光に魅せられたフェルメール展

「Vemeer フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」東京都美術館


それまでフェルメール作品は、いくつかの絵に限ってなら、好きだった。
青いターバンと、耳もとの大粒の真珠、瞳やくちびるのちょっとした輝きに目を奪われる、若い女性像。フェルメールの“見返り美人”、「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの女)」
大きめでざっくりした風合いのパン、いかにもよく働く女中さん、といった姿や、現代のわたしたちも行う(ただし、スーパーで買った牛乳パックから)、牛乳を注ぐ動作が、気持ちのいい日常生活をほうふつとさせる「牛乳を注ぐ女」
雲が多くて、それがオランダっぽい青空のもと、人間の造り上げたレンガの街並みの広がる、正確精緻な写生の美しい「デルフトの眺望」
印象的な明暗のなかで、美しい女性が天秤をもっていることと、背後の絵が「最後の審判」であるということから、深遠さを感じさせる「天秤を持つ女」


フェルメールにはほかにも有名な作品が多いけれど、自分には、美しい絵には見えなかった。
ただ、実物を見たことはなかった。
印刷物だけであった。


ところが、入館待ちの行列を見たら、入りたくなってしまった。
「どれくらい混雑しているんだろう」と恐れたけれど、それほど待つことも、人込みによって嫌なこともなく、見て回れた。


フェルメールがふつうの人を描いた、いわゆるフェルメールらしい絵は、思っていたよりもよかった。
びっくりした。


今回来ていた絵も、わたしからすると、やっぱり女性の顔は、美しくないから。
男たちもだらしなくて、かっこよくない。
描かれている人の顔や、表情、プロポーションで、夢中になる絵ではない。
裸のカラダで魅せているミロのヴィーナスや、完璧な美形に惹きつけられるレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画といった、歴史上の傑作群とはちがう。


フェルメールの絵のよさは、大きくはない窓から差しこむ、ぼんやりとした外光だった。
外の世界からの光。
それは、単に日光、というのではない働きをもっているように思った。


フェルメールが描いた場所は室内だけれど、そこで人は、手紙を書いたり、読んだり、男に外に連れ出されようとしていたり、リュート調弦しながらも、窓の外に惹きつけられるものを目にした一瞬だったりと、外の世界と[やや・半分]つながる行為をしている。


なぜ、やや・半つながっていると自分は思ったのか。
ぼんやりとして、柔らかく、強烈苛烈ではない光が、静かな感じを与えていたからだ。
光は目に見えるものなのに、フェルメールの絵の中では、静けさ、無音、あるいはかすかな音、そして、見ているこちらに落ち着きと安らぎを与えてくれるものになっていた。
この光の効果は、フェルメールがモチーフとしても好んだらしい音楽とも似ているのではないか。


光がもたらす静けさ、落ち着き、静物の感じ、静物感が、テーブルやいす、卓上の食べ物、人のあたりまえの行為を、すてきなものに、ちょっとしたよいものに見せていた。

富裕層でなくとも、現代人なら着られるような服、食べられるような物、使うような机やいす、ふつうにする行為‥‥
ふだんは退屈で騒々しい日常生活に紛れ、価値を認められない卑俗なものが、実は持っている、すばらしい面。
それを伝えてくれる、フェルメールの絵はそういうすばらしい絵だった。


だって、「手紙を書く婦人」なんて、現代の風景にも当てはめられる(手紙を書く婦人と召使い)
一心不乱にケータイの画面を見たり、文字入力している若い女性。


フェルメールの絵は、自分の生活、わたしの生活を肯定してくれる。
たいしたことのない生活、とりえのない人生の日々、過ぎゆく人生の一瞬を肯定してくれる、と思った。


画中の人物には、悩みや困惑、不安、期待などのさまざまな、ただし、色鮮やかではない感情・思惑が見てとれる。
たいして美しくも気高くもない感情・思惑、人の心のさざなみが。
そして、描かれた「今」とは異なるドラマが絵の続きに予想されるように、人の人生は、本人にとっては苦しい悩みのくりかえしだということが。


激動する世界情勢とも、神話の英雄的な冒険、栄誉とも、宗教的な崇高さ(フェルメールも描いたような「マルタとマリアの家のキリスト」。貧しい者、何も持たない者もきちんと愛するキリストみたいな)とも、科学や政治に関する人間の偉大な業績とも関係のない、ささやかな、けれども愛おしく思える人生が。


フェルメール以外の画家の絵もおもしろかった。
奇妙な建物。
心の落ち着く街の風景。
大きな教会の内部。
それから、犬。
犬はなんと立派な教会の中にいる。
それも、わたしの好きな、たれ耳の大型犬たち。



直に見たフェルメールの絵(ただし、宗教画・神話画を除く)の印象は、今も残っている。
会場では、「神は死んだ」なんて言葉が浮かんだ。
現存する三十数点の絵を、世界中に求めて見に行くという日本人たちの気持ちがわかる気がした。
英雄・偉人にもなれない、神にも近づけない、そもそも関われもしない、けれど、わたしたち人間の確かな生。
そういう生の確かさに、ふれることができるから。
光の画家は、やっぱりすごかった。