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謎めいたタペストリー 『火山のふもとで』松家仁之

 新聞の書評で興味を惹かれ、いろいろなメディアにおける高評価や、書店で平積みをちらりと立ち読みして、無性にほしくなってしまった。
 「話題の、良質な長編小説をじっくり味わいたい!」と。


 実際に読み始めてからは、「古典的な小説なのかな」とトーン・ダウンした。
 「ぼく」は受け身。
 女性たちは積極的だったり、専門職に就いてはいるけれど、控えめ(麻里子、雪子、藤沢さんなど)
 カタカナばっかり出てくる。
 ひたすらヨーロッパ風の、“バタくさい”食事。
 流れるのは、ヨーロッパのクラシック音楽と、アメリカの現代ポップス。
 全編通して、大衆的なもの、日本の歌謡曲やテレビ番組(「笑っていいとも!」とか)、群馬や長野の田舎食堂、観光地特有のドライブインの印象はない。


 グンナアル・アスプルンドのことは『意中の建築』(中村好文著)で少し知っていて、(円形書架のスットクホルム市立図書館も、「森の墓地」も、きれいな写真とともに取り上げられている。『意中の建築』も新潮社の『芸術新潮』連載)、先が気になり、1日ちょっとで、駆け足でページをめくってしまった。


 けれども結局は、山荘で人々が一緒にごはんを食べる場面を探して読み直し、(「大きなペッパーミルとソルトミルがみんなの手を渡ってゆく」)、それから、図書館や住宅についての記述、蘊蓄と思想、を中心に、読み直した。


 帯に「若き建築家のひそやかな恋」とあるものの、ふたりは難なく結ばれてしまい、あとは「ぼく」が結婚に踏み込めないだけに見える。
 違和感がないか?


 最終章に至って、「若き建築家のひそやかな恋」とは、雪子にこそ当てはまるように思われる。
 そうすると、並べられたトランプがすべて引っくり返っていくようにおもしろく、最初のほうから、要所要所を読み返す羽目に。
 やはり軽井沢(ただしこちらは長野県の)を舞台にした水村美苗『本格小説』みたいに。


 「ひそやかな恋」というのは波瀾万丈で、はらはらするから、読んでいておもしろい。
 語り手の「ぼく」は事務所に採用された新人という設定により、すべての描写は自然なものに見える。
 それに、誰もが体験する、大切なものがどうしようもなく喪われていく感覚についても、たしかに巧みな小説なのだ。
 もっと“語り”に注意すれば、また、教養があれば、気づくべきこと、考えるべきことはあるのだろうけれど。


 もうひとつ。
 「藤沢さん」の広大な花畑のなかに、「先生」が建てた大きな邸宅について。
 数十人のパーティーを主催でき、シャワールームを備えた客用寝室がいくつもある。
 何のためなのか?


 もしかして、「先生」は国立現代図書館のコンペに勝ったら、(半ば勝算もあったのだろう)、タリアセンを始めるつもりだったのではないか。
 ライトの「落水荘」と同じように、国立現代図書館によって表舞台へと“生き返り”、世界の若者たちを魅了して、「先生」が確立した魅力的な建築を身につけさせ、広めていく。
 その時、「ぼく」は「先生」没後も、一つの生命体のように脈打ち続けるタリアセンの核になっていく、という「先生」のひそやかな野望はなかっただろうか。
 それが果たされたなら、その後、長寿を全うしたという藤沢さんはもっと大きな存在になっていっただろう。


 作中には「先生がライトの弟子だったというのは、ちょっとふしぎな気がする」とあり、帝国ホテルのような建築と「先生」村井俊輔は直結しない印象がある。
 ――ただ、どなたかが書いていたけれど、ライトの弟子、アントニン・レーモンドとは重なる。
 『火山のふもとで』に描出される村井先生の建築のイメージは、わたしのなかで、レーモンドの自宅・事務所の設計図にもとづいた高崎哲学堂だ。
 高崎音楽センターも若々しい色と形のデザインに魅力をおぼえるけれど、わたしはこの元邸宅のほうが好きだ。
 名前はおどろおどろしいが、玄関前の開口部が広く、木造で気持ちのよい、美しい平屋。
 (井上房一郎という実業家の旧居で、高崎市立美術館から入ることができる)
 人をもてなすこともできるし、快く暮らせそうな住まい――


 「先生」は太平洋戦争により去るまでフランク・ロイド・ライトのタリアセンにいた。「戦争がはじまらなければ、そのままタリアセンに残っていたかもしれない」
 たしかに、作中の事務所や「夏の家」がタリアセンの一種、理想郷、日本という島国の村井タリアセンのようだ。
 しかし、「村からは真裏の、なじみのない山容」を見せつける巨大な浅間山の別のふもとに住みかえて、新たに始める世界はわくわくさせられる。
 そもそも、「先生」は毎週そこで過ごして、新たな作品を創りだしてきたのだし。
 老境に入り、世界を閉じようとしていた建築家が図書館の創造をきっかけに、長野の佐久平を望む巨大な火山のふもとに移って、世界の結び目の一つとして活動したら、建築シーンは変わっただろう。
 「こっちはちょうど裏側の、軽井沢サイドから見た浅間だね」


 「夏の家」の舞台、「青栗村」は活気を失っていく、鬱蒼と繁茂する山林の中で。
 いわゆる、大学村がモデルだとしたら、野上弥生子の“北軽物”のその後であり、岸田衿子・岸田今日子の『ふたりの山小屋だより』などのサイド・ストーリー、“裏大学村物語”のようでもあり、この点でも興味深かった。
 武田泰淳・武田百合子(『富士日記』)や、大岡昇平らが富士山の高原に山荘を持ったこととともに。


 図書館などで手に取った方はぜひ、ブックカバーを外した本体も見てほしい。
 この小説を読んだ人なら、ほほえんでしまうようなすてきな装幀だ。


 今、この1冊の本はわたしのなかで、叙情と理知とで彩られたタペストリーみたいな印象だ。

火山のふもとで

火山のふもとで

意中の建築 上巻

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