静けさの美 ハンマースホイ展&常設展

ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情 Vilhelm Hammershøi: The Poetry of Silence」 国立西洋美術館


リサイクル・ボックスにあった(捨てられていたのと同じだと思う)パンフレットで、この展覧会を知った。
ゆったりめの黒いワンピースの女性が、後ろむきに立って、大きなお盆を左脇に抱えている。
そんな、パンフ表紙の絵(背を向けた若い女性のいる室内)が気に入った。
グレーの壁面が妙に広くて、これも動かない静かな感じを出している。
「ほかにない絵だ」とうれしくなった。
ボックスから2枚取って、クリアファイルの表紙なんかに使っていた。


その後、国立西洋美術館の前を通ったら、この展覧会の大きなパネルが掲げられていて、やっぱり見たい、と思った。
その時はほかの用事があったので、「今度はここに入ろう」と決めた。


展覧会で印象的だったもの。
真っ白なドア。
茶色い床面。
均質にグレーな平面‥‥壁。
マホガニー(?)の赤茶色い家具の放つ光。
灰色の雪空。
灰色の外観の石造建築。

でも、そういうところに光があった。
光といっても、窓から光の差しこんでくるフェルメール(Vermeer)の絵とはちがった。
また、フェルメールのような、人間の愚かしく退屈な人生ドラマのワン・シーンもなかった。


ロイヤル・コペンハーゲンのパンチ・ボール(パンフレットの表紙にも描かれているあれは、壺ではなかったのだ)
銀製品も描かれているけれど、ヤン・ファン・エイク(アイク、Jan van Eyck)のような神々しさ、神聖なドラマの幕開け、といた印象もない。
ハンマースホイの絵画群にあるのは、静謐だった。


ただ開いているだけのドア。
奥へ奥へ連なっている無人のへや。
窓枠の四角形の形で、壁に落ちている光。
装飾が凝っているへや。
ただし、だれもいない。
装飾のほどこされた建物。
ここにも人影は皆無。


ハンマースホイの絵を見て、思ったこと。
「こういうものを、いいと思ってもいいんだ」
自分がたまに、ケータイで思わず撮ろうとした、室内と日光の作り出す一瞬の風景を。
人生に、経済的な利益なんてもたらさない風景を。
意味があるのか、ないのか、わからなかった風景を。
そんな勇気を与えられた。
自分は、みっともないくらい臆病なのである。




ハンマースホイの絵には、おなじ女性が何度も登場するが、そのモデルだった奥さん、イーダの肖像画にはびっくり。
全体が緑色で、表情もポーズも、38歳だというのに、まるで重病人で、夫婦の不和に苦しんでいて、人生に疲れている人のようだったから。


ハンマースホイはもしかしたら、ふつうの人物画とか、ふつうの風景画・静物画を描けなかったのだろうか。
現実の、身のまわりの人間を描こうとすると、こんな嫌な感じの絵になってしまって。
もしかしたら、人で賑わう街路、人々が身体を使って労働している農村(ミレーの「晩鐘」とか)、着飾って機知を飛ばして浮かれ騒いでいる酒場(ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とか)、パーティーなんかを描こうとすると、ダークで、マイナスな印象を与えるものになってしまったのだろうか。
不幸感がただよって、画家自身もブルーな気持ちになってしまう絵に。


でも、この展覧会に出品されてるような、無人で無機質で、ちょっと変で、静けさと光に満ちた空間を描く時は、幸福だったのかもしれない。
ハンマースホイの絵は、画家の幸福感と美が手を取り合ったような絵だ。
描いている時は、たぶん、安らかだっただろう。



どの絵も静謐感が共通している。
こういう絵ばかり一生描き続けたのは、すごい勇気だと思った。
人とちがう価値観を保ち続けることは難しいから、自分にとっては。



ハンマースホイの室内画を組み合わせたムービーもおもしろかった。
わたしはやっぱり、静止画よりもこういうものを求めてしまう。
壁に並べて展示された絵も、ぱらぱらマンガに見えたりした。



ハンマースホイの画中には、女性の美しい後ろ姿はあっても、色っぽさ、華やぎはない。
若い女性らしさは強調されているのに。
ドラマの高揚感もない。
喜怒哀楽の感じも。
生命感がないんだ。
無音である。


“若い女性”の姿態は、ふつーは主役になるし、客寄せ・呼び物になる“看板娘”的役割を持っていると思う。
ボッティチェッリ(Botticelli)の「ヴィーナス」とか、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」とか、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」とか、ゴヤGoya)の「マハ」とか、ルーヴル美術館サモトラケのニケ像とか、ちょっとちがった方向のだと、エヴァンゲリオン綾波とか。


黒いドレスもふつーは、美的な快さ、色っぽさを与えると思う。
しかし、ハンマースホイの絵では、黒いドレスを着た若い女性の姿が、1本の木や、空を流れる雲みたいな“自然”になっちゃってる。
自然に溶けこんだ、人以外のなにかに。
半人、それから半分無みたいな存在に。


魅力的な女性がトレードマークのように描きこまれていても、若さや女性美、画中の女性への称揚のないハンマースホイの絵。
モナリザや、「白貂を抱く貴婦人」のダ・ヴィンチを越えてる。



それから、予想もしていなかったことだが、ハンマースホイの絵は、廃墟感、廃街感、廃屋感、廃室感がすごかった!
なんというか、廃の感じ、無の感じなのだ。


決して、これからいいことが始まる、新しいよい方向へ開ける感じが、しない。
過去の存在感、過去感ばかりがあって、明るい未来感はない。
未来の予感すらない。
(これも、絵の続きにありふれた陳腐なドラマを予感させたフェルメールとは違う)

あるのは「今」。
だから、時間の止まっている感じがするのか。
女性のほつれた髪の毛のゆらぎさえも、静止している。



それから、にぎやかさ、にぎわいの拒否。
描かれる人は、いつも一人。
でも、孤独感はない。
ただ、人の集まりの感じ、人間関係のにおいがない。



レンブラントとかの絵で目立つ、贅沢や富を示すレースをふんだんにつかった襟飾りといった衣装や、豪華な家具もない。
ほんものの貴族っぽい。
精神の貴族。
冷たい血、青い血、そんな言葉が浮かんだ。




[常設展]
時間もあまりないので迷ったけど、「1500円のモトを取りたい!」と入ったら、大正解だった‥‥
すごい! すごかった!
常設展は何度か見ているけれど、最初の祭壇画のプレデッラ(ゆかいな怪獣が飛んでいたりする好きな絵)からして圧倒された。
カラー、カラー、カラーなのだ。
赤色、青色、白色、光り輝くもの、もの、もの。
密集する人々(「最後の審判」とか)
草も木も静物も、人のほおも服も、岩山の風景もカラー、カラー、カラー。
ハンマースホイ展のあとに見ると、どの絵も色彩の大洪水だった。


動き、ドラマも感じた。
今までここで見慣れていた泰西画は、どれも壮大なドラマだったんだ。
にぎわい、騒々しさに満ちていた。


あっ、ピサロだって労働する人を描いている。
印象派の、光とカラー感あふれる自然と人の絵。


ハンマースホイの独自性、すばらしさ、魅力をもっとも強く感じたのは、常設展だった。



[そのほかの常設展雑感]

ティントレット(Tintoretto)
ヴェネツィアのアカデミア美術館で、ティントレットの絵に魅了されたことが、すーっと思い出された。
ジョヴァンニ・ヴェッリーニの次に好きになったのだ。


ゴッホの野ばら。
なつかしい。
10代のころ、すごく好きだった。


ウェイデンらしい肖像画(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、Rogier van der Weyden)
フランドル絵画らしい宗教画。


クロエ(「春、 ダフニスとクロエ」)
ミレーもこういう古典的な絵を描いていたんだ、と思った。


ティエポロの雲上界。
なつかしい、これも好きだった。


モネのすいれん(睡蓮)
有名な絵だけど、文句なく、よかった。


ロセッティ。
久しぶり、やっぱり、印象的な美女だ。


ギュスターヴ・モロー
光が満ちてる。
小さい絵だけど、宝石。
こういうのを、珠玉の作品と呼ぶのか。


最後に。
今回もモーリス・ドニの絵が気になった。