本州最南端、潮の岬(しおのみさき)から戻ると、函館の航空写真みたいな、左右を海に挟まれた串本の町が現れた。
町は、海面と同じくらいの、平らな半島に広がっていた。
地方銀行、個人商店、民家の建てこんだ狭い道を進むと、錦江山無量寺(臨済宗)・「串本応挙芦雪館」が現れた。(和歌山県東牟婁郡串本町串本)
写真で見慣れた濃い茶色の山門と、南国を感じさせる棕櫚(シュロ)の木(蘇鉄(ソテツ)?)。
その前が駐車場のようだが、車は一台もなかった。
(帰りは車幅ギリギリの道を、はらはらしながら進む羽目に陥った!
あれほど、「万事休す!」と絶体絶命の気持ちになったことは久しく無い。
漁港の町だからなのか、真横に迫る民家の塀、まっすぐではない隘路――
取材も多いこのお寺には、別のルートや駐車場があるのだろうか)
山門の外に建つコンクリート造り、収蔵庫のような建物は、扉がしっかりと合わさっていた。
閉館か――
伊豆半島一周最終日のMOA美術館のことが思われた。
結局、テレビ(「日曜美術館」「アートシーン」NHK教育テレビなど)の印象とは違って、たった一組の客にもわざわざコンクリートの厚い扉を開けてくださるという、驚きの仕組みだった。
自分が重要人物になったように感じる、ふしぎな体験だった。
係の方が付いて、訊くといろいろと教えてくださるのもありがたかった。
コンクリ扉の先には、ガラス張りの風防空間。
その奥に、長沢芦雪(ろせつ)直筆の襖絵たち。
ふつう、展覧会はガラス越しだが、なんと、ここにはガラスが無い。
この現代に、直に見ることができるのだ。
これこそ、天恵のごとき至福ではないか。
一般的にお寺では龍図が尊ばれるけれど、本寺ではやっぱり「虎図」がいい。
こちらを睨みつけ、強い印象を残す双眸。
ぶっとい大きな前足。
臨戦態勢で着地したばかりの、伸びやかな巨躯。
(襖のどの面、たとえばお腹でさえも、生き生きとしていた!)
護法・守護の聖獣としての力強さ、畏怖感はある。
けれども、強く引きつけられ、後になっても自然と思い出されるのは、愛嬌、魅力にあふれているから。
黒いアイラインをしっかりと決め、目尻がきりっと吊り上がり、らんらんと燃える二つの眼(まなこ)。
人の頭が入ってしまうほどの大きな口元なのに、こぼれんばかりの可愛いらしさ。
口を引き結んでいるのに、撫でて可愛がりたくなる、もふもふした白い口元。
――発散される生の、正しく快いエネルギーと、愛らしさに満ちた傑作だ。
最初に入れていただいた本館の複製は、「龍虎図」がアメリカで公開されたときに日本政府が用意したものだというが、ひどかった。
浅薄で平板、濃淡に味わいがなく、全くおなじデザイン・図案なのに、ぎゅうっと引きつけられない。
なぜ、コピーがだめで、本物が大切なのか?
実物を前にして初めて、「筆の勢い、墨の濃さ薄さ、筆致が絵を作っているんだな」と痛感させられた。
――実は、無量寺に行って最もよかったのは、方丈(本堂)
広い方丈(仏間とそれを囲む五室)には、復元された襖絵(デジタル再製画/大日本印刷DNP)がはめこまれている。
わたしには、本物と変わらないように見えた。
“本物”を当時とおなじ様子で見ることのできる素晴らしさ。
これが、実によかった。
本(狩野博幸監修『別冊太陽 長沢芦雪』)やテレビ(テレビ東京「美の巨人たち」)でも説明されていたけれど、自分はこの方丈に入って初めて、配置のすばらしさ、妙味がわかった。
各室と画題との関係。
「表裏」の活用により滋味ある表現が可能で、また、開閉、出入りにより、見えるものが変化するという、襖の絶妙さ。
芦雪は日本建築をうまく活用し、自分の力量を広げた、もとい、部屋や襖で楽しく遊んだように思われる。
〈表/裏 龍図/子・仔犬図←→虎図/猫図〉
有名な「龍虎図」は、格式の高い部屋で“向かい合って見合っていた”
仏間(内陣)の前室、方丈の中心で。
この龍と虎とが、阿吽の守護獣であることが自ずとわかる配置だった。
そして、龍図の裏面は――無邪気に室内外で過ごす子ども達と仔犬。
虎図の裏面は――よく知られているように、猫たち。
この対比もすごい。
〈“師弟勝負①” 対角線上の聖と俗 上間一之間←→下間二之間〉
上間一之間――円山応挙「波上群仙人図襖」
将軍徳川家茂も泊まったという、格式の高い部屋にふさわしく、ぐるりと二面を囲むのは芦雪の師が京で用意した絵。
長い年月修行し、徳を積んだ老仙人たちが波頭を踏み、童子を伴い、牛に乗って、この場を訪問中、という吉祥、実におめでたい画題。
筆致は繊細で、全体に上品、典雅。
下間二之間――芦雪「唐子琴棋書画図襖」
上間一之間と対角線上にある(最も遠い)部屋の襖がとてもかわいく、惹きつけられた。
信徒になって、座り込みたい。
はじめは、遊んだり、いたずらしたり、怠けたりしている子どもたちに、「立派なお寺にこんな俗っぽく、笑いを誘うおもしろい寺子屋の絵があって、いいのかな」とふしぎに思った。
しかし、方丈を歩き、この部屋が最上級の部屋(上間一之間)の対角線上にあることがわかって、納得した。
「上間一之間」の超現実的で雅び、瑞祥の完成作品に対し、ユーモアあふれる日常のスケッチ風。
平伏し、静かに拝みたくなる神々しさに対し、ほほえましく、笑みの誘われる親しみやすさ。
修行を経た白髪の仙人たちに対し、寺子屋で学び始めた玉石混淆、もとい個性あふれる子どもたち。
――きっと芦雪は、円山(まるやま)応挙にものすごい対抗心を燃やし、筆を振るったのではないだろうか。
「師を越える!」という強い野望でいっぱいの時もあったろうか。
しかし、応挙の絵があったから生まれた絵だ。
〈寺子屋の長机〉
訪れた日は横幅のある掛け軸「涅槃図」が飾られていたけれど、かえって、当時の部屋の使われ方が実感された。
子ども達が手習いをしている長い机は、方丈の床に実際にあるような高さで描かれていた。
この、騙し絵的、イリュージョンのおもしろい趣向。
江戸時代の人は、この部屋に正座などで座っただろうから、ちょうど目の高さに子どもや犬たちが、のびのびと各々の才能や個性を発揮している様子をじっくりと楽しめたことだろう。
〈自画像か?〉
子どもの群像で興味を惹かれたのは、やっぱり、絵を描いている男児。
子どもながら、確かな手つき、作品(花枝と黒いカラスの絵――北隣りの鶴図と照応しているか?)に向かうキラキラとした瞳。
「芦雪の幼少時の自画像かな」と思ってしまう。
青年画家がこちらを見据える、ボッティチェッリの絵のように。
〈師弟の絵合わせ――応挙と芦雪〉
多くの人と同じだと思うが、著名な巨匠による教養と品格発する「群仙図」よりも、このいとけなく、どうしようもない子ども達と、一瞬の如き幼き時代を過ごす犬たちの絵に、わたしの軍配は上げたい。
知よりも、遊び。
礼よりも、純真、無邪気に。
遊びと自由の、輝くような価値、本質を表現している世界に。
とりわけ格別なのは、それぞれの個性を見せて、思いのままに過ごしている、愛らしい仔犬たち。
本でも、無量寺でも、いいと思った。
〈愛らしきものは去りゆく〉
ただ、無量寺にいて、最終的に強く印象づけられたのは、一番端(外に近い、向かって最左端)の童子。
その襖には、追いかけっこをする子ども達と、追う一匹の仔犬が繊細、ささやかな筆致で描かれている。
テレビで扱われていたからか、一番奥、こちらに体を向けている童子が、画人の亡児と重なり、追慕、追善供養の絵に思ってしまう。
「七歳までは神のうち」と捉えられていたらしい江戸時代、この部屋に座った人々にも、子ども、身近な子どもを喪った人が多くいただろう。
日本画特有の、地平線のない空白のなかに描かれているからか、この童子はこの後、風に乗り、天上へと去っていく直前のように見える。
童子はほほえんでいるのに、なぜか哀しく感じられる。
――そう、お寺に来臨した仙人は永遠、不老不死で喜ばしい理想像だ。
けれども、子どもや仔犬は、一瞬ともいえるごく短い間、自由な時を過ごし、去っていく。
過ぎ去っていく。
いとけなくも愛すべき、かなしい(哀しい/愛しい)存在だ。
誰もが身にしみて知っている現実の感慨ではないだろうか。
〈“師弟勝負②” 聖なる左右対称 上間一之間←→下間一之間〉
下間一之間――芦雪「群鶴図襖」
仙人降臨の上間一之間と、仏間をはさんで左右対称の部屋である理由がわかった。
本で見ると単純な絵だし、実際に見ると、遠くから大空を飛来、降りたった鶴があまりに巨大、目つきは恐竜か何かのようで、タジタジとなる怖さ。
けれども、上品な仙人図との左右対称性から工夫された、おめでたい絵なのだろう。
畏怖感は、近づきがたさ、厳かさ、神聖性を帯びる。
――仙人を超越したヒトを描くことは不可能だが、非人間の鳥でなら拮抗できる。
均衡(釣り合い、等質性)と同時に、著名な師の作との差異を強調し、越えようとした意図をわたしは感じる。
〈現世の左右対称 “自然/人事” 芦雪――上間二之間「猫図」←→下間二之間「仔犬図」〉
室中之間(龍虎図)をはさんで、龍側の仔犬はころころ、ふっくらとしている。
それに対し、虎側の猫たちは尖って鋭利な感じ。
また、仔犬は仲間と駆け回ったり、一匹でぽおーっとして、ゆらゆらと自由である。
それに対し、猫たちはじーっと微動だにせず静止して、目を見据えたり、ゆったりと横たわったりして、王者みたいに余裕があり、高貴な感じ。
たいへん対照的だ。
岩上で寝る猫は、日光東照宮、奥の院入り口に浮き彫りされている、左甚五郎「眠り猫」とおなじく天下泰平を寿いでいるのか?
最も目を引くのは、水中の魚を捕ろうとしている横向きの仔猫(三匹のうち、格段に小柄)
お寺なのに、殺生の絵でいいのだろうか。
もしかしたら、「目を凝らし、忍耐して、別次元(水中)の仏教の真理を得るという意なのかな」と勝手に思った。
ただ、小猫(裏面はあの巨きな可愛い虎!)についてまず言えるのは、やっぱり‥‥「かわいい!」ということ。
裏面の“極大虎”と比べ、“極小猫”の体勢、眼差しから発散されている確信。
「絶対、自分、あの魚、獲れる!」という自信満々な様子が愛らしく、笑みがこぼれる。
上間二之間――芦雪「鶏・猫図襖」
北隣りの上間一之間は、季節・時を超越した神仙界、幽玄の海面、厳かな波濤が描かれている。
それに対し、こちらは現実の陸地と優しい感じの水辺。
なぜ、群仙の裏面が鶏のつがいなのか?
朝を告げるから、仏道修行でも大切なのか?
対角線上の「鶴図」と関係があり、空を渡る鶴に対し、地で暮らす鶏ということか?
〈花の筆致に驚愕〉
本では、生き物の猫や鶏に目がいくけれど、実際に方丈でわたしが長く目を奪われ、新鮮な感動を与えられたのは、予想外のものだった。
無量寺で見ると、オンドリ・メンドリ夫婦はちょっと印象が薄いし、岩上の猫二匹は、今風の家猫の顔立ちではないため、手放しで「可愛い」とは絶賛できない。
現代で、寺院の襖、天井画に好んで採られるのは、桜ではないだろうか。
桜の古木、巨樹を描けば、依頼された画家は巨匠という気がする。
江戸時代は、牡丹の花で荘厳されていたろうか(日光東照宮などの神社か?)
無量寺でも春爛漫の情景が選ばれているが、そこで枝を張り、花を咲かせているのはなんと、バラ(薔薇)だ。
枝は力強く、大きく遠くまで伸び、しなって、野生の、自然に生い育ったバラ、野ばらのように思われる。
サクラもバラ科ではあるけれど、本図の題材の意味するところは何だろう?
方丈をめぐっている間、ずっと強く心を引きつけられていたのは、このばらだった。
ばらは、中央(襖が直角に付き合わされる角。仏間にもっとも近いところ)に描かれている。
細い幹なのに、とても大きく感じる。
繊細で清らかでいて、華やかさのある一木の花。
風にそよぐ花の美しさも想像される。
かぐわしい香りも運ばれてくるようだ。
きっと、香華。
仏さまへの永遠の献花、供花なのだと思う。
うららかな春の野辺を演出するとともに、何か最高度に純粋で、聖なるもの
――大津波にめげず、お寺を再建した人々の心、祈りだろうか――
を象徴しているような花々だ。
〈方丈が創り出す空間〉
無量寺襖絵群を実際に見ても、芦雪の絵として筆頭に挙げるべきは、やはり「虎図」である。
のびのびとして力に満ち、愛らしくて個性的。
ただ、無量寺でわかったのは、芦雪はさまざまな工夫を凝らしているということ。
たとえば、ヨーロッパ、現代のアートとは違って、単品ではなく、お寺全体を多面の「襖絵」によって荘厳する方法。
おなじ宗教絵画でも、ヨーロッパの一枚の平面である祭壇画(パネル)とは違う。
教会の壁画、天井画、宮殿のタペストリーなら近いか。
けれども、襖は壁(障壁)でありながら、表裏を楽しむことができ、開閉可能で、人が襖を使うことにより、見えるものが変わるという、奥深さをもつ家具・調度品だ。
日本建築のおかげで、芦雪は一つの巨(おお)きくて複層的、魅力深い世界を創造できたのだと思う。
このお寺には、才能あふれる画家が作った当時の様子がわかる希少性がある。
たしかに、プライスコレクションの黒牛と白い仔犬、白象とカラスという黒白、極大極小の屏風(六曲一双)は際めて明快で意表を衝かれ、おもしろかった。
けれども、京都の大寺院とは違う、鄙びた感じのお寺に今もある、この襖絵の織りなす多面の空間の方が、生き生きと見えた。
芦雪は和歌山のいくつかのお寺に大作を描いたが、今はすべて県の博物館に寄託されているという。
欧米化した現代に(例えば、和室がない民家、博物館という制度など)、当時のように絵を味わうことのできる無量寺は、奇跡のような存在だ。
(所蔵に努めてきた方々を尊敬する)
生まれて初めて入った本物の教会(ミラノ大聖堂)や、フィレンツェのウフィツィ美術館、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(カラヴァッジョの「聖マタイの召命」)、スペイン・マドリードのプラド美術館での感動が思い出された。
あれらが立派な板などに極彩色で塗り込められ、額装されたり、堅牢な石造りの教会上方に掲げられた巨匠の大作群だとしたら、こちらは、木の柱中心の建物の中に、和紙と墨とで家具に仕立てられた、軽やかな絵である。
けれどもこの日、紙と墨一色からなる、虎や猫や犬や子ども、ばらの絵にしみじみとしたよさを感じた。
〈南紀が贈った花〉
井浦新が無量寺を訪れる「日曜美術館」「アートシーン」では冒頭、突然の風雨や海、奇岩の様子にふれているが、ほんとうにそれが正しいのだ。
メディアでは「南紀」という言葉を中心とした美辞麗句が踊り、観光情報の画像でも南国風景が強調されているが、それは実際に行っても嘘ではない。
ただ、前面に迫ってくる印象は、太平洋からの潮風に洗われ、潮の香りに満ち、ダイナミックな風土、広い空と水平線、波濤に顕現する岩々。
少なくとも、山に囲まれ、盆地に川の流れている京都とはかなり違う。
きっと、三〇代初めの絵師はここで美味しい海鮮をつまみ、お酒を飲みながら、湧き起こる新鮮なアイデア、着想から活力を得て、特別な日々を過ごしたのだろう。
四〇代半ばで、才能を思うほど、惜しく思われる短さで死に(カラヴァッジョを連想させられる)、ついぞ大家の師を凌駕する世評を得ることのなかった人生であるが、絵三昧の幸福な、花のような時が南紀で存在しただろうことを、うれしく思う。
〈これもよかった!〉
○「寒山拾得図」にも惹かれた。
薄墨色でシンプルな、おもしろい造形。
中国山中の僧というより、釣りで生きている海辺の人のようにも見える。
○お寺さん発行の図録を入手できた!
なんとこの本には、方丈の襖絵を立体的に再現できる附録までついている。
『ようこそ無量寺へ 応挙・芦雪の名作ふすま絵』
あと、和歌山県の防災ポスター(短冊型)は「虎図」。
愛されている。
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