画家ポントルモの食日記をよむ

画家の日記2 ポントルモ
 
ルネサンスの画家ポントルモの日記』中嶋浩郎訳・宮下孝晴解説 白水社、1991年


 前、デューラーの日記について書いたが、画家・ルネサンス・羅列・日記、というつながりで、ヤコポ・ダ・ポントルモの日記(Diario)を思い浮かべずにはいられない。
 ポントルモはマニエリスムを代表する画家である。私の印象では、優美だけど、幽霊のような不安げで生気のない聖母子の絵などを描いた。


【粗食すぎるメニュー】
 そんな彼が日記に書いたのは、食べ物のことばかりである。
「1月31日 卵。 2月1日 卵。」
「夕食にブタの舌を食べた。」
「金曜日、パンを14オンス。」
「夕食をとらなかった。」
「土曜日の晩から断食。日曜日の晩に肉のローストを少し食べるまで。」


・・・・・・。


 ポントルモが生涯を過ごしたのは、イタリア。美味しいイタリア。地産地消、山野と海川の幸を豊かに味わうスローライフの国だ。
 しかも、ポントルモの住まいは、片田舎、寒村ではない。「大衆食堂タヴェルナ」「居酒屋」(いずれも文中の語)もある花の都フィレンツェである。
 地位だって、メディチ家の仕事をまかされるくらいだ。
 なのに、おせじにも質素とは言いかねる食事。あまりの粗食ぶり、食の貧しさが強く印象に残り、その点で、わたしにとって“名日記”である。



【ごはんの感想がない!!】
 感想がほとんど記されていないせいもある。あっても「うまい」「うまくない」「とてもうまい」ぐらいなのだ。
 もし、「きょうも魚の形のオムレツだった。でも、黄色い生地から湯気がたち、あたたかった。一切れ運ぶと、口の中で、卵のなんともいえぬ滋味が広がった」とか書けば、よかったのに。(そうか?)
 このオムレツの表記だってポントルモは「卵の魚」である。
 貧相なメニューの羅列、いまひとつ食指が動かない言葉、文章のオンパレードの日記なのである。



【読んでいて食欲でなく、怒りがわく】
 それどころか、怒鳴りたくなるところもある。


 「火曜日はとても寒くて夜には雪が降った。私は家でキャベツを食べた。」

 
石造りの街の、そんな寒い晩にそんな食事を摂るな!
 「ソーセージ1本」なり、「砂糖大根の葉のソースをかけた卵の魚」、あるいは「卵を二つとパンを10オンス」。
 せめて「ゆでたカボチャ」、「バターと一緒にゆでたパン」をつけろ!


 だいたい、そういう時こそ、「小鳥を2羽」なり「牛肉」なり「山鴫(しぎ)」なり、「羊」なり「水鶏(くいな)」なり「豚肉のロースト」なり「野鴨」なり「七面鳥」なり「大きな魚を1ぴきと小さな魚のフライをたくさん」なり「山羊」なり「ゆでたツグミ」(鳥)なり「大きな鳩」なり「鶏」なり「野ウサギ」なり「うなぎのロースト」を。
 そして、スープに「ミネストラ」(ミネストローネ)。
 デザートには「赤梨のタルト」なり「インティンゴロにつけた焼きリンゴ」を食べろ!
 キャベツしかなかったとしても、あたたかくゆでて、バターをかけたキャベツ、くらい書け。書き給え(泣)


 他人の日記であっても、そう書かれていれば、読者はホッとする。この画家への高い評価、必ずしも幸福ではない家庭生活を少し知っていれば、なおさらである。
 そして、読者は自分の夕ごはんに強い関心と健康な食欲を感じるだろう。
(わたしはピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』をそのような目的でも愛読する者であるが、この本はベストセラーであり、そういう人は多いと信じている)
 だが、ポントルモの日記の場合、この孤独で貧相な食事の記述こそが、わたしにこの本を開かせ、愛読書コーナーに置かせているのである。
 


【変人の会食】
 ジョルジョ・ヴァザーリの『芸術家列伝』によれば、ポントルモはかなり人嫌いだったらしい。自宅の2階のアトリエ兼寝室は、階段がかかっていたが、ポントルモは自分が上ると、滑車をつかって、階段を引き上げてしまっていたという。変な家だ。


 彼の晩年につけられたこの日記には家族が出てこない。いなかったようだ。
 そういう淋しい生活を思うと、人との食事、とくにブロンズィーノとの会食の記述に安心してしまう。ポントルモは、人と食べることも結構あった。
 その特定の人物の中でも、ブロンズィーノとの食事が多い。彼(アンドレ・ブロンツィーノ)は、わたしでも知っているような有名な画家である。優美だけど、首の長い女性を描いたイメージがある。 


 会食のことは結構出てくる。前、寒い夜にキャベツのところで、「 」つきで、列記したさまざまな肉や料理は、そのときのものが多い。
「ダニエッロの家で34ソルドのとても旨い子山羊の肉を食べた。」
ほかにも、サラダ、チーズ、メロン、ブドウといった果物、ワイン、「すばらしいクレスペッロ(クレープ)」なども摂っている。


 しかししかし、さすが変人ポントルモは。
「友人との食事はポントルモの健康にとって危険でもあった。」
 中嶋さんはあとがきにこう書いて、例を引いている。
「日曜日(略)食事(略)フィアスコのワインを1本ピエロのところへ取りに人を行かせた(略)火曜日の晩まで断食した」
 メニューは一切記されていない。きっと自己嫌悪で書きたくないほど、豪勢だったのだろう。




孤食と断食】
 したがって、ポントルモ一人のときの食事は貧相である。こんな記述もある。


 「金曜日は仕事をして、聖ラウレンティウスの日の前夜だったので断食をした。
 土曜日、この日熱が出たようで胃の具合が悪かった。
 日曜日の朝起きるとすぐ服を着て、菜園に(略 人物の)デッサンに行った。かなり涼しかった。寒さに堪えていたからだろうか、胃の調子がおかしくなった。(略)朝から気分が悪くて熱があるようだった。
 月曜日の朝、熱があって胃の調子が変だった。」


 その生活が原因ではないのか。最高の美をめざして描き続ける老人の身に、断食がよくなかったのではないか。金曜日から日曜日のブロンズィーノとの夕食まで、ちゃんとしたものを口にしていたのか。




【それって医食同源?】
 “医食同源”というのに、ポントルモは


 「木曜日は夕食にパンを15オンス食べた、
 金曜日、パンを14オンス。
 土曜日は夕食をとらなかった。」


 「(日曜日)昼ブロンズィーノとパンを6オンス食べて、晩は食事をとらなかった。
 月曜日、寒さと風と雨が一層ひどくなった。晩ダニエッロの家でパンを6オンス食べた。
 火曜日(略)晩パンを10オンス食べた。」


 というように、なんとパンばかり食べている時もある。ぜひ、この高名な画家には現代の日本に生まれ変わっていただき、昨今の“食育”ブームを体験してもらいたい。




【健康オタク?】
 驚くまいことか、この人は体調を崩した後、こう書くのだ。


「良い天気が長く続いて、ずっとたくさん食べていたからかもしれない。それでこの日から少し注意して、30オンスのパンを3日食べることにした。つまり1食に10オンスで1日1食、それに飲み物を少し。」


 ・・・・・・・
 あのー、原因の推測と、戒めの方向性がまちがってはいませんか。


 そもそも、このポントルモの日記は、冒頭に文章が置かれている。それは、決意表明のような訓戒のような文章である。


 いわく「食べる量が多すぎたりすると、数日の間に死んでしまったり病気になったりすることがある。」 なお、これは最初の1行めの後半。
 いわく、「具合の良くない時には肉、とくに豚肉を食べるのがあまり頻繁になってはいけない。」
 いわく、「食べる量を減らしたり、四季の斎日の定めを守って断食したりしてすぐに治療するのだ。そのようにしなかったら後悔するすることは分かりきっているのだから。
 それから、眠気と体がふくらむような胃のもたれを感じて、満腹になったと思うことがある。それは行き過ぎた健康状態だから注意しなければいけない。」


 ・・・・・それは、たしかに“腹八分目”は大事だろうけど、人間にとって、もっとも心地よく幸福な状態でもあるのではないだろうか。
 ともあれ、ポントルモの日記は、彼の健康日記、メディカル・チェック、カルテ、処方箋ともいえそうだ。彼なりの医食同源、食餌療法を実践続行するためにつけていたのではないだろうか。




【晴天を憂える画家】
 日記から読みとれるのは、病気と死への恐れである。
 だからか、こんなことも書いている。


バティスタは晩に外に出かけたまま私の具合の悪いことを知りながら戻ってこなかった。私はこのことをずっと忘れないだろう。」


 体調が悪くて不安で大変だったと思うが、なんだか怖い。
 つぎの文章は驚き。


「気持ちのよい風が吹いて穏やかな晴天になった。この天気は8日間続いた。それまでの1か月間はずっと毎日雨が降り続いて(略)だからこの良い天気は人が大勢死ぬようなひどいカタルを引き起こす。」


 ええ〜!? 良い天気にあっても、病気とたくさんの人の死を厳かに予言する画家なのであった。




【オースティンの小説とポントルモ】
 18世紀初頭のジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)の小説には、病気がち、というか、病気に深〜い関心のあるキャラクターたちが登場して、しゃべりまくり、喜劇性、おもしろさを増幅させている。
 たとえば、『エマ』の姉と、父のミスター・ウッドハウス。『サンディントン』のきょうだい。
 彼らは、一様に、かかりつけの薬剤師、医者のことを口にする。かれらの言葉を金科玉条にしているのである。


 でも、ポントルモの日記には、医療関係者が出てこない。それから、ふつう俗耳につもっていくような、「だれそれがどんな病状で死んだか」「どんな医療、どこの医者、どんな食べ物で助かった」といううわさ話もでてこない。
 ポントルモの日記には他者の介入みたいなものがないのだ。
 いうなれば、ポントルモ自身が自分の治療方法を確信し、厳しい治療を強制する医者みたいな存在である。
 もしかしたら、自分で自分の行動をコントロールして、生ある身体を維持することに気持ちよさを感じていたのか。三島由紀夫のように。
 


【箸休め オースティンのアーサー】
 食べ物のことばかり責めるわたしは、さしずめ、オースティンの絶筆『サンディントン』にでてくるアーサー(パーカきょうだいの末っ子)に近い。
 彼は若いが、安楽を愛し、安楽が死との綱渡りともいえる自分の身体に重要な医療であるかのように行動する。きわめて重々しく。

「お茶が運ばれるとたちまち大きな変化が起きた。青年の彼女への関心は露のように消えてしまったのだ。(略)自分用のココアをとり、身体を暖炉の正面に向けて腰を下ろし、ココアを気に入るまで温めながらトースト立てに入っているパンを数枚手にとって念入りに焼いていた。(略)よしよし、という満足げでうれしそうな呟き声しか聞こえなかった。」
 『サンディントン ジェイン・オースティン作品集』谷田恵司・津久井良充訳、都留信夫監訳 鷹書房弓プレス、1997年)



【絵画制作日誌】
 さて、ポントルモの日記は、わたしにとっては、食と健康の記述が特異に感じられる日記である。
 けれども、彼がすぐれた画家であったことを思うと、日記には注目すべき記述がたくさんある。当時、彼はコジモ1世の依頼で、サン・ロレンツォ教会(メディチ家菩提寺)の内陣のフレスコ画制作にとりかかっていた。
 日記にはその進捗状況がしょっちゅう挿入されている。
 そして、時には彼の喜びの声も。
「頭をやり直した。覚えておきたいほどの出来だった。」



 絵画をめぐる記述のほうが食べ物についてのそれより、ずっと自然に感じる。心の赴くままにのびのびと書いている肉声のようだ。
 多くの人は、美味しいものを食べた時にそうなるのではないかと思う。

 
 ポントルモの日記で、わたしたちが見るのは字だけではない。デューラーの日記で失われてしまったが(公刊された武田百合子さんの『富士日記 不二小大居百花庵日記』もそうだが)、ポントルモの日記にはイラストがたくさん描かれている。
 彼の直筆の日記が現存しているからだ。
 そのイラストとは「簡単なデッサン」(本書)で、人体のフォルムである。
 わたしはアンリ・マティスのヌード像を思い出す。しかし、わたしの俗な目からすると、絵としては上手に見えない。体の各所はまるみを帯びて、かなり太っている。そんな人が日記の余白にごろんごろんと横たわっている感じ。
 日記からは、ポントルモが絵を描く事がほんとに好きだったことがわかる。その点はうらやましい。




【おわりに】
 本書には、絵画と彫刻の優劣について述べた文書(書簡)も収録されている。ところが、これが日記のシンプルで無味乾燥な文章とは違って、別人のようなのだ。
「輝く火、篝火などの明かりが映える夜、大気、雲、遠くの村や近くの村、様々な遠近法の規則による家々、さまざまな色彩の他種類の動物、その他可能な限りの物を描いて、画家は制作する1枚の歴史画の中に自然が決して行わなかったことを成し遂げようとするのです。」

 本書にはこうある。「そのデリケートで巧妙なレトリックに、『日記』からだけでは窺えないポントルモの知性と感性が現れているように思えてならないのである。」


 現存するポントルモの絵画も、彼のすぐれた才能、努力を示している。10数ページの日記帳と、書簡と、絵画。彼自身が遺した多方面のものをみることで、やっと、ヨーロッパ美術史上名高い一人の人間のことがわかるのだ。
 

教会のフレスコ画は、ポントルモが死んでしまったため、未完に終わってしまい、ブロンズィーノが完成させたものの、後世の工事の際、失われたという。



【レビュー】
本書にはわたしの駄文よりずっとすばらしい評が紹介されているので、そこから一部を引用したい。


「1554年から1556年にかけて、フィレンツェの画家ヤコポ・ダ・ポントルモは、おそらくかつてヨーロッパの芸術家が遺した最も注目に値する日記を、書き綴った。
そこに語られているのは、ほとんど、この畸人の自ら料理したけちくさい食事や、断食日や(略)である。
そしてルネサンスの調和的世界の最初の重要な<脱獄者>であるこの男は、こうした類のさる事件のために<打ちのめされた>ことさえあったのである。
これほど貧乏ったらしい、これほど単調な、また同時に<人間的>という言葉のごく初歩的な意味で、これほど人間的な記録というものは、まず想像できないだろう。」
種村季弘矢川澄子訳 『迷宮としての世界』冒頭 グスタフ・ルネ・ホッケ著


『これほど貧乏ったらしい、
これほど単調な、
また同時に<人間的>という言葉のごく初歩的な意味で、
これほど人間的な記録というものは、
まず想像できないだろう』