はんぱ者、読書をす。『終わらざりし物語』J.R.R.トールキン

 前にもふれたように、『指輪物語』を通して読んだのは1回だけ。
 『指輪物語』のことは、すごい、と感嘆している。
 読んでいた時も、最初のあたりは長〜い描写に無理をしたり、女性がなかなか活躍しないのでイライラしたけれども、後半はページをめくるのももどかしく、すぐに続巻を手に入れたほどだ。
 でも、ふだん読み通そうとは思わない。


 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、テレビドラマ化の機会に、話題の亀山郁夫訳で読み直そうかと探した。
 えっ、5巻もあるの。
 高校生のとき読んだ新潮文庫のだって、3巻だったけれども、大人にこの巻数の小説はつらい。
 それに、興味を誘われ、するすると入っていける巧い語り口とはいえ、その先の重く暗い印象から、牛の歩みになってしまう。


 働いていて、時には疲れることや悩みもあるから、軽く、明るく、楽しいものに手が伸びる。
 美味しい食事や飲み物、美しく崇高な風景を求めるように。


 自分ははんぱ者だなぁ、と感じることがある。
 その作家の全作品や、場合によっては資料まで読みこむような熱狂的なファンではない。
 小説を書くような作家志望でもない。
 でも、本は好き。


 学生時代からそうだった。
 研究の言葉は身にそぐわない。
 小説やマンガ、俳句などの創作に興じている人たちの、熱っぽい集まりには気づかないか、まったく自分とは関係ないものだと感じていた。
 かといって、文学作品や詩歌に関心のない人たちには、最遠の隔たりを感じていた。


 大人になってわかったのは、創作している人は案外、多いということ。
 むろん、本を読まない人や、なんらかの分野でも作品というものを好まない人は、もっともっと多い。
 円グラフで表すと、自分は世の中の人の数パーセントの部類なのか‥‥



 創作からは遠いけれども、作品に接すると、泉が湧き出るように、自分のなかのからっぽの空間が潤い、満たされる。
 そしてどの時間も、実生活では役に立たず、ぼーっとしている。


 トールキンの『終わらざりし物語』。
 自分のもっている上巻からでも、架空の世界を一人でつくりあげる人間というものの凄さを感じる。
 ただ、わたしが愛読したのは1編だけだ。


 造船と航海に魅入られたような王子アルダリオンと、ふるさとの島、森を愛する妃エレンディス。
 妃には、王子が船のために木を切ることが耐えられないし、植林についても木を実用的に扱っているだけだ、と非難する。
 航海に付いていかないし、もう無事を祈る枝も届けない。
 約束を違え、数年遅く帰ってきた王子は妃の家を探し訪れるが、妃の対応はすげない。
 長寿を約束されている種族の王子と、ずっと人間に近く、早く年老いていく妃。
 意志に反して、傷つけ合って別れていく哀しい小話だ。
 

 はんぱ者だとしても、ささやかな読書を続けていこう、――なんて思った。


 雪が降って、まだ日陰には雪や氷が残っていて、ぐるりの白い山々は、神々しい偉容をたたえているから、しみじみとした気持ちになったのか。

終わらざりし物語 上

終わらざりし物語 上