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6月の田舎暮らし

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlに写真とともに掲載、加筆訂正もそちらで行なっていきます


 ふと、机のまえの窓をみると、ピンク色になっていた。毎年、こんなふうにして朝焼けに出会う日がある。

 今年も窓をあけて、外に出た。雲の海はピンク色から金色へ、変わっていった。
 まわりは緑に満ちている。集落をとりかこむ里山。庭の木々。水が満ち、広い湖のような田んぼ。そこに植えられている苗。
 空気は、しっとりとうるんでいるような感じ。
 いろいろな鳥の声。わたしも鳥になって、こういう気持ちのいい朝、思う存分鳴く鳥になりたい。

 美しい朝だった。

 ……徹夜で、これから昼間は寝るし、ってことで、食生活もメチャクチャなんだけど。
 シャーロット・ブロンテもイギリスでベルギーで、こんな朝を愛でただろうか。そして、他家で多忙でつらいガバネス(教師)のとき、「こういう朝をまた見たい、そこに没入したい」と願っただろうか。

 朝焼けはおわると、灰色の曇り空になった。



 このころ、『シャーロット・ブロンテと「大好きなネル」 ある友情の物語.』バーバラ・ホワイトヘッド(中岡洋監訳、開文社出版)を、気になったところだけ再読。

 まえは、『ジェイン・オースティン伝』クレア・トマリン(矢倉尚子訳、白水社)と比べ、『大好きなネル』は文章が簡素だと思った。ちなみに、『エミリー・ブロンテ―その魂は荒野に舞う』キャサリン・フランク(植松みどり訳、河出書房新社)は考察がすこし粗いと感じている。
 再読してみると、よかった。シャーロットとエレン・ナッシーのいろいろな場面での気持ちに共感した。孤独を感じると、従順で誠実で心優しい友を引き寄せるシャーロット。
 シャーロットは作家としての道が開けてまもなく亡くなった。そうならなければ、学校生活から誕生した女性同士にわりとあるようなこの友情は、どうなっただろう。

 当時の女性の活動についても、目を開かされた。学ぶためにブリュッセル留学したブロンテ姉妹はもとより、シャーロットの友人、メアリ・テイラーはドイツで働き、商売を営むためニュージーランドに移住する(のちに帰国)。

 エレンは保守的な良家のお嬢さんというイメージだったが、彼女も学校で教えたし、なにより、家族の世話に追われていたようだ。晩年もシャーロット関連で手紙を書いたり、忙しかったよう。

 アンの命があとわずかになったとき、海辺へ連れて行き、看取ったのはシャーロットとネル、まだ若いふたりの女性だった。「勇気を出すのよ、シャーロット、勇気を出すのよ」と言ったアンの最期を綴ったエレンの文章に打たれる。

 この本にところどころ記されているエミリーについての記述は、『嵐が丘』礼賛者のわたしにとって宝のように思える。自然の中ではしゃぐエミリー。犬を愛していたエミリー。床に座っていたエミリーとエレンのあいだに割りこんできた犬の扱いによって、彼女はエミリーの信頼を得たという。



 異質なものが排除され、同質なものとの世界がつくられている。ジェインは結婚も恋愛も友情も財産も手に入れる。ロチェスターは男装した女性ではないか。
 と思っていた『ジェイン・エア』を再読してみた。……記憶よりずっとつまらなかった。
 ウェブスターの『私のあしながおじさん』には「これこそ純粋のメロドラマです」とある(厨川圭子訳)。しかし、キャラクターもせりふも、決められたもののよう。割り当てられた役が動き回っているよう。
 辻邦生さんが「わたしが前に『ジェーン・エア』の偉大さを見落としたのは、やはり家庭小説という面を側面を否定的に見ていたためだったかもしれません」と書くのももっともだ。(『手紙、栞を添えて』)



 『風景のブロンテ姉妹』(アーサー・ポラード文、サイモン・マックブライド写真、山脇百合子訳)、『ブロンテ文学のふるさと 写真による文学鑑賞』(中岡洋・内田能嗣編著)を買う。
 どちらも写真が多く載った大判の本。
 いまの生活をやめて、ムアの広がるヨークシャー地方に住みたい。春夏秋冬。
 こうも思った。わたしが『嵐が丘』や『赤毛のアン』を愛読しているのは、ストーリーもさることながら、美しい自然とのつきあいが描かれているからだ。子ども時代、どんなふうに、自然からの幸福な恩恵を受けていたか。そして、幸福な結婚。
 後者はディズニーランドのシンデレラ城の窓から人形が出てきて、「シンデレラはすばらしい庭を手に入れた!!」とか叫んでいたのと同じ。小説のヒロインは、とくに『赤毛のアン』は、結婚によってその土地、美しい風景との生涯の結びつきを得ることができる。むかしの小説で、結婚は仕事と家財の獲得であり、広くて美しい庭=田舎の永住権(グリーン・カード)の獲得みたいだ。
 (作者のモンゴメリは、生きていくためにその後プリンス・エドワード島から出て行かなくてはならなかった。その点からも、『赤毛のアン』が夢物語で、ある意味、傑作ではないのがわかる)

 わたしはますます、いま住んでいる場所が好きだ。里山に囲まれた村で、田んぼはいま、緑の苗のそよぐ水辺。夜、窓から聞こえる、ぽこぽこと水路と通っていく水の音。近くに標高500メートルの山があって、登山道と遊歩道が整備され、送電線の下には、東京電力の小道が通っている。
・・・・・・・
 まえは、保坂和志『季節の記憶』の鎌倉みたいな所に住みたかった。だって、ここには自由と文化のある都会がないし、自然破壊はすごい(自然公園は保護ではなく「新たな自然作り」になっている)
 でも、ブロンテのイギリスの小村、モンゴメリのカナダの島のように、すばらしい場所は世界に一箇所ではないし、その価値は等価であるように、偶然、受け身で出会ってしまった今の場所こそ、私には大事な場所なのだと思う。
 まあ、「住めば都」「おらが村自慢」の話ではあるが。



 『全集樋口一葉』(小学館)全4巻を購入。午後、一葉の日記を読み、昼寝。起きてまた読む。
 牛伏山を散歩する。ふもとは、水路を水が音をたてて流れていて気持ちいい。まわりの里山からは鳥の声。
 しかし、雨の後の牛伏山登山道は、水たまりもあるし、ぬかるみを多い。田舎を散策している方がおもしろいみたい。わたしは寒いとき以外サンダルが多いので。
 羽虫がうるさい。鳥もかしましい。クリの甘い香り。
 登山道は深山(みやま)を歩いているようでおもしろい。対して、遊歩道は道が広く明るい。
 コアジサイはおわり。
 お腹が空いた。オレンジ色のモミジイチゴが目に入り、食べる。あまりない。
 白くぽやぽやしたアカショウマが咲いていた。白いヤマアジサイ(ガクアジサイ?)もあった。
 約2時間の散歩。







 赤谷ため池(ドリームセンターのふもと)から牛伏山登山道へ。トンネルのように覆っている桑の木のしたには、黒いドドメがたくさん落ちていて、におった。川を渡った杉林の道にはまた水たまり。
 登山道は、林道八束沢線をすぎた、山のなかの三差路(看板がある)からがおもしろい。深い沢。水は流れていない。それを渡るとき(まるい土管がとおっている)、沢を見上げると、石が敷き詰められたようにたくさん転がっている。
 道を登っていくと、深い山を歩いている気持ちになる。
 白い花がたくさん咲いていた。ドクダミ(毒だみ)。
 県行分収造林のあたりは、杉林が美しい。
雑木林のほうが明るく、植物も多様性があるかもしれない。でもまっすぐに伸びた杉の林と、濃い緑色の草のとりあわせは、美しい。
 そこに赤い夕日が差しこんで一部を照らし出した様子は、荘厳である。わたしはこの風景によって、高校生のころ、漢詩の「返景 深林に入り 復た青苔の上を照らす」を実感したのである(王維「鹿柴」)。
 ろう梅の里から牛伏山遊歩道に入った。リョウブの黄色がかったふわふわした花、ムラサキシキブの花、つるにんじんのつぼみを見た。この日は赤いグミを食べた。
 赤谷集落のすぐそばで、茂みから、ガサガサと音がした。イノシシかもしれない。でも、怖くないと思っていたら、こちらの車道に向かってくるような足音になった。一気に怖くなって走った。



 夜、赤谷ため池へ行ってみたら、「ホタルの生息地」という看板が立っていてびっくり。人も多い。
 ホタルはたしかに多かった。こんなふうな公園になる前よりも。

 川辺の暗い木々の中で、何匹かが一斉に光る風景は美しい。明滅する様は美しい。