【転落・下降感からの恢復】
水村美苗さんの『母の遺産 新聞小説』についてのレビューは、連載されていた読売新聞にも出たけれど、週刊誌「AERA」(朝日新聞社)にも出た。
その記事では、〈芸術と知〉を激しく求めた母、旧世代の象徴が〈花柄〉であるが、美津紀の世代、現代になると、大震災の前も後も、〈緑の葉〉、緑の木々である、という指摘が印象に残った。
たしかに本作もふくめ、水村さんの本の装丁にもちいられているウィリアム・モリス・デザインの〈花柄〉は、西洋・ヨーロッパ由来で、正統感香る。
対して、主人公が湖から〈下界〉に戻って目にする〈杉の巨木の並木道〉は、古くから日本にある自然だ。
わざわざ、〈四百年前に〉〈植えた〉とまで書き込まれている。
最終章の引っ越し先のシーンで、読んでいるこちらの頭のなかいっぱいに浮かぶのは、〈命の水のように光る〉〈緑の新芽〉の木々であり、それは日本に、この島に昔からあったものである。
『母の遺産』は連載中、土曜日に楽しく読み、震災直後の最終回のラストシーンには感動した。
単行本の広告を心待ちにし、発売後はわざわざ書店まで探しに行った。
その後、職場の人が買ったと聞いて、自分も改めて探して買い、お風呂で楽しく読んだりした。
けれども、何かぼんやりした不満足感があった。
それは『本格小説 日本近代文学』にも、『私小説―from left to right』にも、また、エッセイとして始まり、『手紙、栞を添えて』のような、“読む人”にあてた長い手紙にも感じられる『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』にもあった。
ありていに言って、水村さんの本を読むと、激しく共感する一方で、不幸な気持ちにも陥ってしまうのだ。
共感も、不幸感も、その源は没落、下降のストーリーにある。
知的なものや芸術から、隔たって、転落していくという感じ。
未来に対する閉塞感。
小説のラストでは一様に、作家の分身的な女性が“書く女”として動き始めるので、ハッピーエンドとして締めくくれるけれど、想像力も学術的な力もない自分は、ページを閉じた後、一抹の暗い気持ちに襲われる。
『日本語が亡びるとき』に至っては、わたしごときが日本語と日本文学に対して、憂国の情に冒され、苦しんでしまうのである。
水村美苗さんの本と、林真理子さんの『下流の宴』と、絲山秋子の『末裔』は似ている。
けれども、『末裔』はずっと気持ちがいい。
後味がいいからだ。
この小説も、〈教養〉から離れていく自分と、身内のことが描かれる。
親世代は知的・芸術的なものを良しとし、それらが普通にあった。
主人公たちも高踏的なもののなかで育ち、それなりか、親世代以上に知的な生活、知的なレベルに達している。
にも関わらず、今現在の生活、子どもたち、自分のこれからは???
下降感。下落感。衰退感。没落感でいっぱいだ。
しかし、『末裔』の主人公の中年男性は、幻想のなかで、知性や、芸術に対する感性が底流をなす、人々との豊かな会話、時間を楽しむ。
その後のリアル・現(うつつ)における展開は、あたたかなものに転調するけれど、現実や時代としっかり対峙していないという印象は受けない。
『母の遺産』の美津紀も、『末裔』の省三も、自分のルーツを探る。
美津紀は前世紀の文学の中に。
省三は日本の田舎、地方の山村に。
省三は、冴えない生活を変えない。
人も排斥しない。
過去を取り戻そうともしない。
変わってしまった世界、変わっていく世界で生きようとする。
何より、終わりの方の疾走感がたまらない。
こういう、解決の仕方があったんだ、と圧倒される。
高額な遺産や、閑静な住居など転がりこんでこない。
けれども、ゆるやかにつながる人の存在に気づき、未知のものに出会うときめきがある。
伝統や正典〈カノン〉に回帰するのではない。
新しい未来へ進んでいく――ドライブしていく爽快な感じに、この上なく魅了される。
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