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怪物、人魚、生き返ること

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します



 ミュージアム・ショップで買った『アート・ライブラリー ブリューゲル』(キース・ロバーツ、幸福輝訳、西村書店)を読みおわる。
 ヒエロニムス・ボス(ボッシュ、ボッス、Bosch)を思いださせる怪物の絵に惹かれる。
 人間と動物、あるいは道具・器物が融合された生命体。それらは気持ち悪いものであり、天使に退治されるべき悪、堕天使として描かれている。でも、ボスの絵もそうだけど、人間よりも、彼らのほうが幸せそうに見える。
 彼らの仲間になりたい。
 ブリューゲルの化け物は、影響をうけたボスのとすこし違う。ボスの怪物は、なめらかな感じがするし、描かれた絵の世界にとけこんでいる。『THE COMPLETE PAINTINGS BOSCH 』(Walter Bosing、TASCHEN)をみると、彼は、子どものころから、こんな絵が好きだったみたい。
 ブリューゲルは、人間を主体にした絵ばかり描くようになる。そこは、奇妙な生き物たちが遊んだり、戦ったりはしていないこの世。奇妙な生き物たちには日常生活がない。いつも戦争とか地獄、祭り(カーニヴァル)とかの非日常の中にいる。

 バベルの塔や、田舎の農民の生活を描いた絵も好きではある。食べ物、飲み物が美味しそう!
 でも、本『ブリューゲル』がわたしに与えてくれた一番のものは、奇妙な生き物たちが跋扈するイーゼンハイムの祭壇画(グリューネヴァルト)へ行けるかもしれない、という期待。後押しをしてくれたのだった。




 ウィリアム・シェークスピアが気になっていたので、楽しみにしていた映画。
 あらすじ・解説に目を通すと、天才的な言葉の魔術師に関心を寄せる人間にとっては、うれしいような部分がたくさんあったことを思い出す。たとえば、エリザベス朝の劇場のありかたとか、海洋的な広がりをもった『十二夜』の背景、ロンドンの様子とか。
 でも、主人公カップルの中心的なストーリーはあんまり。

 俳優マキューシオ、劇作家(戯曲家)クリストファー・マーロウ(マーロー)のほうがかっこよくて魅力的。骨張った老女で、金銀の豪奢な衣裳・アクセサリーをまとったエリザベス女王もよかった。

 いちばん印象に残ったのは、ラスト。白い浜辺をヒロインが、緑の広がりに向かってただひとり歩いていく。それがちょっと長く映される。美しい。
 それはともあれ、彼女が“新大陸・新世界”に渡ったのは、あの貴族と結婚したためで、それって幸せなのだろうか。彼女が運命を受け入れ、決意したとしても、彼女が自立した人間であっても、好きでもないし、恋人(しかもシェイクスピア!)より劣る人と結婚するということ。
 いまの政財界にもつながるアメリカ東部の名家になっていくのだろうが。

 そのヴァイオラが『Emma エマ』(1996)、 『ダイヤルM』(1998) のグウィネス・パルトロウだとは気がつかなかった。相変わらずガイジンがわからない。

  ベン・アフレック(ネッド・アレン、劇中劇『ロミオとジュリエット』のマキューシオ)、ルパート・エヴェレット(マーロウ)、ジュディ・デンチ(女王)、コリン・ファース(公爵。ファースだとは気づかなかった)、ジョセフ・ファインズ(シェイクスピア)

 脚本マーク・ノーマン、トム・ストッパード、監督ジョン・マッデン
 第71回(1998年度)アカデミー作品賞、主演女優賞、助演女優賞(デンチ)、オリジナル脚本賞、美術&装置賞、衣裳デザイン賞
 『恋におちたシェイクスピア』 1998年、アメリカ





 牛伏山の遊歩道を散歩。
 したには白い市街地が広がっていた。遊歩道はもう日陰だけど、日の当たる山、集落はあたたかそうだ。

 まだ雪がのこっていた。そこに、わたしとは逆に車道から歩いてきた足跡が続いていた。

 あたりの斜面をみると、倒木や折れた枝が目立つように思う。今冬は雪が多かったためか。
 黄緑色の若葉を発見。うれしい。ふもとでも前から春の気配を感じていたけど。
 つやつやした暗緑色のシャガの葉や、赤いビーズのカーテンになっているヒヨドリジョウゴの実、ますますオレンジ色になったコケ(苔。岩に生えている)。

 ふもとの沼にも行く。人家から離れた山に囲まれた沼で、きょうも誰もいない。
 もう白い氷には覆われいず、濃い緑色の水をたたえていた。さざなみが白い枯れ草の岸に押し寄せていた。近くで小鳥が鳴いた。





 翌日、夜10時ごろ散歩。
 東の空には牛飼い座のアークトゥールス。春を感じた。北斗七星のひしゃくの柄のさきの、その明るい星のほかに、さらにそのさきに乙女座スピカ、明るい巨星・木星もあったかもしれない。

 月夜だった。歩いた田んぼも、丘の上も青白くて美しかった。光源をたどってみると、上を仰ぐことになった。ちょうど天頂に月があったのだ。美しい月だった。
 あまりに快かったので、翌日も散歩した。

 いつも、人とは変わった人間でいたかった。人とはちがう部分を嘆くようでいて、それは自慢だった。

 アンデルセンの童話の人魚姫は、美しい声を失う。地上を一歩をあゆむたびに痛む足を得る。それでも、“人間”になりたかった。

 引き換えに失った美しい声は、わたしが子どものとき思ったようなコミュニケーション・意思の疎通、あるいは美貌と等価な女としての利点ではなく、自分らしさを伝える自己表現の手段なのではないか。

 自分らしさを手放してでも、棄ててでも、人になりたかったのだ。

 このころ、強く願うことがあった。わたしも、普通の人になりたい。すばらしい絵、美術にも、すばらしい小説、文芸にも、山、自然にも興味をもたない人に。
 しかし、わたしは老いても月夜の散歩を愛することをやめられないだろう。本を読むことも。理想に憧れることも。

 たとえば、これから料理とかお菓子作りとか、生活を、もっといえば人生を豊かにするような家事を好きになる。多くの人が見るテレビ番組を好きになる。文学的な作品は読まない。“変な、気味悪い”“美的基準の狂った”絵は見ない。

 ……そんな人間になれっこないではないか。自分はいつも天の月や、窓の外の青空に憧れてしまうのだから。
 永瀬清子さんの詩「諸国の天女」を思い出した。
 あとで読んで、泣いてしまった。詩で泣いたのは初めてだ。小説でも泣いたことはないかも。




 カエル(アフリカツメガエル)の骨格を手に入れられるかもしれない、と胸を弾ませていた。

 牛伏山の遊歩道で黒いモグラの死体に触れたことがある。すばらしく心地よい毛皮だった。また死体が転がっていたら、手を伸ばしてしまうだろう。

 わたしの机の上には石や、枯れた植物や、実や、鳥の羽が置かれている。道で拾ったタマムシ(玉虫)を飾っていたこともあった。

 こんどはそこに骨を加えようとしている。こういうのって、魔女っぽいかもしれない。

 しかし、人に忌み嫌われる死と関わっても、人間に役立つことを発見したり生み出せば、錬金術師、はては化学者、医者、発明家、科学者とされ、尊敬される。デザイナーとして、草花や樹木、石(とくに宝石、貴金属)をもちいて美や快さを提供してもおなじだ。
 快楽をひとり大切にしているだけだと、魔女・マジョであり、もとはおなじ対象をあつかっている科学者などから迫害されるのではないか。

 ともあれ、「畑に埋葬した犬を掘り返せば、哺乳類のりっぱな骨格標本が手に入る」と気づかされたのだった。

 これはいままで考えたこともなかった。

 想像していたら、わたしは畑の柿の木のしたの石をどかして、土を掘りかえし始めた。すると、目のところが黒くあいた頭蓋骨と白い骨格ではなく、生きていたときと同じような毛皮があらわれた。いな、生きていたうちで、もっとも美しかったころの毛並み。色鮮やかでつやつやとして。

 毛は日光が当たって、ほとんど金色といってもよかった。穴の中にふきこんだ風にそよいだ。

 体にふれると、あたたかかった。そのうち脈打って、お腹が上下しはじめた。息をしているのだ。閉じられていた目が開いた。うるんで、生きていたときと同じつぶらな瞳。
 まるで昼寝の後のように、起きあがり、あくびをした。後ろ足を伸ばした。それから今度はぐーんと前足を伸ばした。

 わたしは犬を甦らしてしまったのだった。あれほど執心していた、物として惹きつけられていた生き物の骨のことは、もうどうでもよかった。

 地上に生き返った犬にほれぼれとしていた。幸福だった。

 もし現実に蘇生の方法があった場合、(クローン技術はもう使われているが)、それを拒否する理由がわからなくなった。

 なぜこの広い広い世界の一隅で、山あいの狭い田舎で、犬一匹、生き返らしてはいけないのか?

 翌日、生き返った犬とわたしが緑なす野原で遊ぶ写真が思い浮かんだ。写真だけなら、幸福なじゃれあいだ。しかし、犬は甦らしたものである、という説明を加えると、気持ち悪くなる。その気持ち悪い感覚を大事にしよう。

 もうひとつ思いついた方法は、実際に掘り返してみること。そうすれば、土中には風化した骨しかないことが、現実はこうだということが、はっきり突きつけられるだろう。
 ヒースクリフが墓を暴いたとき、キャサリンは生きていた時さながらの美しい顔をしていた。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』はやはりすばらしい。






 この出来事で思ったこと。
 わたしは犬が死んだことを悲しんできたが、とうとう犬を生き返らすところにまで至ってしまった。よみがえり、という甘い誘惑から逃れるのは簡単ではなかった。
 でも、犬はただ甦って、生前の暮らしが続くのではなかった。犬は生きていたうちの最も美しい壮年の姿で現れた。そして、犬を失って後悔していたわたしは、今度はもっと幸福な生き方を目指すだろう。

 悔いや悲しみや憎しみといったマイナスの思いを消失させ、美しくはない過去を塗り消し、新しい「幸福」な人生をお手軽に始めることになるのだ。

 これまで犬を愛しているとき、犬の死を悲しんでいるときの自分の感情は、美しく思えた。人に話していても、気持ちを高ぶらせた自分はよい人間に思われた。

 昨今の映画や小説の純愛ブームを、いつものごとく批判的にみていた(源氏物語の「御法」で紫上が病死するシーンは、まさに純愛のパターンを踏襲している、とドキッとしたのに)。しかし、この乾いた灰色の時代で、自分だって、いい人として生きたかったのだ。

 いわば自分のつくった“ファンタジー”の中では。ふだんの現実では迷ってしまって、正しいかっこいい美しい生き方・感情なんて選択できないのだから。

 たしかに愛しているとき、悲しんでいるときの感情・思いは美しいし、愛している人間、悲しんでいる人間は美しい。

 でも、わたしは犬の死から、すこし離れようと思う。愛していた犬をもちいて感情におぼれることから、すこし離れようと思う。