http://www.geocities.jp/utataneni/Yuriko_Takeda/etc4.htmlより。
今後は↑で加筆修正していく予定です。
島尾ミホさん
『死の棘』で知られる作家、島尾敏雄さんの夫人。作品に『海辺の生と死』など。
写真家の島尾伸三さんは息子さん。漫画家のしまおまほさんはお孫さん。
『富士日記』の最後のほうには、ミホさんのことがけっこう出てくる。その言及は、一見さりげなく見えるが、実は重要な意味を持っていると思う。記述を抜粋してみる。
1976(昭和51)8月3日の末尾 夜、ミホさん〔島尾敏雄夫人〕に手紙を書きはじめ、しばらく書いて破る。高枝切りに熱中しすぎたためか、首と左の手のひら痛い。 |
8月4日の日記より テレビのお国自慢なんとかという番組で名瀬からの放送をやっていた。名瀬の少女が沖縄の歌を歌ったが、利発そうな美しい顔だちと礼儀正しいふるまいと真直ぐに向いた光る目が、ミホさんの少女の頃はこんな風だったろうと思わせた。 |
8月9日の日記の末尾 夜、裏返しのワンピースを縫い上げる。ミホさんに手紙を書きはじめてやめる。眠くなる。 |
8月28日の日記の末尾 新潮社パーティーのときの写真(開高さんと写っている)が送られてきた。「俺、やせたんだなあ。洋服がぶかぶかで天皇みたい」と何度も写真を眺めて言う。秋から和服きて会に行こうかなあ、と言う。「島尾ミホさんから頂いた大島紬が揃っているから、大丈夫だよ。でも着物きたら草履はかなくちゃダメ。前に着物きて出かけて行くのを見た人が、武田さんがさっき歩いていったけど、何だか変だ変だと思ってよく見たら、靴はいていましたよ、と私に教えてくれたんだから。着物で靴はくと神主さんみたいだから」と言うと、「草履は足がすべって前に進まないからめんど臭い。靴がいい」と言う。ときどき、不安が一杯の、手探りだけの、ざるで水を汲み続けているような私。 |
8月28日の日記の冒頭 夜、ミホさんに手紙を書いてやめる。 |
8月30日の日記の末尾 ミホさんに手紙を書いてみて、またやめる。三月の反物の御礼がまだ書けない。 |
紬とは、島尾ミホさんの故郷、奄美大島の大島紬だろうか。
日記には、紬のお礼の手紙が書けないでいるという記述が目につく。文才豊かな百合子さんが、なぜ、おなじような作家気質のミホさんに書き上げることが出来なかったのか?
それは、夫君の武田泰淳さんの体調が目に見えて悪くなり、その悲しみ苦しみが心を離れなかったからだろう。
お礼状を書けば、必ず泰淳さんに言及しなければならない。上の引用にあるように、ミホさんは百合子さんの愛する泰淳さんに着せてあげるように、紬を贈ったように思われるし。
この年は、『富士日記』において重要な年である。1964年からはじまった『富士日記』最後の年であり、この夏は富士山の山荘で泰淳さんと過ごした最後の時間(とき)だからだ。
前に引用した日記のあと、泰淳さんの病状はさらに悪化し、ついに東京で、百合子さんはお医者さんから、ガンの末期であることを告げられる。そして10月5日、百合子さんの看病もむなしく亡くなったのだった。
『富士日記』は単なる生活の記録や資料集ではなく、文芸作品、すばらしい読み物として輝いている。文芸として、もっとも価値があると思う。
そう思わせる記述のひとつが、1976年の夏および晩夏の日記である。「朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。」(9月21日)と結ばれるまで、衰弱していく泰淳さんを思う百合子さんの文章は、読者の胸を打ってやまない。
たとえば、百合子さんはのちに映画評が連載されるほど、映画が好きだったが、1976年は1年ぶりに映画館へ行った。映画は『ジョーズ』。富士吉田町の映画館から帰宅したときの描写が印象的だ。
真っ暗な庭を下りて来ると、風呂場にも納戸にも二階の二部屋にも灯りがついている。仕事部屋も雨戸を閉めずに灯りがともしてある。主人が家中に灯りをつけて足許が危なくないようにしてくれている。真暗な水底に灯籠が沈んでいるみたいに見える。「これが私の家。これが私の家」と胸の中でつぶやき乍ら、くらい庭を下って来る。若いときはそうでなかったのに、去年頃から家を留守にして夜帰って来るときはいつもそう思う。(8月7日) |
あるいは、中村紘子・庄司薫夫妻が訪れたあとのくだりに挿入されているこんな短文。
来年、変らずに元気でここに来ているだろうか。そのことは思わないで、毎日毎日暮らすのだ。(8月13日) |
また、前にも引用したつぎのような一文どうだろうか。
ときどき、不安が一杯の、手探りだけの、ざるで水を汲み続けているような私。(8月28日) |
このほかにも、何度読んでも、胸が締めつけられる文章は多い。
百合子さんが少女時代に書いていた詩文や、のちに作家となって幼少時代・女学校時代を描いたエッセイからは、百合子さんが家庭の人間関係からくる、なにか寂しさを抱えていたようにも感じる。
第2次世界大戦の敗戦によって、裕福な商家のお嬢さんであったろう百合子さんの境遇、人間関係はおおきく変わった。村松友視さんの評伝『百合子さんは何色』によれば、泰淳さんとの出会い、結婚をめぐっては苦しみ、苦労もあったようだ。
1964(昭和39)年から、東京の都会にある自宅と、富士山麓の家を行き来する穏やかで充足した暮らしを楽しむようになった。そして、前に引用した「これが私の家。」という湧き上がるような感慨をもつようになった矢先なのだ。泰淳さんとの別れが近づいたのは。
1976年の日記には、そのことに気づきつつも、直視したくない百合子さんの心のゆらぎも見てとれる。
百合子さんは別れが近づいてくる不安を押し隠して、泰淳さんに明るくやさしく接していた。
しかし、島尾ミホさんは感性の鋭敏な人であり、ミホさんに宛てた手紙では、それができなかったのではないだろうか。
また、百合子さんにとって、文章はたいせつなものだった。社交辞令ではない、本当の文章には、嘘を綴れなかったのではないだろうか。
ただ、「ものを書くのがイヤな私は家計簿すらつけなかった」と書いている(9月9日の記述のあとの附記)。
『絵葉書のように』(『私の文章修行』所収)でも、『富士日記』の執筆について“明かしている”が、上のような“事実”が“補強”されている。
そして、亡くなるまで、自分は作家の妻で、文章の素人が書きはじめた、という態度をとっていたように見える。
実際、百合子さんが逝去したとき、主婦が偶然、家計簿的な日記『富士日記』を発表してスタート、というような人物評もあった。
しかし、泰淳さんの作品を読めば、百合子さんの文章が織りこまれていること、活用されていることは明らかである。しかも『富士日記』自体に記されているように、日記の始まりは、泰淳さんの言葉、勧め、見方によっては要請である。
泰淳さんはそれ以前に、百合子さんの手紙かなにかで、百合子さんの文学的な資質、文才を知ったのではないだろうか。
百合子さん自身が一生通した「沈黙」、あるいはおこなった「説明」は擬態であり、泰淳さんの“小説”に自分の文章を提供したという貢献を隠す、(でも泰淳さんの作品を読めば明らかなことだから、せめて)おおっぴらにはしない為だったと思う。
埴谷雄高さんなどの作家や編集者から、言われてもついぞ小説を発表しなかったのも、そのためではないだろうか。
原稿のやり取りや、出版関係者の接待、家事や日常生活、山荘購入などの生活の実務や、車の運転、美味しい料理、そういったものも泰淳さんの人生と創作に豊かさと深みを与えただろう。
だが、百合子さんにだけできたことは、百合子的なパーソナリティーを示すことだ。泰淳さんの大作『富士』をみても、百合子さんは、泰淳さんの創作のミューズである。この作品にも日記のことが出てくる。
そして、百合子さんというミューズは、日常生活をともにし、存在するだけではなく、もっとも百合子さんの資質を活かされた献身、おおきな貢献は、百合子さんの個性が発露された『富士日記』をはじめとする文章の寄与だったはずだ。
すぐれた作家の泰淳さんが目を留めたように、『富士日記』を書きはじめたときから、百合子さんの文章には光るものがあった。
そもそも『百合子さんは何色』をひらけば、女学校時代の詩文や、のちの書簡(体の寄稿?)から、百合子さんがすでに「書くこと」に目覚めて、書き方(対象の捉え方と、文体といっていいかもしれないもの)に関する、一定の感覚を習得していたことがうかがえる。
自分を表現する文芸に敬愛と畏怖の念をもち、一言一句を大切にして文章を書いていたからこそ、「ものを書くのがイヤな私」と記したのではないだろうか。
『絵葉書のように』に記された平明で美しい文章観、書き方の極意は、多くの読者の目を開かせ、感動させる。作家の金井美恵子さんの帯文(『武田百合子全作品3 富士日記)にあるように、
<「私でも書けそう」という甘美ですこやかな野望的共感を読者に抱かせ>るかもしれない。
すくなくとも、わたしはそれに近い気持ちを抱いたことがあるだろうし、そのような平明、明快、広がる野のように明るく快い文章だから、愛読してきたともいえる。
しかしながら、金井さんが書いたように、百合子さんがすでに文章に習熟していた人間だったからこそ、『絵葉書のように』に見られるような、すばらしい「書き方」を披露できたのに違いないのである。すばらしい叡智が示された文、たとえば聖書の文言、賛美歌の詞のいっていることがだれの心にも届くように。
また、世に現れたときから、質の高い文章を発表し続けていたのである。
(後に雑録的な『富士日記』や回想から、純度の高いエッセイへと変化していったが)
書けなかった理由は次のように考えられる。
泰淳さんの体調が目に見えて悪化していき、百合子さんは不安でいっぱいであった。泰淳さんの体調のことは他人には知らせられない。
かといって、真の物書きであるような百合子さんは、尊敬する友人に嘘をつきとおし、通り一遍のお礼状や、単なる社交辞令を書くことができなかった。
1976年の日記には、死に向かって衰えていく泰淳さんに対するつらい思いが吐露されていて、それまでの『富士日記』の記述とは異色だ。
ミホさんに手紙を書けなかったことと表裏一体のように、百合子さんはこの時期、「日記」を書いていたように思われる。
ミホさんのような敬愛する人への手紙にも書けない、不安、悲しみ、心のゆらぎ。
もう泰淳さんが創作のタネに読むことを想定した山荘生活日誌ではなく、もちろん、後日、誰かに見せるのでもない日日の気持ち。それは、百合子さんが一人、自分の心を鎮めるために書いた日記だったろう。
このようなことは、ちゃんとした読み手は『富士日記』を初めて読んだときから気がついていただろう。百合子さんの苦悩も理解していただろう。だから、この文の冒頭に書いた「重要な意味」というのは、わたしにとってなのである。わたしは『富士日記』のミホさんについての記述を、百合子さんは実は彼女が苦手だったのだろうか、あるいは、文筆家として立つ前から私信でも文章の一言一句を磨いていたのだろう、と思っていた。
“最後の夏”に、山荘で百合子さんがミホさんへの手紙を何度も書きかけてやめてしまった意味。
若かったわたしはちっともわからず、それどころか、お恥ずかしいほどのひどい誤読をしていた。今回、そのことに気づいて、大きなショックを受けた。
なお、富士山荘の「不二小大居百花庵」に直接、ミホさんが訪れたというエピソードはない。
のちに百合子さんは、1981(昭和56)年4月、日本読書新聞1面の3回連載の〈わが友〉欄へ、深沢七郎をとりあげた次に「島尾ミホ 眼にいっぱいの涙 端然と座った姿勢のままで」を書いている。
その文章に書かれている、百合子さんが島尾マヤさん(ミホさんと島尾敏雄さんの娘さん。2002年8月逝去。)へ、30年近く前に贈った「ぽっくり下駄」のことは、島尾敏雄さんが『武田泰淳全集 増補版 十五巻』の月報に「或る縁にし」という文章で書いている。
ミホさんのほうも、1985年の書評で、当時出版された百合子さんの3冊目の本、『ことばの食卓』を高く評価している。
このように、公開された文章からも、ともに高名な小説家の夫人で、後半生を個性的な書き手として活躍した、お二人の長い交流がうかがわれる。
この文章を書いたころ(6月17日)、パソコンのむこうの網戸の外では、雨がしとしとと降っていた。雨露が裏山の木々の葉を揺らし、つたう音がはっきりと聞こえた。
あすの朝は、家のまわりの山の緑も、苗がそよぐ田んぼの緑も、一層あざやかで、目に眩しく、美しいだろうと思った。田んぼではカエルの大合唱がわんわんと響いていた。(この日は、我が家の田植だった)
草木も生き物もますます生き生きと溌剌としていく夏だ。
生命そのものであったような百合子さんは、夏が大好きだった。
<五月ごろ七月まで、金無垢の季節だ。> 1965(昭和40)年7月6日 <夏がまたやってきた。わけもなくうれしい。> 1967(昭和42)年5月31日 |
その夏に、全国放送のNHKで『富士日記』について放送されるらしいことを、本当にうれしく思った。
→2006年6月28日「ゆるやかナビゲーション ゆるナビ」NHK総合
[出演]しまおまほさん