超然を支えるもの――絲山秋子『作家の超然』

『作家の超然』(『妻の超然』所収)は忘れられない小説だ。
連作3編の掉尾にふさわしい作品であるだけでなく。
絲山秋子さんによる群馬県の小説では、木々の緑が光り輝いているラストの『ばかもの』、「FMぐんま」内部を覗くような期待感と主人公の快復がうれしい『ラジ&ピース』も好きだ。
でも、『ばかもの』『ラジ&ピース』はそれぞれで1冊の本になっているけれど、短編の『作家の超然』は、わたしの中では格別だ。


はじめは、次の一節に惹きつけられた。

おまえはこの土地の変化に富んだ気象が好きだった。砂埃を舞い上げる春の突風も、夏の強い雨と激しい雷も、秋の冷え込みも。一日という単位のなかでも静穏と暴風が同居し‥‥


山を越えてきた雲はあっという間に通り過ぎ、広い平野を横切って海のある地方へと拡散していってしまう。


『ラジ&ピース』でも、群馬の雷の美しさは讃えられている。
けれども、『作家の超然』を読んだとき初めて、群馬の土地が見知らぬものに感じられ、それが快感だった。
海も都会も、何んにもない北関東の内陸部、というぼんやりとした灰色の評価ががらりと変わり、鮮明な世界が立ち現れてくるようだった。
たしかに平野が広がり、その上を光や風が、日々の景色を織りなしながら過ぎてゆく、躍動感あふれる空間だ、と思った。


次の一節には共感した。

おまえは冬が好きになった。
冬はものがよく見える。‥‥


おまえは見える範囲の山の名前を全て覚えた。山間を走る川の名前も知っている。‥‥


おまえはその名前の一つ一つを思うことが好きだ。


住んでいるわたしも同じだから。
生まれ育った家では裏庭の木戸を抜け、裏山に登って、県境の山並みに太陽が沈んでいく空や、川や山を見るのが好きだった。
赤城山榛名山、そのあいだの真っ白に輝く谷川岳武尊山、あるいは西方の活火山の美しいお釜のかたちをした浅間山
南方の関東山地秩父の山々。
それらを、ぐるりと見まわしてゆくことは、何かを読み上げることと似ているし、日々コーヒーを飲むのと同じような喜びだ。
車でどんどん移動していても、渡った川の名前を確認したり、その川がどこで利根川や烏川と合流するのかがわかって、頭のなかに1枚の地図ができていくのは楽しい。
ということは、『作家の超然』の「おまえ」も、根っからの群馬人になったという証なのか。


単行本を図書館で借りたときは一部をノートに書き写したが、文庫は買った。
新潮文庫の伝統のロゴマークをあしらった、大日本タイポ組合による「超然」字体、「超然」装幀が新鮮!)
読み直して気づいたこともある。
この小説では、アメリカの砂漠地帯の町に住みついたハティという老女が主人公の小説が、背骨のように在る。
「おまえ」という無骨な二人称を用いて激流のように語られる『作家の超然』自体は、山あいを蛇行する川の上流のようだ。
対して、ハティが主人公のソール・ベローの『黄色い家』は、川のところどころに露出した硬い岩盤の川床
ケガにより西部の町を去るしかない孤独なハティと、親族友人もいない地方で単身、暮らして、手術を受ける「おまえ」。
現実に、地方では車が運転できなければ生きていけないから、予見される「よそ者」の無残な老後は、読者(@日本の地方)にとっても身近に迫った恐怖である。
しかし、その叙述の直後、引用した群馬の自然についての記述が始まるのだ。
まるで、救いであるかのように。


苛酷な自然に崇高な美しさを見いだしたとき、「超然」が完成するのだろうか。
だって、超然とすることは難しい。
なぜ、超然―― 孤独、個 ――でいられるのか?
その背景には、風土との結びつきがあるのかもしれない。


「おまえ」の名字“倉渕”も意味深だ。
実在の地名で、高崎市への合併以前は“倉渕村”が存在した。
わたしも子どものころから通るたびに、「美しい。住んでみたい」と惹きつけられる地域である。
(その美がもたらす幸福感は、谷川俊太郎(峠の先の北軽井沢に山荘がある)の詩「倉渕への道」にも描かれている)
『作家の超然』でも説明されているように、村の誕生時に地名が合成されできた自治体名で、もともとの住民の名前にはない。
里見家や新田家、桐生家、奥平家、箕輪家のような、出身地と等しい価値を持つ由緒ある家名ではない。
しかし逆に、主役の名前が“倉渕”であるところにこそ、作家の超然と、土地との新しい歴史が書きこまれているように思う。

ここでは、夕日はいつも山の向こうに沈む。太陽は夏至冬至の間を往復しながら沈んでいく。圧倒的にすべてを包む夕焼けは、日没と同時ではなく、しばらく経ってから発生する。

「ここ」――世界ではまったく無名の、ごく小さな地方都市、高崎で見出された「美しい夕映え」。
それと、人類の創造する小説の「滅び」とが結びつけられる衝撃的なエンディング。
偉大な太陽の残照が、どれほど比類無く輝き、美しくあろうとも、反対側の空からは「既に夜が始まっている」のだから。

なにもかも取り返しがつかないのだ。

つかの間でしかない「世にも美しい夕映え」を〈待ち望む〉作家の〈強靱さに震撼させられる〉という安藤礼二さんの解説文に、わたしも共感する。


以前の『ラジ&ピース』には、群馬を理解するための固有名詞も特色も、楽しみ方の数々も、すてきな衣装にほどこされた美しいビーズ飾りのように、散りばめられている。
実に空虚な県庁所在地までやさしく描いてくれて、県民のわたしは甘やかな気持ちになる。
けれども、「叩き付けるような雨」や激流のごとき語りで、こちらの傷跡、嘘、軽薄さをも暴き出していくような『作家の超然』にこそ、このささやかな土地が嘉(よみ)されたこと、言祝(ことほ)がれたことを感じる。

妻の超然

妻の超然

ばかもの (新潮文庫)

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ラジ&ピース

ラジ&ピース