じたまふやうなり。

 当人の近江の君が聞いたら、源氏のせりふを何と思うだろう。
 彼女の話が貴族の男たちのあいだで出るときは、きまって笑い“物”なのだ。
 嫌みなセリフのなかで、政界のパワーバランスを表す駒みたいに扱われている。


 「同じかざしにて慰めむに、なでうことかあらむ」なんて、現代の大臣だったら、セクハラとして進退も問われる暴言だ。
 この「常夏」巻の宴には、近江君の兄弟(弁の少将、藤侍従)もいるのに、彼女を弁護しない。


 近江の君は源氏やその子孫と関係を持たないけれど、源氏物語の世界に魅力を灯している重要な端役である。
 まず、彼女が出てくる場面は“読みにくい”。
 なぜなら、非常識で野暮きわまりない彼女の言動を、笑う側に立つこともできるし、逆に、近江の君(と友だちの五節の君)の陣営に入って、どうしても弁護をまくしたてたい気持ちに駆られるからだ。
 彼女の登場する“近江の君六帖” (常夏・篝火・野分・行幸・真木柱・若菜下)は、ヒロインの姫君に同化したり陶酔できない、興味深い読み物である。


 源氏物語中、このあたりの主役は有名な玉鬘である。
 彼女は近江の君とおなじ頭中将の娘だが、才色兼備で、山吹色(真っ黄色)や橙色(オレンジ)の豪華な衣装が映える、光り輝くような、いわば表のヒロイン。
 けれども、“玉鬘十帖”には影のヒロインも並走していて、それが近江の君である。
 玉鬘は深窓の姫君らしく源氏に抵抗しないが、近江の君は夢中になると大声を上げ、自分の考えをはきはきと主張し、自由に動き回る。
 対照的な二人なのである。


 もうこのあたりで(「常夏」は54帖のうち26帖。源氏は栄華を極める三〇代半ばなのに)、源氏物語は恋愛物語(小説)、華麗な王朝絵巻ではない。
 近江の君が出てくる場面は、内大臣家(頭中将ファミリー)を舞台に、高位貴族の家庭、裏側をおもしろく描き出す一コマである。
 そんなものを含んだ、社会小説、全体小説へと源氏物語は太っている。


 これらの場面が貴族の皮肉なスケッチだというのは、照明があたるのが、近江君の周囲や常識だあるからだ。
 近江の君はさながら、動き回る懐中電灯(ライト)で、彼女によって、薄暗くして上品を装っていた貴族の面々の人間性が剥き出しにされる。
 たとえば、息子と一緒になって、自分の娘を馬鹿にし(「いと不調なる娘」 野分)、宮廷の笑い物・「をこのもの」として処理してしまおうとする、父親失格の内大臣。
 ところが、それを諭す姫がいる。

「などか、いと、ことのほかには侍らむ。
中将などの、いと二なく思ひ侍りけんかね言(こと)に足らずと言ふばかりにこそは侍らめ。
かく、のたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、片へは、かかやしきにや。」
と、いとはづかしげにて聞こえさせ給ふ。


いと貴(あて)に澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ覚えて、残り多かりげにほほえみたる給へるぞ、人に異なりけると見奉り給ふ。

 この弘徽殿の女御は源氏の息子、冷泉帝の夫人で、少女のころに入内し、冷泉帝にとっては大好きな遊び相手だった。
 この場面では、良識ある意見を述べ、朝の梅の花のようと称えられているので、すてきな女性が想像される。
 ところが、この後、近江の君からの手紙(歌つき)にはまともに取り合わず、侍女の嫌がらせの代作に任せる。

 女御周辺にはクラスのいじわるグループのような陰湿な雰囲気があって、女御も一転して妹を切り捨て、いじめる側にまわる。
 身分の体面を大切にして、あたたかみに欠ける貴族のあり方が見える場面だ。
 (ヒロインに好感を抱かせておき、失望させるどんでん返しは、宮家の影の部分を暴き出しているような「末摘花」と同じだ。
 紫式部の皮肉な眼が感じられる)



 紫式部の筆はさらに描き出す。
 たとえば、近江の君がこの姉女御や兄弟といる場面(「行幸」)
 これが現代だったら、血のつながらない家族の、あたたかい団欒の場面になってほしいところだが、この一幕の冷たさはすごすぎる。

 聞けば、かれも劣り腹なり。

 玉鬘と自分を比較し、まっとうなことを言う近江の君を、姉女御は無視。
 兄の柏木は話をはぐらかす。

 さても誰(た)が言ひしことをかく、ゆくりなく、うち出で給ふぞ。
 物言ひ只ならぬ女房などこそ耳をとどむれ。

 近江の君が次のように怒り出すのはもっともである。

 あなかま。
 みな聞きて侍り。

 それでも兄弟はきちんと取り合わず、あろうことか、笑うのだ。

 皆、ほほえみて、
「尚侍(ないしのかみ)空かば、なにがしこそ望まんと思ふを、非道にも思しかけけるかな」
などのたまふに、腹立ちて、
「めでたき御中に、数ならぬ人は交じるまじかりけり。
中将の君ぞ、つらくおはする。
さかしらに迎へたまひて、軽め、嘲けり給ふ。
少々の人は、え立てるまじき殿の内かな。
あなかしこ、あなかしこ。」
と、尻ざまに居ざり退きて、見おこせたまふ。
にくげもなけれど、いと腹あしげに目尻(まじり)引き上げたり。

 近江の君はここでもまっとうなことを言っている。
実際、中将(柏木)が彼女を内大臣家へ連れてきたことが事の発端なのである。
 ところが、もう十分、近江の君の気持ちを傷つけているのに、兄弟はさらに意地悪を言うのだ。

 少将は
「かかる方にても、類(たぐひ)なき御ありさまを、をろかには世も思(おぼ)さじ。
 御心しづめたまふこそ。
 堅き巌(いわほ)も淡雪(あはゆき)になしたまふつべき御けしきなれば、いとよう思ひ叶ひたまふ時もありなむ。」
 とほほえみて言ひ居給へり。
 中将も、
 「天の岩戸さし籠もり給ひなんや。目安く。」
とて立ちぬれば、ほろほろと泣きて
 「この君たちさへ皆すげなくしたまふに‥‥(略)」

 家族によるひどい扱いを抗議するも、さらに意地悪をいわれ、怒って、へやの隅へ移り、思わず「ほろほろと泣」いてしまう近江の君。
 泣くのも当たり前である。
 かわいそすぎる。
 これが現代で血縁がなかったら、教室のいじめそのものだ。


 血縁や人の情なんて、貴族には関係ないのだ、と思わされる場面である。
 権勢・富との結びつきが可能な人物にだけ、家族、きょうだいである価値を見出し、徒党を組んで、宮廷での勢力維持に腐心する。
 「冷たい人たちだ」という近江の君の悲痛な声は、真実を突いている。


 心を開く少女に対して、思いやりをもって向き合うことなく、「見たくないから引っ込んでろ」と捨て去るきょうだい達。
 ファミリーの顔ぶれが揃っているだけに、貴族の家族の集まりの冷たさ、酷薄さが伝わってくる、恐ろしいような場面だ。


 娘なら、「さがなもの」ではない出世に役立つ娘、「不調」ではない正調の娘だけが、人として扱われるのだ。
 実際、玉鬘を源氏の娘だと思って、柏木が実妹に激しく恋するという、滑稽な貴族狂騒曲が描かれている(「篝火」)


 近江の君をめぐる話は、源氏の敵役、内大臣家(とくに右大臣四の君との子ども)の内幕物となっているが、一夫多妻の当時、異腹の娘、息子を抱える“子だくさん”の貴族家庭は珍しくなかっただろう。
 身分高い家には天皇夫人、将来の国母、上達部もいれば、“貴族失格”の持て余される“困ったちゃん”もいて、こういった悲喜劇はけっこうあったかもしれない。


 近江の君の場面は必ずと言っていいほど「ほほえみ」に包まれていたり、笑いが喚起されるように叙述されている。
 明るい気持ちで大笑いする読者もいるだろうが、この「ほほえみ」は黒い笑いに感じられる。
 そして、貴族社会、および、どの時代にもある上流社会に対する黒い笑いとも化す。

 先の、近江君の手紙のくだりにも、貴族文化の欠点が見て取れるように思う。
 (美を最上級に位置づけ称揚した作者の考えと違うのはわかっているが、これはもう読者の特権としたい)
 父おとどから、姉女御のもとに「見習ひ」に行くよう言われて喜んだ近江の君は、姉女御から愛されたくて歌をおくる。

 草若み 常陸の浦の いかが崎 いかでかあひ見ん 田子の浦波

 たしかに地名やら歌語に満ちて意味をなさず、野暮のきわみ、非常識だ。
 けれども、「お会いしたい」という真情は伝わる。
 そもそも、貴族文化と無縁の人々にとって、上つ方が麗々しく取り交わしている、教養に裏打ちされ、上品で朧化表現の多い手紙や、修辞技法の凝らされた歌は、この程度のものにも見えただろう。
 現代の人や学生、子どもが百人一首や古今和歌集やらの和歌に感ずるものと近いのではないか。
 もっと、シンプルでいいのに。
 無駄に修飾過多な社交辞令歌。
 (平安以降につくられ、当時は名歌とされた和歌で、今も口ずさまれるものはどれくらいだろう。
 万葉集歌(田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける  山部赤人)や、江戸後期の口語の和歌(楽しみはまれに魚煮て子ら皆がうましうまいし言ひて食ふ時  橘暁覧)、あるいは、おなじく定型詩の俳句(菜の花や月は東に日は西に  与謝蕪村)などのほうが、明快ゆえに共感されるだろう)
 近江の君のこのくだりには、貴族の和文や和歌の複雑性、精緻な高みと表裏一体のひ弱さ、脆弱性が思われる。
 


 近江の君に対する高級侍女たちの意地悪さは、「枕草子」の挿話(ふと見かけた中年女房に対する、定子中宮からを装った嫌がらせ)と相まって、貴族階級の女性たちの黒さ、黒い面を露出させている。
 (ふだんは仰いで世話している女主人の血縁者を愚弄する黒い喜びでもあるのか)
 対して、近江の君とその友だち、五節の君は、たしかに下品で頭の悪いところはあるけれど、一口に「馬鹿(おこ)」として片づけられない。
 ふたりの明るさ、庶民的な力強さ。
 ふたりが早口でおしゃべりしたり、手をもんで勝利を祈り、夢中でゲーム(双六)に興じている様子は、学校の休み時間やお店の女子中高生のようだ(常夏の巻)


 考え方も現代ドラマだったら誉められるだろう。
 これまで娘を捜してもいなかった父親のことを良い人間だと信じ、愛している。
 親きょうだいは善いものだと信じている。
彼女は、通俗的な家族愛や、保守的な道徳を信じている。


 一方で、進んで誠意や努力を見せなければ受け入れられないと、現実を知っている。
 だから、とんでもなく身分の高い家族に受け入れてもらおうと、初めて歌も作って手紙を出すし、トイレ(便器)清掃を自ら申し出る(常夏)
 人の嫌がる雑用も率先して行う。
 なぜなら、無視する姉は良い人物であり、努力を認めてくれると信じているからだ。
 「尚侍」という高位の職の夢に向かって、がんばっている近江の君(行幸)
 性善説で努力家。
 こんな美少女が庶民の家や、農家、商家などにやって来たら、どんなに周りから愛され、信頼されるだろう。
 ゆくゆくは、一家の主婦などの中心的な立場に就くだろう。


 近江の君は姉女御(天皇夫人)のもとへ行く準備として、真っ赤な紅をたっぷりと塗って化粧し、甘ったるい香りを衣装に焚きしめ、髪の毛を梳かす。
 色気づいた女の子がいかにもなメイクをして、いつも髪の毛をいじっている感じだ。
 ドラッグストアで安物のメイクを手に入れ、濃い顔をつくり、ヘアスタイルに凝り、香水つけて、街へ繰り出す若者のイメージと重なる(以前なら、渋谷?)
 チープで派手、ケバイ。
 ――けれども、そういう社会で生い育てば、当たり前だ。


 近江の君は、身分の高い人にも臆さない。
 大きな声で、はきはきとしゃべる。
 早口。
 遊びに夢中になる。
 女友だちがいる(常夏)
 庶民社会なら、ゆくゆくは都で物を売るのが上手そうな女の子だ。


 上流家庭に入った近江の君からすれば、「尚侍」を夢見て、がんばるのも当たり前。
 庶民の家や、商家などでは地位・役職を目指して、自力で居場所を得るのだから。
 現代のテレビドラマや“お仕事小説”なら、王道の展開だ。
 カルチャーの異なる職場でのサクセスストーリーだ。


 玉鬘が現れ、尚侍になったという展開が、夢から醒めたような驚きなのも当たり前。
 おなじ父親の娘なのに、コネでえこひいきされ、全く待遇が違うのだから。
 からかうことしかしない親兄弟を、「少々の人はえ立てるまじき殿のうちかな。あなかしこ、あなかしこ(ここは恐ろしいところだ)」と批判する場面は、これが現代ドラマで、相手が組織の人間に対してなら、娯楽作品によくありそうな、胸のすく爽快なシーンになるだろう。

 “近江の君六帖”のうち5帖は、「藤袴」一帖をはさみ、「常夏」「篝火」「野分」「行幸」「真木柱」と連続していて、いずれの巻も、“近江の君ニュース”で終わる。
 さながら、テレビ番組の終わりの数分に、彼女の近況を描くコント、喜劇コーナーが定番化したように、近江の君のふるまいが催す笑いによって、複雑な愛を描く華麗な王朝絵巻は毎回、締めくくられる。


 連続登場最終回(真木柱)は、内大臣家に引き取られて二年後で、近江の君は一目惚れをする。
 その相手、夕霧(源氏の息子)は、女房たちが「なほ人よりも。」と夢中になるように、若い世代ではピカイチの貴族だ。
 評判を聞いた近江の君は人々を押しのけ、簾がふくらむくらい顔を押し当てて、凝視(ガンミ)。
 「これぞな。(これね!)」と大声で騒ぐ。
 さらには、はっきりとした声で歌を詠みかける。

 沖つ舟 寄る辺なみ路に漂はば 棹さし寄らむ 泊まり教へよ


 棚無し小舟(をぶね)、漕ぎかへり同じ人をや。あな、わるや。

 もう地名を羅列した意味を成さない歌ではなく、古歌までふまえているが、あからさまな求愛である。
 それを、女性側から衆人環視の場で昂然と行った。
 たしかに下品、これが“みやび”とは言えない。
 けれども、現代の女子中高生っぽい。
 学校などの女子社会にいれば、色気づく。
 すてきな男子、芸能人、スポーツ選手にキャーキャー歓声をあげ、身分違いのスターだろうと、機会があれば、遠慮せずにずんずん接近する。
 街中を行く、イイ男に自分から声を掛ける。
 庶民の世界では、積極的に動かなければ、愛情を獲得できないこともある。



 二年「見習ひ」したものの、貴族性は身に付かなかった、地が出たというオチ・最終回には、道化役・“笑われ役”としての定着が見える。
 ただ、庶民の娘そのもので、上流社会の批判の原点になりそうな近江の君が、かえって、ミーハーな普通の女の子らしさによって、流され、変わってしまうところも見逃せない。
 友だち(侍女?)で、ともに庶民世界から来た五節の君が、父娘のやりとりに接し、「よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられ給はまし。(もっと普通の家の、大切にしてくれる親のほうがよかったのに)」とまっとうな忠告をすると、「今は一つ口に言(こと)はな交ぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ。(身分が違うんだから一緒にしないで)」と怒る。
 この後、五節の君は出てこないが、これで絶交してしまったのならもったいない。


(源氏物語には女友だちは出てこない。
 紫の上と明石の君は後にすぐれた点を認め合うし、紫の上は花散里、明石の君と歌を交わすが、これらは源氏家を経営する側の同志愛、同胞愛という感じがする。
また、後者には死の予感と、これまでの幸福からくる紫の上の安心感もある。
 “続編”では宇治の大君と中君の姉妹が仲よしだけれど、大君は妹を心配して死んでしまう。)


 近江の君が「尚侍」を望む設定からも、貴族社会にはや染まっていることがわかるし、近江の君の最後の登場場面(「若菜下」 貴族社会に入って約10年後)では、「明石の尼君、明石の尼君」と唱えながら双六を打っている。
 自分の才覚で働く「尚侍」の夢を破られた今、つぎは子を産み、その子や孫によって宮中で栄華を極めることを夢見ているのか。
 この後、近江の君はどうなっただろう。


 ところで、源氏物語は一夫多妻、複数恋愛だと思っていると、異様で変態的で遠くに思われる世界だが、光源氏にくっついて物語に入っていくと、描かれている貴族社会の理想は、今にも通じる普遍的なものに思われる。
 優美、思いやり、学識、音楽や美に価値を認めること。
 けれども、“近江の君六帖”を読むと、自然と近江の君の側に立ち、弁護している自分がいる。
 抗弁の強硬さと同じくらい、「上流社会は嫌なところなのだなあ」と気づかされる。


 現代でも、閉鎖的で権力・資産をもっている組織・業界・階層はあるだろう。
 非常識で野暮、頭も悪い、“空気の読めない女”のスケッチが逆照射するものが。


 源氏物語の庶民の登場人物や、「枕草子」をふりかえると、現実には近江の君のような「下衆」は紫式部のまわりにたくさんいただろう。
 紫式部ははじめ、見苦しい現実ではなく、貴族社会の理想、美を紡ぎ出していた。
 美しく、澄んだもの、彩りのあるもの、品のあるものだけを。
 けれども、源氏物語の後半になると、俗っぽいもの、現実的な醜態が入りこんでくる。

 近江の君のような端役の投入だけでなく、物語の展開もそうだし、主要人物の運命も変わる。
 落葉の宮に対する夕霧のストーカーぶり、精神的暴力。
 柏木(30代)と女三の宮の、美しくもない愚かな不倫。
 藤壺と光君の、崇高感すらただよう禁断の愛の関係とはちがい、低次元の結びつきだ。
 続編“宇治十帖”は低俗性、人間の質の劣化がもっと顕著で、物語のテーマと真っ向から絡み合っている。


 近江の君が「尚侍」の夢破れたり、夕霧から相手にもされなかったことが不幸だったとは言えない。
 玉鬘のその後は象徴的だ。
 魅力のない夫(しかし帝の伯父、太政大臣という高位)、頼りにならない息子たち、娘との不和、下降する家運。
 美しく明るくて頭のよい玉鬘にして、こんな人生か。
 学生時代に「竹河」を読んだとき、高学歴のセレブ、専業主婦たちが立派な邸宅の中で憂鬱にしている、灰色の現代、というイメージをもった。
 源氏物語の輪郭がわかったような気がした。


 大奥的な源氏家はむろん、雲居雁、落葉宮を見れば、夕霧の家庭を羨む読者も多くないだろう。
 玉鬘や落葉の宮は、それまでだったら物語一巻の幸福なヒロインになりそうな女性たちだ。
 彼女らの幸せが成立し得ない時点で、貴族社会は終わっている。
 そう、終わコンなのだ。
 理想の愛の関係、女の理想の生き方を追究する作家にとって、取り上げるべき題材(コンテンツ)としては終わったのだ。


 実際、宇治十帖の “貴公子”薫大将、匂宮はどうしようもない男たちだ。
 都会のふつうの若者たちの不毛な恋愛。
 いや、ほんとうに恋愛なのか、何かへの執着の代替・代理行為にも思える。
 そんな男二人に迷惑かけられた浮舟は、東国育ち、上流貴族の教養も賢さも持たない、ふつうの女。
 最後の“表”のヒロイン浮舟は「死」を望み、上流社会から出ていき、戻らない‥‥

 作者・読者をとりまく“現代”を否定する結末であり、源氏物語は最後のほうで、現代的な純文学に変貌している。

源氏物語索引 (新日本古典文学大系)

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