極上の愉楽『ビブリア古書堂の事件手帖 4』三上延

 既巻でもSF、コバルト文庫、まんが、いわゆるサブカルチャー的な作品や、アニメ、絵本とともに、それらとは対極的な、国語の教科書に載っている文豪(的存在)の本が取り上げられてきた。
そして、どの話でも、基本的知識から驚きのトリビアまでが織り込まれていた。
 最新作第4巻『栞子さんと二つの顔』のテーマ、江戸川乱歩だって名を冠した賞あり、国民的作家だ。
 19世紀後半、ヨーロッパ由来の「小説」が流入し、短期に「近代国文学」の花開いた極東の島、“ガラパゴス”の。
 本巻の要である『押絵と旅する男』はいまや、「現代文」の教科書にも採録されている。

 
 しかし、本巻には乱歩の巧みな語りや、独特の美学・快美感を実感させられる小説本文の引用はない。
 知られざる事実の開陳に徹したからか。
 読者の内にあふれる、乱歩についての思い出に任せたのか。


 本巻を読み、自分にとっても江戸川乱歩は特別な小説家だったことがわかった。
 通っていた分校の図書室は小さかったので、貸出日に駆けつけては借り、放課後、床に座って書架にもたれて読み、山道を読みながら帰って(おなじ姿勢の二宮金次郎が好きだった)、そうしているうちに「9」の棚で読みたい本はなくなり、「3」だとか他の棚で探した。
 それでも、とうとう読みたい本がなくなった時、当時小学校4年生(の秋からは祖母の病気でせわしなかった気がするので、もしかしたら小3?)のわたしには、はるか高くに見えた最上段に、厚い本がずらーっと並んでいるのを見つけた。
 初めて読んだのは『死の十字路』、大人の男女の愛憎による殺人事件、という印象だった。
 (自分の思い出には、背広の男性がうつぶせに倒れている灰色っぽい絵がある)


 夢中になったのは、もちろん少年探偵団シリーズ。
 洋館&美術品&予告の手紙&怪人二十面相、の取り合わせが印象に残っている。
 なぜ、夕方に二人の少年が危険そうな洋館に入っていくのか今なら疑問を持つだろうが、当時はハラハラしながら読んだ。
 小林少年が出てくると、安心した。
 肝心の明智小五郎探偵には人間味があまり感じられなかった。
(探偵は都会に事務所をもっているというイメージは、わたしの中でできたかもしれない)
 怪人二十面相はあまりに神出鬼没だった。
 ――今思うと、子ども相手に華麗で大げさな仕掛けをくりかえしていた怪人二十面相がかわいい。
 自分の知っている“高崎の観音様”へ気球で脱出してきたときは興奮し、結末にはがっかりした――
 それから、箱に押し込められたり、縛られることによる、密着の感覚‥‥
 なにか、淫靡な感じが特色だった。
 湿っていて、薄暗いような。


 わたしにとって子ども向けの本で、ほかのものとは格段に違って印象的だったのは、小川未明の童話だった。
 暗闇のなかに、ごく細い金色の光が見えるような、儚(はかな)く哀しいことが美しいことのような。
 児童文学としてふさわしくない、と批判されたそうだが、小学校低学年(だったと思う)のわたしは、未明童話にとても惹きつけられていた。
 大人になっても探したし、人に話したこともあるくらいだ。
 対して、乱歩作品にはそういう行動をとっていない。
 有名人(大槻ケンヂら)の乱歩愛好の話も遠いもののように感じていた。
 ところが、本巻のおかげで初めて、乱歩愛読をまざまざと思い出すことができた。

 
 本巻はシリーズ初の長編で、乱歩偏愛のモティーフにあちこち彩られている。
本好きとしてぼーっとなったところもある。 
 まず、書棚一面に乱歩の本が網羅されている場面。
 本の中でなら、夢のようなコレクションに囲まれる、という夢を実現できるんだ、と興奮した。


 それから、仕掛けのある部屋や、秘密の隠し場所、暗号の解読、変装すること。
 ミステリー特有の小道具や要素を実体験できる楽しさを味わえたら、どんないいだろう。


 そして、極めつけは、本に入ること。
 本に入りこみ、登場人物として、自分が美を感ずる小説世界に生きること。
 小説愛好者ならうっとりとさせられるだろう、最高の愉楽だ。


 ――小説の最後で、依頼者の女性は旅に出る。
これは印象的だ。
 乱歩の『押絵と旅する男』でも大震災(関東大震災)前の東京のにぎわいが回想され、「変わった東京を見せてやりたいと思い」と語られているからだ。
 『ビブリア~』の“押絵と旅する女”の目には、ふたたびの大震災、東日本大震災後の日本列島はどう映ったろう、そして1年後の桜は。


こんなことを思うのも、2012年4月中旬、平年より感覚として2週間は遅い桜を見に行って、印象的なことがあったからだ。
 その城下町(群馬県甘楽町小幡)は水路脇にも、山里にも、川辺にも、ピンク色の桜が咲いていて、ことに山腹のお寺(宝積寺)のしだれ桜は目に染み入るようだった。
 本堂で手を合わせたとき、1年以上経って初めて、祈ることができた気がした。
 そして、「生きていてよかった、生きていられることは幸せだ」という思いが胸のなかいっぱいに湧いてきた。
 本作品でくりかえし言及される2011年の桜のことは、まったく覚えていない。

 読者それぞれがあの頃をふりかえることができるシリーズでもある。