http://www.geocities.jp/utataneni/art/new.htmlで加筆訂正します
『生誕100年 清水刀根と中村節也』・常設展示「鶴岡政男」・常設展 群馬県立近代美術館
『新井淳一 進化する布』が目的で行ったら、一室しかなかった(展示室5)。
・・・・・・いや、本当はバッグ・袋をいろいろ買いたくて、まえから予定していた。「観覧」する「観客」でいるよりも、ふだん使うために「商品」を選びぬいてお財布から虎の子のお金をとりだす「消費者」でいることのほうが快楽だから。
それなのに、ミュージアム・ショップには、わたしが欲しい銀糸入り薄手のものは、もう持っている巾着タイプしかなかった。ふだんバッグに入れている。あと、わたしが楽しみにしている株式会社「布」(NUNO Corporation)の新しい商品も見あたらなかった。
とはいえ、展示はよかった。
隣室の『鶴岡政男』において、この画家の遊びの心に浸った人々は、日輪のデザインされた暖簾(のれん)をくぐって、まったく別の空間に入ることができる。そうすると、キラキラというより、ギラギラした光を無秩序に反射、放射する巨大な布が目に飛びこんでくる。
プリーツのついた、金銀のそれが壁にかかり、天井から下がり、床にも円形に置かれている。
金と銀のひだが放つ光のゆらめき。こういうの、好きだ。
これこそ現代のRIMA(琳派)、数寄者たち、新しい茶室かもしれない。ゲストを迎えるへや。織田信長の安土城の障壁画の広間や、豊臣秀吉の金づくしの茶会、茶道具のオドシ(威し)的な装飾ともちがう、ダイナミックで風通しがよく、快い空間。
教会あら奥にある祭壇(十字架にかけられたキリスト像がある)、寺院なら暗い内陣、仏壇を想起させる配置には、これまた巨大な金色の布。まるで壁。近づいてすぐそばで見ると、金属、ブロンズの人物彫刻の衣紋のようだった。
これを展示する様子をうつしたスライドもおもしろい。ちょっと話はそれるけど、設営された方々は、展示品とは対照的な、シンプルで落ち着いた、植物系の服を着ている。そういえば展示作品は、金属系というか、鉱物系である。
・・・・・・そういえば、わたしはアルミホイルのさいごの切れっ端や、チョコレートなどのお菓子の金色の包み紙が目にはいると、理由なんかよく考えずに取る。美しいから。机の引き出しには、そんなふうに仕舞いこまれた“紙”が詰まっている。
いままで、好きだけど、意味のない“紙”のように思っていた。でも、この作品展に関わった人々は、わたしみたいな人なのかもしれない、とずうずうしくも思った。
出口にむかう廊下にかかっていた、銀色のウロコがついたような布に惹きつけられた。さわってみたい。
帰宅して知った。それは可能だったらしいのだ。「“触らないで下さい”って表示なかったでしょ?」 ガーン。一生懸命、入り口出口ののれんに触れてきたわたしだった。
つぎによかったのは、常設展示「鶴岡政男」
ふだんいいなと思っている、カンヴァスの油彩のほかに、パステルで紙に描かれている、石川淳の本の挿絵の原画群がよかった! すごくよかった!
『かよい小町』『処女懐胎』『葦手』『マルスの歌』
あと、やはりパステルで1964年の「こだま」 ユーモラスな黒い男の子(坊主)みたいなイメージ。
それから、1960年代、茶色いコンテで紙に描かれたという素描「裸婦(8)」(Female Nude)。大きな目と乳房が印象的。いつか自分の本に使いたい、とか思ってしまう。本なんか書く予定もないのに、たまにそう思わされる絵がある。高山良策の灰色い鉛筆画「わたしを見てよ」(?)とか。
特集?「生誕100年 清水刀根と中村節也」
清水という人に惹きつけられた。たとえば、女性のまるい目が魅力的な「黒衣の女」。ピンク色の服を身につけた少女が印象的な「人々」。端正な構図、落ち着いた色彩が快い「屋外レストラン」、これって静物画っぽい。いちばん気に入ったのは、ヨーロッパのルネサンス以後にありそうな「壺」。女性が3人、ブドウのつるの垂れる石窓のところにいる。端正なフォルム、じっくりとした色彩。
中村はまったく画風がちがう。「豊岡達磨」で転がっている赤いダルマは、異様な印象を与える。この強烈な絵は、高崎市が所蔵するべきだろう、とか勝手に思う。
「花卉水庭」 布地、テキスタイルみたいな絵。
気に入ったのは、濃い赤いかたまりがどーんと大きく置かれている「遺跡(アリゾナ)」。自由でいい。
常設展示
まず、湯浅一郎の朝鮮の建築物や、風景、伝統的な装いの女性を描いた絵にびっくりした。こういうのも描いていたのか。
でも、日本人を描いた例の夕涼み(? 温泉地の旅館みたいな窓辺で、うちわを持った女性がいる。女性は浴衣である。足元の畳には、カバーの掛かった文庫本?が
ころがっている)に似ているところがある。
それは、ぴしっとしていない姿勢。ちょっと、ぼーっとした眼差し。記念写真のようにカメラにむかう姿勢とはぜんぜんちがう。カメラ(とくに写真館の)むけは「表」といえるかもしれない。
なんとなく、人間は記念式典むけの姿勢、顔ばかりとっていなくちゃならないように、わたしは思っていた。でも、こういう気の抜けた、物憂いような、元気のない姿も、つねにあるものなのだ。そういう人生の一瞬があるのだと気づかされた。
横堀角次郎の自画像。すごい目つきに、関根正二を思った。やっぱいい。赤と白のダリアの挿されている「静物」も。
福沢一郎。「虚脱」 青緑色の空に輝く白い大きな星々がやっぱり好き。
志村ふくみの着物。前とは一転、見れるようになった。
山口薫「金環色(蝕)の若駒」 立っている馬たちが朱色で、太陽が緑色の絵。これ、群馬県の県旗にしたらいいのでは、と余計なことを思った。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)のくすんだ少女像。代表作である、真っ白い肌の女性像をおもうと、この灰色の少女は日本人なのかもしれない。いつまでも近美(キンビ 群馬県立近代美術館)に座っている少女だ。
南城一夫「仔山羊のくる部屋」 このかわいらしい生き物は、近美のマスコットだ、と思っている。
湯浅に惹きつけられたけど、やっぱりパスキンの絵のほうがずっと好きだ。
この1年間の展覧会ですばらしかったのは、遠藤彰子さん(展覧会名)、大谷有花さん、鴻池朋子さん。
ぜんぶ絵画なのは、偶然だと思う。
全員女性なのは、偶然か、わからない。
ともあれ、いまのわたしが釘付けにされる作品だったnoda
。心が高ぶり、心のなかの世界に強い風が吹き抜け、闇のなかに明るい光がひらめくような“空間”だった。清々しく、新しく、先鋭。
大きな画面には、見たことのないものと風景が描かれていた。でも、とても魅力的。「自分は今、こういうものを必要としていたのだ」と強く感じた。
そういえば、この3人が出品されていた展覧会のカタログは3つとも持っているが、いちばんは、この3人の作品、作家性の輝きのためだろう。