ノーベル賞受賞をきっかけにアリス・マンローの小説を読んだ。
短編「次元」(『小説のように』)を読んだとき、「紫式部はこういう小説を書きたかっただろう」と思った。
源氏物語ははじめ、華やかな歴史物語であり、「若菜」以降も光源氏の退場までは、陰影の織りこまれた貴族の一代記として完結している。
ところが、最終章の「宇治十帖」は、全く異質で現代的な小説だ。
生活に困窮することなく、優美に快く一生を全うできる階層の灰色の現実、貴族女性の狭く限定的な生が、冷めた眼で描かれている。
光源氏の物語では、理想的な男性から快楽の歓び、美的な生活を享受できる幸運を喜んでいた。
ところが、「宇治十帖」にはそんなものはなく、男性/権力への拒絶がくりかえされている。
短編の「次元」と、中編の浮舟の物語のテーマは近いと思う。
ドーリーは浮舟。
その社会の低い身分(階層)に育ち、教育もない。
充実した生を送ることができる人間関係も、世間知も持っていない。
ドーリーがされたことは、浮舟がされたことと同じだ。
「次元」を読んで、かえって“浮舟物語”の核心がわかった気がした。
紫式部はマンローの短編群を知っていたのではないか、などと変なことも思った。
現実がどれほど厳しいか。
切なさや哀しみ、文化を愛する人の感覚、思いなどは即座に弾かれる、強暴な力が押し寄せてくる世界。
そんな現実を取りこみ、リアリティを中心にしたフィクションを書き上げたところで、惨めな結末に至ってしまうだろう。
逆に、夢を散りばめ、ロマンチックに結んだところで、それは虚飾に過ぎず、恐ろしい冷たい世界に囲まれていることを読者に感じさせてしまうだけだ。
若い紫式部はだから、光源氏を作り、育てた。
その結果、あまりに巨(おお)きな男、古代の輝かしい男神(をがみ)のような存在を創造できたから、性愛や生活、人生の理想――文芸や美術工芸、音楽、衣装、祝い事などの催し、セックスと子育て、女としての出世(“国母”、第一夫人)――を貫く、一連の美しい、首飾りみたいな夢を実現できた。
光源氏は女たちのエンジン、ガソリン、生命力の源。
マンローの小説でははじめから、ヒロインたちの原動力は男でも愛でも結婚でもなく、彼女自身の心だ。
自分の心で生きていく。
それは浮舟と同じだ。
一見、幸福を取り集めたような人、紫の上はそんな生き方ができなかった。
高貴な家柄、美貌、多才な能力(歌、音楽、衣装、仏教の理解、家政etc...)、人間性にも恵まれていた“女雛”は、愛し愛される“男雛”に本当に言いたいことを言ったけれども、聞いてもらえず、死んでいった。
ところが、紫式部が最後に用意したヒロイン、浮舟は相手の男に何も言わない。
(浮舟の“男雛”は薫大将か匂宮か、という問いは存在しないけれど)
それまで、素直な人形、別の高貴な姫君の形代(かたしろ)であったような浮舟は、男にすがられるが、返答しない。
源氏物語は浮舟の無言、沈黙――現世に対する強い拒絶により閉じられている。
「次元」を読み、中断で終わったような源氏物語が乗り越えていく形が、わかった気がした。
ドーリーは最後、社会へ。
男たちがいて、緑の草木がそよぎ、青い空の広がる世界へ戻っていく。
自分で呼吸を始め、やわらかく、手をのばして、この不確かで恐ろしくもある世界へ、入ってくる。
浮舟も、この世界、俗世へ帰って来たなら、わたしはどんなにうれしいだろう。
源氏物語の結末に、一抹のむなしさを感じる自分は、「次元」のような続きを求めていたのか。
一千年前、筆と黒い墨とで、手により縦書きされた流麗なひらがなの日本語、古いやまとことばによる源氏物語。
その終わりに残っているわずかな余白。
そこにあたたかみある和紙を継いで、アリス・マンローの、いま世界共通語である英語による横書きの小説がプリントされても、よく合うだろう。
- 作者: アリスマンロー,Alice Munro,小竹由美子
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