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チャーリーと英詩、永瀬清子さんの詩

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します



 エリートの寄宿男子校にやってきた新任教師(といっても若くない)の破天荒な英文学講義に惹きつけられた。生徒たちはアイビーリーグ進学のため、日夜知識をつめこまされている。親の跡を継いで医師や弁護士になるつもりだったりして、なかば諦めている。
 教師キーティングは彼らに、学者による文学理論を棄てさせ、創作を勧め、戸外で体を動かさせる。
 登場人物たちが口にしたり、音読する詩句もいい。
 「わたしが森に引きこもった理由−−それは、大地に根ざした暮らしをしたかったからだ」(ソロー『森の生活』)

 石造りの構内の、秋の紅葉した樹木が美しい。
 個性的な生徒のなかでは、早熟で生意気なチャーリー・ドルトンに強く惹きつけられた。講堂の生徒の列の中から電話が鳴る。リンリーン(ダイヤルをまわす、なつかしい黒い電話)。校長に受話器をさしだすチャーリー。「神様からの電話です」
 隠れ家の物置(トランク置き場?)で間を置いた後、キャメロンをなぐるところもかっこいい。しかし、この俳優さん、ほかに有名な役はないようだ。
 「ヌワンダ」の使い方もいい。

 ストーリーは、とちゅうからたるい。教師のキーティングではなく、生徒ニールが父親に逆らえず、ピストルをとって死ぬ。自殺。ここも古い感じ。古風な感じ。キーティングはあまり存在感がないし、役に立っていない。
 それにニールのパック(シェイクスピア『真夏の夜の夢』)、そんなにいいか? 
 舞台が1959年であることにびっくり。なぜこんな古い設定なのか。
 テーマは若者と学校・学歴偏重、規律の対立かもしれない。ラストの、トッドをはじめとする生徒たちがつぎつぎに机に立って、「船長」とキーティングに呼びかけるシーンは有名らしい。でも、そこでは校長一人が悪者にされていて、スケールが小さい感じなのだった。
 舞台は、イギリスでなくアメリカ、バーモントであった。森と大きな川が美しい。それから月夜、雪の描写。寒いと思っても、雪にふれたくなった。
 原題もいい。「Dead Poets Society」
 ゲイル・ハンセン(チャーリー)、ロバート・ショーン・レナード(ニール)、イーサン・ホーク(トッド、『ガタカ』の青年だったのか。この気弱な少年役は)、Allelon Ruggierto(ラテン語が得意で赤毛のミークス)、カートウッド・スミス(ニールの父親。息子に賭けている)、ロビン・ウィリアムズ(教師。『グッド・ウィル・ハンティング』でも少年を導く先生役だったなあ)
 脚本トム・シュルマン、撮影ジョン・シール、監督ピーター・ウェアー
 『いまを生きる』 1989年、アメリカ



 後日、小説を購入(N・H・クラインバウム、白石朗訳、川本三郎訳、新潮文庫)。
 予想通り、映画で引用されていた言葉を確かなものにすることができたし、出典などの情報を得ることができた。それに、いままで近づこうとも思っていなかった英文学の詩に親しむチャンスになりそうだ。
 しかし、外を行進する生徒がつぶやかされていたラテン語「ラピスは石」はなかった。
 また、細部は映画のほうがすばらしい。この本は小説としての価値には欠けるように思う。映画はたしかに芸術だった。
 小説を読んでいると、映画の少年たちのみずみずしさが思い出された。顔や姿態の動き。ひとつひとつの言葉や何気なさそうなしぐさが、見る者(わたしたち)に鮮烈な感じで与える意味。
 それから青白い月夜や、山林と白い雪の映像。
 ニールを喪ったルームメイト・トッドが嘔吐する、大きな川岸の雪原。
 トッドが両親から贈られた「デスクセット」(前年とおなじプレゼントである)を、ニールが飛ばすところも小説にはない。「空を飛ぶデスクセットなんだ」(といって捨てるのだ)
 いまでは大半が無名に近い俳優たちだけど、有名なロビン・ウィリアムズではなく、少年たちが主役の映画だったと思う。『マイティ・ダック 飛べないアヒル』のように







 『詩のこころを読む』(茨木のり子)の「諸国の天女」を再読した2月下旬から、よく永瀬清子さんの詩を読んだ。その本に載っているもう一編の「悲しめる友よ」や、1996年に石川県金沢市に行った後買った永瀬さんの詩集『あけがたにくるひとよ』も読んだけど、「もっともっと」と思い、思潮社の現代詩文庫を借りてきた。
 ノートに書き写すようになった。大学の授業で「グレンデルの母親は」に出会っていいとは思ったけど、晩年の詩に惹かれていた。
 しかし現代詩文庫を読んでいたら、初期の詩に夢中になっていった。たとえば、『大いなる樹木』の「そよかぜのふく日に」、『美しい国』の「夜に燈ともし」、『焔について』の「女のうたえる」「梳り」「わたしは」「野薔薇のとげなど」「焔について」
 自分を刺すような清らかな詩句。自分をすばらしいもの、尊いものとして表現していながら、それが自慢に堕落していない語群。
 詩は言葉が少ない。わずかな言葉でたしか意味を放っている詩というもの、言葉のすばらしさにもうたれた。

 ところで、永瀬さんはこんな詩も書いている。
 「よい生涯を生きたいと願い
  美しいものを慕う心をふかくし
  ひるま汚した指で
  しずかな数行を編む」(「夜に燈ともし」 『美しい国』所収)
 「数行を編む」
 それに対して、わたしは大量のだらだら駄文を書いている。



 『ルネサンスの画家 ポントルモの日記』(白水社)につづいて、井坂洋子の評伝『永瀬清子』(五柳書院)が古書店から届くと、こんどはその本を読んだ。3回読んだ。
 永瀬についての発見、評伝についての発見。
 学生時代、わたしは論文言葉を嫌悪して、その言葉は自分の言葉ではない、言いたいことが表現できないと思っていた。でもそれは、「書けないこと」の言い訳だったのではないか。ふつうの声で自由に語ればいいのだ。
 だからこの本はいろいろなことを、今まで気づかなかったところから教えてくれた。新鮮な水のような本である。
 たくさんのページの端を折ったことも、線を引いたことも後悔していない。もっと中に取り入れたいと思っている。


 このころ、「本があってよかった。美しいものがあってよかった。音楽があってよかった。」と思った。