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アリス・マンロー ――荒れた世界で生きる

記憶の本棚−ほんの感想

 やんごとなき読者も愛読す

 アリス・マンローの3冊の小説を夢中になって読んだ。
 この作家のことを知ったのは、イギリスのエリザベス女王が読書好きに変わっていく『やんごとなき読者』(アラン・ベネット。市川恵里訳)で。
 古今のいろいろな作家の名前が出てくる小説の中でなぜ印象に残ったかといえば、まずは女性の小説家だから。
 そして、外国で本がないという苦しみ、読書好きなら「ある!ある!」と共感する場面に登場するからだと思う。
 (言及されているいろいろな作家について知りたくて、原作も手に入れてみた)


 実際にマンローの小説を読んで初めて、エリザベス女王はこのような小説を愛読するほど進歩していたのだと驚いた。

 これ以上にうれしいことがあるでしょうか
 
 好きな作家に偶然会って、しかもその作家が一冊や二冊どころか少なくとも十冊以上は本を出していることがわかるなんて


 しかも全部ペーパーバックでハンドバッグに入る大きさなのがいい

 アリス・マンローは、読書の段階を示すスケール・ものさしでもあったのだ。



 ノーベル文学賞受賞を知ったのは、通勤途中のラジオのニュース。
 少し前から報道は年中行事のようにムラカミハルキで盛り上がっていたけれど、よかったな、と思い、俄然興味が湧いた。
 新聞の評を待って読み、切り取り――本を待った。
 絶版になっている本もあった。
 重版、配本され、やっときた本は、植物の花の絵が美しかった。



 チェーホフの後継者か?

 「チェーホフの後継者」「カナダのチェーホフ」という評は正しいか?
 たしかにチェーホフは『ユモレスカ』のように、さまざまな短編を巧みに書いており、これだけでも豊かな才能を感じさせる人だ。
 代表作『桜の園』や『三人姉妹』は、時代の変わり目で、女性たちの発する言葉が印象的だ。
 けれども、希望と悲しみがふしぎな配合でいりまじっている、他にない作品だ。
 衰退し、美しいものが永遠に失われていく予感と、いつの時代も変わらない人のおかしさ。


 マンローの世界は、決定的に荒れ果てている。
 おなじく北極に近い地域で書かれたけれど、尖ったペンで鋭く書かれている感じ。
 チェーホフ作品は、大地での昔ながらの暮らしが資本主義、近代化に覆われていくとば口、入り口。
 一方、マンローの小説は近代化、資本主義の容赦ない大波に襲われた後だからだろうか。


 マンローは、男性の文豪の後継者として評価される必要はない。
 アリス・マンローは、アリス・マンロー。
 あえて言えば、かつていた女性作家たちの妹。
 


マンローの描く日本

 小説中のカナダの町の様子が、日本の地方の衰退と重なるのでびっくりした。
 子どものときに寄ったお店が次々に閉じて、小さくなっていく町。
 国道が通っているけれど、その両側には、なんの感慨も起こさせない殺風景な建物や風景があるだけ。
 高速道路ができたけれど、東京から別の都市へ人や物が運ばれ、町は通過されるだけ。
 電車も通っているけれど、ジリ貧、いずれバスに替わるだろう。
 自治体の大きな負担が減るのだから。
 合併により中心は、車でないと行けない離れた市へ移った。
 人は多くなく、生活に必要な最低限の仕事しかない町、県。
 都市の経済的な繁栄・富からは遠く、荒廃があからさまな世界。


 一世代前は保守的な価値観で固まっていただろうけれど、今は「何でもあり、個人の勝手」という風潮がうっすらと覆いつつある。
 荒廃は、精神の深いところにまで入りこんでいるようだ。



 新聞記事や、本のカバーにたくさん印刷された、この分野の権威らしい人々・媒体の寸評をさっと読むだけだと、ふつうの人生とささやかな幸福でも書かれているのかと思う。
 しかし、実際のマンローの小説は、主人公の女性や登場人物に起こるできごとが苛酷だ。
 愛している人に捨てられること。
 死別すること。
 不治の病に罹(かか)ること。
 死をひそかに待ち望んでいたら、治療の成功を告げられてしまう展開。
 老いること。
 地域社会からの疎外。
 そして、“子殺し”。
 親が子を、子どもが子どもを。
 “子どもの欠落”――カップルに子どもの無いこと――もよく嵌めこまれる。


 報道からは個人の内向的な世界を描いているような印象だけれど、『小説のように』の作品など、とっても現代的だと思う。
 中流程度に豊かな国々の、今日的な事象や社会問題がふまえられている。




知的な女子は孤立する

 一般的な小説では、知的であることや鋭敏であることが、最終的に希望を呼びこむ展開が多い。
 (日本の“お仕事小説”・サクセスストーリー小説)
 しかし、マンローの小説では、読書好きだったり、知的好奇心を持っていたり、アートや音楽の才能をもつことが救いにならない。
 むしろ、他者からの疎外につながったり、大切なものが見えない、というパターンの小説群。

 でも、広い世の中では――本物の世の中では――違うだろうと思っていたのだ。
 危ないところで (……) 気がついた――ナウシカアーもシェークスピアも、わたしの意見と同じく、奥さんにとっては当然どうでもいいんだ、ということだ。


   「雇われさん」 『林檎の樹の下で』

 住み込みのメイド(夏休みのお手伝いさん)と銀行家の奥さんという雇用関係が、知性や教養を介する対等、フラットな関係に変わる隙間などないことが、厳然と示される。
 (その後、銀行家のもっていた雑誌により、イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の小説に読みふけるところが印象的)
 一方、知的な娘が都会の大学に進学し、解放感を感じる小説もあるけれど、その都会は日本でいったら、東京というよりはずっと小さくて静かそう。
 日本の地方の中核都市を思い浮かべると、しみじみと実感できる。

 一人でいられることの幸せ。

 それがわたしの望んでいたもの、それがわたしが留意せねばと思っていたこと、それこそわたしが送りたいと思っていた人生だった。


   「家に伝わる家具」 『イラクサ』


田舎と孤独
 登場する都会も東京ほどではなく、全体に、田舎での孤独な生き方が強く印象に残る。
 いや、田舎だからこそ、孤独が際立つのではないか。
 経済的な退潮いちじるしい田舎。
 ――ここでは、自然は美しくも厳しい。
 都市(まち)では快適で楽しい空間をつぎつぎに移動できるかもしれない。
 けれども、田舎では人間など太刀打ちできない自然にぶつかる。


 (わたしが今いる地方も、冬は家が揺れるほど強い風が吹いて、寒い。
 一方、山並みのうえに広がる冬の夕焼けは、見とれるほど壮大で美しい。)

 田舎にいるからこそ、自分はマンローの小説に描かれる孤独を強く感じているように思う。
 人生には孤独が訪れる時があるということを。


 現代日本の地方を描く小説では、絲山秋子さんの小説も好きだけれど、マンローの小説には希望やファンタジーがない。
 でも、夕焼けみたいに美しい鮮やかな一瞬が用意されている。

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

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林檎の木の下で (新潮クレスト・ブックス)

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小説のように (新潮クレスト・ブックス)

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やんごとなき読者

やんごとなき読者