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富士桜高原と軽井沢のブンガク

以前のものを書き直しました。
今後は↓で加筆修正していく予定です。
http://www.geocities.jp/utataneni/Yuriko_Takeda/etc6.htm

武田百合子さんあれこれ

今夏、群馬県立土屋文明記念文学館で『開館10周年記念〜北軽井沢より〜岸田衿子 野の花の道』という企画展が開かれた。ポスターの熊のかわいい絵、岸田さんの詩や田舎暮らしに憧れて訪れたのだが、そこで思いがけず、武田百合子さんについて考えさせられた。





○富士桜高原と北軽井沢大学村○

 企画展のテーマの北軽井沢は、「大学村」のことである。大学村とは、昭和初期に当時の知識人たちが住みはじめた浅間山麓の別荘地で、関係する有名な人としてはよく、野上弥生子・豊一郎、谷川俊太郎、佐野洋子、大江健三郎、岸田今日子、武満徹か小澤征爾などが挙げられる。日本の近現代文化を代表する、そうそうたる顔ぶれともいえる。
 しかし、パネルの人名には一見して、武田泰淳さんたちの友人知人、交友の深かった人々、いわゆる戦後派作家はいなかった。




○アトリエ−富士桜高原○

 泰淳・百合子夫妻ははじめ、夏だけ、浅間山麓の軽井沢に近いともいえる角間で過ごしていたが、それをやめて、浅間山ならぬ富士山で山荘生活を始めた。
 その“不二小大居百花庵”に幾人かの作家や編集者(のちに文筆家になった人もいます)が訪れたことは『富士日記』からもわかる。
 そして、この富士桜高原には、後に大岡昇平さんも別荘を建て、両家のご家族は夏をいっしょに楽しく過ごしたりした。
 では、泰淳さんはここに「北軽井沢大学村」のような文化人・芸術家が集う場ができることをいくらかは望んでいたのだろうか?

 泰淳さんは、小説の創作のために日本の中心・イコンである富士山に住むことは意識したようだ。(富士を書くことについて)<堀辰雄が軽井沢を書いたような意味で、自分にもなにかができるかもしれない>と編集者に言った言葉がある(『武田泰淳全集 増補版 16巻』月報)。
 また、「大学村」の住民になろうとしなかったことから、当時の泰淳さんの出版界での位置、距離の取り方、文学志向の一端が読みとれるかもしれない。
 かつての文人たちの避暑地“軽井沢”とはちがうものを書こうと志向したところ、亜流や追随者にならない作家の気概がうかがわれる。




○泰淳さんの創作活動に貢献した百合子さん○

 泰淳さんは自分の見聞、思索を文章にするだけでなく、自分の作品を一層すばらしいものにするために百合子さんに富士日記を書くように要請、というか、
「おれと代るがわるメモしよう。それならつけるか?」
「その日に買ったものと値段と天気とでいい」と説得してみたり、
「日記をつけておいてくれ」(百合子さんと深沢七郎さんの対談)
などと懇願したのではないか。

 しかし、言葉をいろいろ変えて言ったという泰淳の日記こそとても少ないのがおかしい。「山にいる間だけでも日記をつけてみろ」といった泰淳さんはまるで学校の教師のようで、きっとご自分こそ日記書きは苦手、三日坊主のタイプだったのか。

 あるいははじめは、交換日記みたいなものを考えたのかもしれない(お墓には「泰淳百合子比翼之地」とすごい碑を用意したそうだし)。

 ともあれ、百合子さんの日記ばかりで占められているところからは、百合子さんの文章がほしいという泰淳さんの根本の意図がはっきりと読みとれるのではないか。

 百合子さんは、日記をいやいや書いた、というふうにも書いている。しかし、地元の人の話を記録として、テープで起こすように記している。泰淳さんの意図を理解し、創作活動のために応えていたのだ。
 むしろ、そのことを隠すために、いやいや書いた百合子さん像を表していたのでは、と勘繰ってしまう。




○泰淳さんのナビ 百合子さん○

 百合子さんの献身のおかげもあって、富士山をめぐるいくつかの文章のあと、『富士』という傑作が、富士山のマグマのようにこの世に現れた。(泰淳さんが「富士を書いてみたい」と『海』の編集者に伝え、近藤信行さんが富士山をめぐるいろいろな文献を持参し、『海』創刊号で読者に『富士』未完成を謝罪してから、さらにロシア旅行をはさんで完成までだいぶ時間が経ったようだ。)



 泰淳さんの『新・東海道五十三次』ではドライバーをつとめた百合子さんが、『富士』では作中人物としてよりフィクション化されて登場し、最後の『目まいのする散歩』では泰淳さんに寄り添って共に歩いている。
 百合子さんは、小説家の精神(スピリット)にインスピレーションを与えるミューズというより、“目まい”がするようになってしまったけれど、鋭い思索をする泰淳さんにとって、支え、補う見者(seer)、この世の中の海図を見せてくれるナビゲーターだったように思う。

 『富士日記』のもとの日記も、『犬が星見た』のもとの日記も、泰淳さんの作品に用いられている。
泰淳さんは百合子さんの文才が活字化に値することを見抜いた、もっとも最初の人だ。女学校でも百合子さんの才能は知られていたが、やはり、職業作家として活躍していた泰淳さんの評価はちがっただろう。
 百合子さんの文章を断片化して、自分の作品に巧みに挿入した泰淳さんはパソコンのコピー・アンド・ペースト(コピー・貼り付け)をおこなったともいえる。自分の文学観に即した切り取り方からは、すぐれたスキャナーだったともいえるだろうか。




○百合子作品のいちばんの読者は○

 人にはそれぞれ文章の読み方、活用の仕方がある(わたしは高校生だったとき、好きな小説の一節をお守りの袋に入れていた)。泰淳さんは百合子さんの文章によって思考を進化させていたことだろう。

 けれども、百合子さんのもっとも読者らしい読者は、大げさに言えば、わたしたち。ふつうの人々ではないだろうか。百合子さんの作品から純粋に、楽しみや安らぎや笑いなどをもらっているという点で、ふつうの読者こそトップにちがいない。

 その最初期の「読者」は、埴谷雄高さんや村松友視さんなどには批判されたが、大岡信さんではないだろうか。
 朝日新聞の文芸欄の大きく割いて引用し、無名夫人の文章を称賛している。きっと愛読なさったのだろう。
 記事内の3つの見出しのうち、2つめの見出しは「百合子夫人の「日記」も描写鮮やか」。ほかにも<不安のぞく「日記」>という小見出し。本文では、3つ目のセクション(前書き、小見出し付きの文?のつぎ)でとりあげ、「感銘を受けた」などとお書きになっている。しかも、「描写力」を評価しているが、それは出来事や人物の外面を精細に記録しているということではなく、泰淳さんの体調の変化を前にして、百合子さんの胸に去来するものまでたくみに表現されていることをふまえて評価しているのだ。

 ‥‥けれどももしかしたら、大岡さんの「感銘」は「すべての武田氏の近作を口述筆記してきた妻が、おそらく知らず識らずのうちに体得した文体」という発見が大きな割合を占めていたのだろうか?
 また、泰淳追悼号の諸氏の文章ではなく、身内の夫人の文章を誉め称えることで、主婦の奥さんにまで文章力を感化させた作家としての偉大さも称えたのだろうか?  ‥‥今のわたしにはわかない。謎です。





○大学村化しなかった富士桜高原○

 さて、富士桜高原は大学村とは作家の創作拠点だった別荘、という点で似ているが、いまも存続しつづけるという点では対照的な感がある。そのことは、さびしくもある。

 しかし、『富士』の後にもまだ名作が生まれた。
 百合子さんの『富士日記』とそのほかの山荘生活エッセイである。

 “百合花亭”からは百合子さんのすばらしい作品も誕生したのだ。
 単行本未収録作品をふくめて、富士山荘生活をつづった百合子さんの文章の魅力のひとつは、富士山麓が「大学村」化しなかったことにも求められるかもしれない。
 武田山荘の周辺の別荘や、地元の住人たちは文筆業や芸術家とは関係ない、一般のふつうの人々だ。たとえば、ガソリンスタンドのおじさん、そして、わたしの最も愛すべき外川さん。
 そういう人々とのできごと、様子、言動の記述は興味深い。長年に渡る交流からくる親愛感。個性的で、でも、わたし達もどこかで似たような人を知っている感覚。人間のおもしろさ、人間という生き物のふしぎさ。束の間に生き、老いる。生きていることのいとおしさも感じる。

 とくに今回、『富士日記』より後の山荘生活を描いたエッセイのいくつかを読みかえしたら、思わず読みふけってしまった。

○<二年ぶりに、富士の山小屋で夏を過ごした>とはじまる「二年目の夏」(『新潮』1978年11月号)

○外川さんとの再会の記述が感動的な「五年目の夏」(『新潮』1982年9月号)

○映画をめぐるやりとりがユーモラスな「富士山麓の夏」(『大岡昇平集』の月報1982年7月)

○発表時期不明の「北麓の晩夏から秋」(『新編日本の随筆紀行』作品社。執筆時期は1985年か)。

 これらの単行本未収録のエッセイも、やっぱり“本編”の『富士日記』におとらず、魅力的だ。
 『富士日記』上巻の出版当時、雑誌のブックレビューで「十返」という方(十返千鶴子さんと思われる)が<読み終わってなお続篇が待たれる日記である。>と結んでいる。そのあと、発売された『富士日記』下巻についてもそう感じた編集者たちがいて、百合子さんに原稿を依頼したのだろうか。
 “富士山荘エッセイ群”には、泰淳さんをめぐる喪失感、悲しみが、硬質な文章とユーモアのある記述で表現されていて、『富士日記』の後日談(あるいは「附記」)として、べつの読み応え、深い味わいもある。




○舞台を用意した(?)百合子さん○

 富士山麓に別荘を建てることを考えたのは百合子さん自身だったという言葉があったような気もする。とはいえ、今回は見つからなかったが。
 下田市の海を臨む崖の上の土地(『富士日記』で百合子さんがひとりで行って、「役に立たない土地」という業者の言葉を黙って聞きながら、海を見て、車を飛ばして山荘に帰った場所)は、百合子さんが考えて購入したようだ。
 百合子さんはご自分が文章の貢献(献身ならぬ献文)の点でも、泰淳さんの創作活動になくてはならない存在であったことは言っていない。いつも、亡くなってしまった偉大で大切な夫、というスタンスで語っている。
 しかし、もしも、富士山荘の発案が百合子さんだとしたら、百合子さん自身が『富士』などの泰淳さんの著名な作品と百合子さんの“富士山荘エッセイ”を誕生させる重要な空間を用意したことになる。



○単行本未収録作品と、日記帳○

 単行本未収録の文章にも、百合子さんの眼の魅力がたっぷりとつまっている。また、新しい発見を与えてくれるものも少なくない。

 百合子さんのファンの方も、百合子さんをまだ知らない本好きの方もきっと愛読なさると思う。

 そして、『武田百合子全集』が作られる暁には、ぜひ初出順にならべるのではなく、山荘生活誌、東京見聞録、旅行記、文章観‥‥などと内容別に編集されると、より魅力的な読み物になるだろう。また、百合子さんのイラストや写真、原本の日記帳の複製も収録してほしい。(わたしは欲張りだろうか)



 今回、図書館で探し出してコピーしたり、遠くの図書館にコピーを依頼して入手した紙を探しだして、一枚一枚めくりながら、切実に願った。「早く読みやすい本の形で出版されてほしい!」。

 やはり、本という形態は、読みやすい。本というシンプルなかたちは、作品から多くの楽しみと発見を与えてくれる。

 『富士日記』のもとの日記帳には、百合子さんのイラストが多くあるそうだ。また、もしかしたら、活字にされなかった記述もあるかもしれない。『富士日記』の日記帳がいまも残っているのなら、ぜひ公開してほしい。
 本の『日日雑記』と、『日日雑記』が連載されていた雑誌『マリ・クレール』の当時の文章を比較すると、削除されたエピソード・記述がいくつかある。百合子さんはわりと常識や一般的な道徳によらず、山下清の文章とおなじように、“コドモ”の曇りのない眼で見るが、のちに“オトナ”として配慮から変更した箇所がけっこうあるのかもしれない。
 たとえば、『犬が星見た』の連載第2回の「附記」もやや激しい物言いで、百合子さんの文学観をよく語っている。わたしは当時の雑誌『海』を読んだとき、ショックを受けた。しかし、どのヴァージョンの『犬が星見た』にも収録されていない。このこともとても残念なことだ。

 なお、わたしの入手した『日日雑記』の直筆の草稿は、いずれはしかるべき所に寄贈したいと思っている。
 (とりとめない文章ですみませんが、忙しい日々の生活の中で流れていかないように、武田百合子さんについて、現在の雑感を書いてみました)

2006/10/16UP