すてきな別荘村に住めなくても『時の余白に』

  前に書いた建築小説について、インターネットでの感想には、筆記具などの小物までセンスがいい、などと称賛されている。
 そうなのか。
 縁がないからまったく、気がつかなかった。



 この点について、読者の好みは分かれるだろうと分析している人もいる。


 そういえば、その小説の車についての記述に、わたしは笑ってしまったクチだ。
 すべて外車で、ていねいに車種まで詳述されている上、こんなくだりがある。
 「麻里子の運転するクルマに乗ってみると、これはもう比較にならない腕だったから」
 「いや、マニュアルだし、やめておいたほうがいいんじゃないかな」
 「麻里子はクラッチを踏みギアをしきりに変えて、フットブレーキはあまり使わず、コーナーをコンパクトに曲がっていく。」


 五木寛之の小説といい、若い女性の魅力を「クルマ」の運転で表現している箇所や、ほかの作家でも外車をすてきだと思っている記述に合うと、わたしはおかしい。
 車大国の北関東に住んでいて、地域住民にとって、車は足だからか。
 この小説に描かれている時期、おなじ群馬県の田舎で、わたしの両親はマニュアル車を日々、生活のために運転していた。国産車の。

 
 実際、マニュアルの運転なんて、難しくない。
 「ぼく」が不合格になった「下り坂のカーブの曲がり方やスーパーマーケットでの駐車のしかた」だって。
 鈍くさいわたしがマニュアル車に乗っている。
 先月たまたま、その小説に出てくる峠道を、その国産の軽自動車で走った。
 お年寄りだって、軽トラで山を走っている。


 大学村を描いているとしたら、野上弥生子(小説では「野宮春枝」)や岸田衿子の作品のように、地元の人のことが出てくるほうが好きだ。
 やはり軽井沢(本場のほう)を描いている水村美苗の『本格小説』は、佐久の娘の“女中小説”だ。
 日本の地方、極東の内陸の農村と並置して描かれた“軽井沢物”のほうが、誠実に思われる。
 これは、すてきなすてきな別荘村に住まうことのできない者の無知、羨望に因るのか。


 最近また、『時の余白に』を読み返した。
 芥川喜好さんの読売新聞の連載が休日の楽しみ、という人は多いのではないだろうか。
 家が朝日新聞を購読していたわたしがはじめて知ったのは、新聞の美術紹介の本。
 大学生が貸してくれた。
 大学生が自分で買って、大事に持っていたのである。
 人気の高さが知れる。

 
 今回、各年の12月と1月掲載の文章だけ読んだ。
 それから、べつの回も読み返した。


 建築小説の登場人物のように、芥川さんも美的感覚がすぐれていて、大学仕込みの教養がたんとあって、人肌にやさしい滋味豊かな表現ができる。
 四季折々の自然のなかでのびやかに暮らすことや、普通の人の生き方に目を配っているところが、この上なくいい。
 国民的大新聞での連載、ということは関係していない。
 背後に思想・イデオドロギーなどではなく、絶対的な誠実さが感じられる。


 ハイブロウで富裕、欧米の香気高い知的美的な世界を覗き見て、どぎまぎしたわたしが落ち着くことのできた、一杯の日本茶(グリーン・ティー)みたいな本である。

時の余白に

時の余白に

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)