『迷宮+美術館 ─コレクター砂盃富男が見た20世紀美術─』

今後はhttp://www.geocities.jp/utataneni/art/new.htmlで加筆訂正していきます


第1会場:高崎市美術館、第2会場:群馬県立近代美術館群馬県庁昭和庁舎)(2006・9・17〜10・22)
渋谷区立松濤美術館(10・31〜12・10)
(砂盃=いさはい)


 昭和庁舎にたまたま入ったら、とてもよかった。作品もよかったけど、何か勇気みたいなものがもらえて、それが一番よかった。
 勇気というのは、コレクションする勇気、とでもいうものかもしれない。狭い見方に脅えず、服従しない勇気。服従する対象は、他人や世間の見方、そして、わたし自身の見方である。
 その中で、最も屈してしまうのが、わたし自身の目であり、自分の中にある偏見、世間体を大事にする心だ。心は安楽を求めて、すぐに曇ってしまう。曇っちゃうと、その曇りに気づかない…


 とはいえ、自分はアート・美術品をコレクションしているわけではない。せいぜい、ミュージアム・ショップで絵はがきを買ったり、それからコンビニで売っているようなお菓子の箱などで、気に入った物をまわりに置いているだけだ。
 それはささやかなものに過ぎない(家族はゴミという)。しかし、人には、わたしが強いこだわりを持っているように見えるかもしれない。
 本当は、小心者で、負けやすい人間である。

 この展覧会は、わたしがどのような“コレクション”をしていけばいいか、示唆を与えてくれた気がする。
 わたしは石を拾い、たあいない置物なども買ってきた。それらの“はかない”物は、わたしの部屋の中を占め、埋めつつある。自然にコレクションを形成しつつあるように、自分では思っていたかもしれない。
 しかし、既存のすばらしいものを知らなければ、明確なものは作れない(わたしは)。この展覧会は、自分の近くには、大きな空が広がっていることを教えてくれた。
 ふつうの人がここまで美をコレクションしていけるということを。


 群馬県で日銀(ニチギン。日本銀行)に勤めていた人で、しかも、前衛的な現代美術の創作活動をおこなっていた人を「ふつうの人」とは言わないかもしれない。ただ、この展覧会とカタログからは、わたしがメディアの断片的な見聞からイメージするようなコレクターや、作家や、美術商(バイヤー)や顧客よりもずっと、ふつうの人を想起させられたのだ。




 写真をみると、砂盃さんを何度かお見かけしたことがあるかもしれない。群馬県立近代美術館の講演会や、土屋文明記念文学館などで。もしそうなら、前方の席に座ってらした方だ。
 しかし、このようなコレクションを作っていた方だとは考えたこともなかった。わたしの人間を見る目というのは、自分の浅薄さの反映にほかならないのだなあ。
 人間の内面には、計り知れない精神のきらめき、豊穣さがあることをあらためて考えされた。
 そして、アート・美術はそのことをはっきり教えてくれる。とくに個人が生涯、つくりあげてきたコレクションの全貌は。



 高崎市美術館を出たあと、買い物をした。気に入った物を探したり、いくつかの中から一つを選ぶために、何時間も使って、夢中になって買い物をしていた。季節の新しいファッションを見るのも楽しかった。
 帰るとき、わたしの心は買い物の興奮と思い出でいっぱいになっていた。展覧会での感動は、味気なく感じられ、消え失せていた。
 ところが、時間が経つと、「感想を書きたい」という思いが湧いてきた。そして、買い物の詳細な記録とその間の心理の推移・振幅などではなく、この展覧会の感想を書いたのだ。ここにも、人に何かを言わせたくなる大きな力をアート・芸術が持っていることが見てとれるのではないだろうか。



これを書くにあたり、本展のタイトルが「迷宮美術館」ではなく、「迷宮+美術館」であることを知った。カタログの「+」は飾りではなかったのだ。
今後、よかった作品についても書きたいです。